カルマ | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  娘が帰宅してから、バズーカ砲のように喋り続けている。

  なんだか最近、娘らしくない。
  いつもどこか冷めていて、虚無感とお友達であるかのように自虐的であるのが娘の普通の状態なのに、なんだか妙に楽しそうな時もあれば、ふわふわと落ち着かない様子のときもある。

  キッチンのカウンターテーブルに腰掛けて、相変わらずいつでも勉強道具を広げているけれど、自分の心の所在がよくわかっていないようにも見えた。

  人にどう思われているかが気になる。
と言うから、
 どう思ってるのか聞けばいいじゃん!
と、めんどくさくなって吐き捨てると、

  期待した答えが返って来なかったら、立ち直れない!
と怒っていた。

  まあ、そりゃあそうなんだよね。
  自分が自分でいい。
  自分のいいところもダメなところも等しく受け入れて、過剰に否定することも愛することもせず、誰かに好かれなくても、誰かを好きでいられる自分の方に意識を向けられれば、こんなに楽でいられることはない。と私は思うのだが、私だってこんなことを思えるようになったのは、ごく最近なのだ。



  執着と依存を繰り返して、人はさまよった自分を取り戻していくんだろう。

  自分が植え付けられた余計な洗脳を私はきっと、娘に知らずに押し付けていたんだと思うことがある。

  そういった事柄のことをきっとカルマとか、そんなふうに人は呼ぶのかもしれない。

  自分の意思では選べない遺伝子の構造の他に、生まれた場所にある変えられなかった文化の価値感。

  悪いカルマを断ち切って、アイディンティティーを構築して欲しかった。

  自分で変えられないものと変えていけるものを見極めていくのが人生だ。

  ひとつの言葉にはいろんな意味があって、それは自分の捉え方ひとつで、傷にもなるし、気付きにもなるのだった。

  自由というものは、自分の捉え方の中にあるんじゃないか。

  例えば他人が自分のことを嫌いだと言ったとして、それに対して自分で自分の価値観を下げることもできれば、その人が自分を嫌いだと言った部分を解剖して、他人の目に映る自分のひとつの側面を知る材料にすることだってできる。

  感情は無意識に、愛する自分の味方をするから、時々ひどく残酷だった。

  それでも培ってきた知識と経験を丁寧に見つめていく過程が、選べない感情で発する反応の種類を変えてもいけるんだと思う。

  どんな自分もいつかは愛せる。
  そのことはどんな他人もいつか愛せるという過程に繋がっていくんだと思い始めていた。

  自分に特別な存在がいることは、平等ではない世界があることの証なのだった。

  だから、世界はとても残酷で、ひどく美しい。 そんな両面性で現実はできているのだと、私はいつもただ思う。そこに善悪をつけることなどなく。