私はそれに対して、「お疲れさま!」と返しますが、最近になって息子は何も言わなくなったのです。というよりも、本人はバイバイと言ってると言うのですが、私に聞こえないのだから、車外に出ようとする友人たちの耳にはその声はもっと届いていないのではないかと咎めました。
息子は言いました。挨拶って、必要か?挨拶されたら、返さなくちゃいけないの?
私は自分が今まで一体どんな子育てをしてきたのかと愕然としました。知ってる人に会ったら、挨拶をしなさい。これは、いいとか悪いとか、なんのために?とかなんて関係なく、社会で生きていくための習慣のようなものだと思っていたのです。
確かに人にどう思われるかを気にするなとは言っています。しかしそれは、自分をよく見せるために自分を飾らなくてもいいという意味なのです。
「挨拶するからいい人でもないし、挨拶するから友達でもなく、挨拶しないからってその人を嫌いなわけでもなく、挨拶しないからって嫌うやつならそれまでだなあ。」
息子はもう親の言うことに何の疑問も持たずに従う幼児ではありません。いや。コイツは二歳児の時から、親の言うことに素直に従ったことなどありません。同じ服を着たい!と保育園に行く前に洗濯カゴから昨日来た服を引っ張り出そうとする息子と毎日格闘していました。それが、常識を疑い始めた息子との押し問答に変わっただけなのです。
息子が挨拶を返さないことで友人に嫌われるか嫌われないかなんて、私にはどうでもいいことなのでした。私はせっかくありがとうと言ってくれたことに対して、お疲れ様という労いの言葉をかけることは、常識の前に人とのコミュニケーションを円滑にするための技術だと思っているのです。
技術だと言うと息子は怪訝な顔をするのだけど、そりゃあ毎回心を込めて、本心で口にする言葉じゃないと嘘みたいに思えて嫌なのはわかる。だけど、人ってそんなにいつも心が清らかでいられるか?
でもその清らかではない不機嫌さを自由に表に出すことで、関係のない他人を悪戯に不快にすることはないじゃないか。なんでもないふりをしてバイバイ!と言うことは、相手の気持ちを自分の感情で振り回さない思いやりでもあるんじゃないの?
正直でありたいのは、あたりまえです。人間関係はいつだって純粋な信頼で成り立っていたい。しかしその理想は、人の未熟な物質である感情というものにいつも邪魔されてしまうのです。
感情という、生モノで出来た材料。
まるで新鮮なフルーツみたいだって思う時もあります。
それは丁寧に作られて、パッケージされた日持ちのするジャムなんかじゃない。
口に入れるまで、甘いのか、酸っぱいのか、苦いのか、わからないものなんだって思うんです。
息子は挨拶をすること自体に疑いを持ってるわけではないのでしょう。自分が友人たちよりもストイックに部活に取り組んでいることで、友人たちが明るく挨拶できるぐらいの努力しかしていないんだと認知しているのだと思うのです。
だけど頑張るのは自分の勝手で、それを他人には強要できないことを知っているから挨拶を返すことの意味が理解できないことに変換する。つまり、息子は単純にイライラしたから、挨拶しなかっただけなんです。
そのことを私は教えてやりません。自分で探し、見つけて、気付く。その過程を簡単にもう先回りしたりしない。嫌われて、陰口叩かれて、人のせいにして、自分を責めて。それを繰り返して生きていけ。
しかし、私の虫の居所が悪い時はその限りではないんですけど。
