静かな生活 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

自分は特別な人間ではない
自分は特別な扱いを受けない

なんでもない人として生まれてきて
なんでもない人として生きて
なんでもない人として死んでいく

なんでもない人として生きていれば
死ぬ際にも余裕を持って
ゼロに帰れると思うの

ほとんどゼロに近いところで
生きていた人がゼロに帰るんだからね

低い低い平たい階段を
一段だけ降りるように
何気なく死んでいくことが
できると思うのよ





  
  伊丹十三さんの作品がすこぶる好きである。
  たんぽぽとスーパーの女は、何回も見ている。
  どこが好きかと言われても答え兼ねるが、わかりやすさの中にも、見終わったあとに何かを考えさせるような余韻があるからとしか言えない。

  たんぽぽもスーパーの女も、どこにでもある日常の中で、ふとした人間の温かみのようなものがあって、それは障害を持っていたり、どこか不器用な性格の登場人物が放つゆったりとした、純粋なセリフで色濃くなった。

  人は他人とは違う部分が人と比べて優れていればいるほど、自分に誇りを持てるものだが、同時にその部分が、人を苦しませるものだなあとつくづく感じる。

  静かな生活の中で、知的障害のイーヨーという兄を持つまあちゃんは、両親が海外に移住している間、面倒を見ているのだが、その両親の友人であるイーヨーの作曲の先生夫婦に何かと助けてもらう。

  その夫婦はとてもいい人たちなのだが、時々、イーヨーの面倒を見ているまあちゃんのことを無意識のうちで自己犠牲を払っていると感じているようなことを言うのだ。

  しかしその度まあちゃんは、自分はイーヨーが障害を持っていなかったらとは考えたことはない。と言い、夫婦はまあちゃんは、自分の人生を引き受けているだけなのだと言って、自分たちの無意識の偏見のようなものをそのたびに謝る。
 
  まあちゃんは、イーヨーのことがただ大好きなのだ。
   そこにはイーヨーのような人が周りにいない人には味わうことのない苦労もあるが、イーヨーのような人がいるからこそ、感じられる世界がある。

  そう考えると世界はなんでもない人の集まりであるとただ思うのだ。
   自分の人生というものは、他人にどう思われようが、ただそこにあるだけだ。

  ただどう思われるかは変えられないが、自分や、自分の愛する人が、侮辱されたり、傷つけられる場面に黙っていることができないのが、人間の愛おしさであり、同時に愚かさなのだろうと思う。

  純粋なまあちゃんは、歪んだ愛に傷つけられる。
  イーヨーは、自分の大事なまあちゃんが傷つけられようとする場面を救う。

  今の時代の知性って、使われ方が間違っているんじゃないかと時々、私は思うのだ。

  イーヨーの面倒を見るまあちゃんは、あの夫婦が思うように、私からすれば大変だなと思うのだが、生まれたときからイーヨーがそばに居るまあちゃんにとっては、それが普通なのだった。

  あんなに気持ちが通じ合わないと思っていた娘が、いつのまにかびっくりするぐらい文章が上手くなっていた。

  記事に書いてあった障害者施設での実習での感想に自然と、勝手に、泣けてくる。
  
  自分は、人の気持ちを察することができないけれど、自分がバカにされている雰囲気は感じられる。
  不器用な人間をバカにしないでください!

  忘れたけど、そんなようなことが書いてあって、そうだぞ。おまえは人にバカにされるような人間じゃない。と心で強く思う。
  
  笑顔がまったくなくなった日々や、毎日泣いてばかりの日々が、娘をこんなにも頼もしくさせたのなら、それはそれで、実はとても素晴らしい出来事だったんだろう。