どの絵も人が描かれている。その一人一人が誰なのかを先生が文字で書き加えていた。
ほとんどの絵は、真ん中に自分がいた。
それは自分一人だけの場合もあり、自分を大きく描いて、その周りに小さく友達がいるものや、真ん中に自分がいて、その周りの友達も自分と同じ大きさに描く子もいる。
そして一人だけ、友達を画用紙全面に散りばめて、それを眺めるように自分を左下に小さく配置している絵があった。
絵を描いた子どもたちのことを思い浮かべると、その理由がなんとなく腑に落ちた。
自分の思い通りにいかないことでよく泣きわめく子や、反対に思い通りに行くまで無言の抵抗をする子。そういった子は、自分を真ん中に配置しているように思えた。
左下に自分を配置した子は、私から見ても大人に見える子だった。
わがままを言わないわけではないが、自分がわがままを言える大人を見極めているように見えた子供だ。
幼児の世界はおもしろい。
まだ大人が作った常識が身に付いていないことは、生まれ持った性質の違いが目に見えて顕著になる。
言葉を習得するスピードも理解度も個々でまるで違う。
そして今いる家庭環境の様子がその子の態度や言動に如実に現れるのだ。
職場では、あのおばさまが、物置の片付けを上司から命じられていた。
しかし、おばさまはそれをまっすぐに断った。
私はどうやって片付ければいいかわからないし、そんなことはその物置をよく利用する正職員の人たちでやればいいんじゃないかと言っていた。
しかし正職員たちは正職員たちで、この時期にしかできない仕事があるから、上司はある意味雑用である物置の片付けをこのおばさんに頼んだのだった。
おばさまは、ひとつひとつ順序立てて説明されないと仕事ができないみたいだった。
いつも怒る時は、自分が連絡されていない事柄に関してだった。
曖昧である部分を自分の意思で決めることが苦手なのだと思った。
しかし問題は、苦手な部分があることではなく、自分でどの部分が苦手であるのかを理解できていないことで、他人のせいにするからなのだと思う。
そしてそのことを周囲も理解できない。
人は物事の理解度を自分の理解度と重ねてしまうから、苦手な部分を隠されるとどうしてできないのか?とわからなくて、それはその人の努力不足だと安易に決めつけてしまうのだろう。
人には生まれ持った得意と不得意があった。
娘を表した円グラフのことをよく思い出す。
それは限りなくなだらかな曲線でできた丸ではないけれど、平均的であればあるほど、形はまん丸に近くなった。
娘を表す線は、その限りないまん丸から飛び出したり、逆に著しく下にへこんだりしていた。
そんなふうに娘の苦手が可視化されたことはとても良かったんだと今では思う。
それは私が見えなかった世界を分かりやすく見せてくれたものだったからだ。
しかし、可視化されなかった円を持つ人がこの世の中にはたくさんいるんだなって思う。
自分と世界を比べる基準は本来、人に優劣つけるものではなく、自分への理解を促し、他人への協力を仰ぐものだったはずだ。
それなのに苦手をまっすぐに言葉にされると、自分を無力な存在だと自分で決めつけてしまうから、抗って攻撃的になることは私にもよくある。
本当の自分は、絵の真ん中にいるのだった。
そしてその真ん中にいる自分が、そこから世界に飛び出していくと、自分は他人と同じ大きさになり、やがて、絵の端っこから他人を眺めるようになるのだろう。
自分だけを真ん中に描いて、周りに誰もいない男の子のことを思い出していた。
その子は、冬になっても、長いズボンを膝までたくし上げている。
ネックウォーマーや帽子を嫌がり、着けられてもすぐに投げ捨ててしまった。
彼にとってはいつもと違う衣服でさえも、自分の違和感でしかないのだろう。
みんなが我先にと園庭に飛び出していくのを玄関の扉の内側でずっと眺めていた。
行かないの?
と声をかけると、せっかく履いた外靴を放って、園内に戻ってしまう。
キミはどこにいるのかな。
世界はキミの目にどんなふうに映っているの?
そんなふうに心の中で尋ねた。
白い画用紙の中、ひとりぼっちで佇むこの子の世界に、それでもいつかは誰かが描かれるのだと思いたい。
ひとりぼっちで寂しいだろうと勝手に思う私の方こそ、自分の世界でしか生きられない一人でもあるというのに。
