それは、登校時に通りかかる川を眺めることだ。
近所の川は、春にはサクラマスが、秋から冬にかけてアキアジ(秋鮭)が上る。
そして、アキアジが上る頃には、近くの木々にオジロワシやオオワシが止まっていることもある。
それらを見つけた日には、帰宅するなり嬉しそうに報告をした。
その付近でヒグマを見かけたときには、腰を抜かし、真っ青な顔をして、命からがら逃げ帰ってきたこともあった。
川の流れに逆らうようにして、力強く尾鰭を振る様子は圧巻だ。
彼らよりも何倍もの大きさを持った人間でさえも川の流れに逆らって上っていくのは難しい。
水は、変化自在で、神出鬼没なとても神秘的で、そして恐ろしく、同時に不思議な物質だなあと私はつくづく思う。
その想像もできない世界の中で、彼らが、人間には絶対に体験も解明もできない生き方をしていることに、息子は単純に美しさを感じているのではないかとも思う。
美味しんぼの回で、一番好きなのは、岩手から上京してきた青年が、自分の訛りを恥ずかしく思い、言葉が話せないせいでいろいろなバイトを首になるという話だ。
しかし、山岡さんが紹介してくれた焼き芋を売るバイトで、得意の民謡で培った声量と珍しい訛りある言葉で人気になり、お客さんがたくさん来るようになって、自分の故郷を誇りに思えるようになる。
都会に行けば、バカにされがちな田舎者でも、自分には、そこにしかない自然とそこで培わてきた唯一の文化があるという誇りがあれば、どこへ行っても生きていけるような気がした。
そのことに気付いたときに、自分が生まれ育ってきた場所こそが、唯一の自分というものを作り上げてきたものなんだと思えるのだった。
それが、自分の根っこのようなものであり、ふるさとというものが持つ、深い愛であるような気がした。
息子にはきっと、それがある。
こう言うと大袈裟なのだが、見続けてきた鮭の遡上には、命を次世代に繋いでいくという死を乗り越えた希望がある。
鮭は、海から森に養分をもたらし、ワシたちは、彼らの最後を無駄にすることなく、自分たちの命を繋ぐための糧とする。
凍てつく朝の寒さの中で、川は私が見ていないうちに、その水面を徐々に閉ざしていた。
しかしこうなってもまだ、鮭は生まれた川に戻ろうとする個体が存在しているのだ。
力強い命の最期だ。
グッとくるよな。我が息子よ。
その理由を探すことが、無粋だと思えるくらいに。


