ということをずっと考えていた。
忘れっぽくて、思考がいつも散漫な私は
誰かの話の中に
自分の興味惹かれた言葉を見つけると
それに対して今思ったことを
すぐに話してしまいたくなる。
自分の考えがすごいんだ。って、
誰かに伝えたいんだろうな。
そう思って、あとでとても恥ずかしい。
受容というもののことは、
だいたいわかったような気になっている。
自分に向けられる悪意や批判などでも
それを自分の評価には繋げない。
それは、その人の目線の先にある私の姿。
その人が私という存在を
そのように受け止めたという事実だけを
冷静に分析する。
それで私が不快になるのは、
私の心の問題で、
それをどのように咀嚼するのかは
私の自由だと思う。
それは違う。とは言えない。
それは私を知る客観的な目線のひとつ。
と謙虚に受け止めればいいだけだった。
では傾聴というものは如何なるものなのか。
私は誰かの話をまずは最後まで
耳を傾けてみることにした。
もちろん、そこで感じる自分の反応の速さは
私の長所でもあると自負している。
しかし、それがあとでよく考えてみると
違うな…と思うことも多々あるのだ。
しかし、話し手は話し相手である私に
何を求めて言葉を発しているのか。
そこに会話の意義があるのだと思った。
ただ聞いて欲しい。
自分の考え方を肯定して欲しい。
そんなふうに思って話すことが
自分にもよくある。
それは、答えを誰かに
探して欲しいわけじゃなくて、
話しながら、自分自身の力で
見つけたい。
そんな思いもあるような気がした。
だとしたら、傾聴は
相手の鏡になる自覚を持つことだと思った。
あなたの話をちゃんと聞いているよ。
聴くだけじゃない。
心を傾けて、反応してる。
その意思を明確に示し、
その人の求めるものを一緒に
探そうとする誠実な姿勢。
人は自分以外の世界があるから、
自分という存在を認識している。
楽しいも悲しいも苦しいも嬉しいも。
自分以外の誰かや何かが
もたらしたものに対する
自分の反応のことだ。
自分をわかってもらえないのは、
自分がわかろうとしていないからだった。
心の中にだけは
いつも余暇を作ろう。
何かにとらわれて心が忙しいときも
とらわれたものが抜け落ちて、
何をしたらいいか
わからなくなるときもある。
それでも私に話しかけてくれる人が
いることはきっと
どんな人でも有難い存在なのだろう。
だから、それを聞き取れる心の隙間を
ほどよく開けておくことに
意識を向ける。
興味を持てない?
それは、私がそれを
知った気になっているからだ。
気に入らない?
それは、私の心に隙間がないからだ。
誰かを自分の理論で論破して
勝とうとしていた。
しかし傾聴というスキルを持って、
自分を守るために
誰かを傷つけてきた棘を
一本ずつ抜き取っていく。
そして、いつかは丸くなる。
私の心に触れてくれた人たちが、
本来持っている
人のやさしさやあたたかさを
自分の中に見つけられるように。
息子がおずおずと
学力テストの結果を差し出す。
相変わらずの寂しい点数に
心でため息をついた。
さあ。キミは。
この結果をどう思う?
どうしたい?
だめだって思う。
もっと、点数を上げたい。
じゃあ、そのために一緒に考えようか。
テストの点数が悪いことがだめなんじゃない。
その結果に落ち込んでいるキミは
テストをどうでもいいだなんて
本当は思っていないんだよね?
そう気付いたときが
いつでもスタートラインに立つ。
小さなドラマは日常の中に
探せばたくさんあるのだった。
さて、今日も。
誰かの言葉に耳を傾けよう。
話を遮ることなく、
そこから心を読み取ろう。まずは。