わたくし率イン歯ー、または世界 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

テレビを見ていると芸能人が俳句を作っていた。
五七五のリズムの中に言葉を並べる。
その単純に見える作業の中に
その人が日常の中で
どこを見ているのかが
垣間見えることがおもしろい。

言葉の響きと意味の向こう側に
人はその映像を見る。

テレビやマンガを読むなら
本を読みなさい。
そう言われて育ってきたけれど、
こういうものを見ていると
その意味もよくわかるような
気がした。



だいぶ昔にこの本を読んだ時に
淡々とした言葉のリズムと
主人公が自分の内面と外の世界を
どんなふうに認識しているのかを
綴っているような文章が
すごく好きになってしまい、
彼女の本はだいたい目を通している。

ーわたしと私をなんでかこの体、この視点、この現在に一緒にごたに成立させておるこのわたくし!
ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!!ー

普通にこんなことを他人に話したら、
おかしいのだとたぶん
認識されてしまうような
頭の中の世界は、
文学というフィルターを通すと
どうしてか芸術的な作品になる。

社会はその時代の多数決でできた
普遍性のようなもので
善と悪が分かれていて、
その多数決というもののも、
実は自分の頭で考えない人達の
なんとなく強そうな人達の
言葉に従った方が
自分は楽ができそうだなあ。
という安易な選択の連続で
できているんだとも思う。

本の中にはいつも
自由な世界があった。
その中で自分の想像を
巡らせるだけならば、
誰にも迷惑をかけず、
誰にも嫌われることがない。

そうやって私は空想の世界に
自分のリアルを閉じ込めて、
ひとりきりで遊ぶことで
バランスを取る。

私はきっと
とてもとてもわがままなのだろう。
そして、自己中心的なのだろう。

そう考えるとそれぞれにある
わがままや勝手も
理解できるような気がした。

しかしそれを
嫌だという権利が
私にも他人にも
同じようにあり、
自分が本当に大事にしているもの
以外を譲り渡すという覚悟が
世界との和解だった。

本当に大切にしているものが
同じだと感じる人は
自分の仲間だと思った。

それは話しているとわかる。
それはそれぞれが選択する
言葉の羅列の中にある。

しかし、他人の苦しみや痛みを
感じる器官があることで、
自分のわがままを押し通すことに
ブレーキがかかるのだった。

共感する能力がある限り、
人が自分の好きだけに忠実になれるのは
至難の業だとも思ったりもする。

そしてそこに囚われると
もう二度と前を向いて
歩けなくなる気がした。

だけどそんな方法で
世界と繋がるのは、
生きてることになんの希望も
見出すことができず、
死に向かうことが
一番楽なんだと
思うことになる。
それは何も感じない世界への
憧れ。

そんな世界は文学の中で
擬似的に体験することに留める。

頭がおかしいとまともの
境目が
人生を遊べるか遊べないかの
境界線なのだ。

様々な世界を理解できる私が
感情に飲み込まれている
現在の先に見えている。

遠くを眺め、
足元が地面についていることを
確認する。

それが視野の広さだった。