残酷な食事 | 想像と創造の毎日

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  家族を持つ、そして母親になるということは、独身の時とはまるで違うコミュニケーションスキルを持たなくてはならない。
  結婚したとたんに町内会の会合に参加しなくてはならず、その役割も男と女で分かれている。女の人の仕事は、葬儀の際の食事のお手伝いや研修旅行、新年会や忘年会などの企画などだった。
  それから母親になり、我が子を集団の中に入れると、今度はPTA活動に参加しなくてはならない。ここでも様々な行事のお手伝いを順番とはいえ、半ば強制的にやらされることになる。
  町内会もPTAも、人が社会に参加して生きていかなければならない以上、必要なことだとは思う。例えば、同じ町内会でどなたかの身内が亡くなったときに、今はお金さえ出せば葬儀会社は全部やってくれるけれども、そうではない人がいたら町内会が引き受けるのだ。遺族だけではできないことを近所の人達で助け合うこと自体は、とても大事な精神だと思う。PTAの活動にしても、お互いの子供たちやその親の顔を知って、声を掛け合えるぐらいの関係を保つのは、子供たちをみんなで見守るためには必要な気がした。子供は親がひとりで育てられるものではない。人は一人では決して生きられない以上、様々な経験を通して、いろんな価値観に触れる必要性があると思うからだ。

  どちらも互いに助け合うはずのための組織なのに、ひとたび女が集まると派閥のようなものができる。互いに陰口を叩き合ったり、もしくは牽制し合ったり。あげくの果てには特定の一人にいじめのようなことをしたり、手伝えない人の悪口を言ったり…という場面を散々見てきた。私もそれに全く参加していなかったとは言えない。むしろ、嫌だなと思いながら、強そうな人の機嫌を取るような態度を取っていたこともあった気がする。その時はそれが若い私がそこで居心地よくいるための苦肉の策であったにせよ、思い出すたびにそんな自分の狡さや頭の悪さに嫌悪するのだった。

  そんな集まりにはリーダーのような人が必ずいて、そこに何人かの取り巻きがいる。そしてそれを煙たく思う反対の勢力があって、どちらの相手にもされない被害者意識の強いクレーマーがいたり、どちらからも完全に関わることのない、敢えて孤立を選ぶ人がいる。

  トラブルの少ない集団というものには、その関係性の溝を埋めることのできる人がいた。どの人たちにも近付き過ぎず、距離を取り過ぎない。どの人の意見も否定することはないが、自分の意見を押し付けるわけではない。どの人も不快にさせない話術を持つ。集団に問題が起きても、それが大きな問題にならないのは、この大きな集団の中にできた小さな集団を繋げる役目ができる人がいるからだと思う。だけどその人は、誰よりも孤独に見えた。優しそうな顔はどこかいつも寂しそうに見えた。



いじめられたこともいじめたことも
なかった気がする

不器用を装いながら
きっと器用なんだ

そのことがどこか
薄汚れてるみたいに思えて
自分が不快だった

まっすぐに意地悪だったり
まっすぐにわがままな人
まっすぐに傷ついて
まっすぐにずるい人が
時々ひどく美しく見える

言葉にすればするほど
誤解が増えてく気がして
突然に極端に無口になる日もある

それは無言という名の
自分を構え!というアピール

そうだよ
私は私が一番好きで大事だ

私の邪魔をする者も
私を不快にするやつも
みんなみんな目の前から
いなくなればいいと思ってた

自分勝手になれない自分を
ごまかすために
持ち出している常識、倫理

自分の中にもあるそれを
目の前の人の中に見て、憎む

だから私は殺す
心を使って人を殺す

それは無視という
残酷な方法だ

誰かが殺した死体の上を
残酷な私が歩いている

過去にある傷だらけの人々の屍を
無知な私がついばんでいる