コリント1:10-23
3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、
3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、
3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか
3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
3:19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、
3:20 また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。
3:21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。
3:22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、
3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです


今日、教会から帰る道すがら白装束の集団を見ました。どうやら西国三十三所を巡礼している人たちのようです。四国のお遍路さんほどではありませんが、たまにそういう人たちを見かけます。これは、観音さんを祭るお寺を回っていきます。その人たちの着物の背中に「南無大師遍照金剛」とか「南無観世音菩薩」と書いてありました。これらの意味は「ああ、大いなる先生は金剛界(神の世界のようなところ)をあまねく照らしています!要するに光の中の光。」「ああ、観音様!」だそうです。「南無大師遍照金剛」のその横に「同人二人」と書いてありました。この意味は、光を照らす大先生と一緒に歩くという意味だそうです。私の聞き違えかもしれないので正確ではないかもしれませんが、真言宗の本尊、大日如来は、他の如来と違って、菩薩(仏にまだ完全になっていない)のようにきれいな服をまとっています。それは、大日如来は、すべての仏の化身で、仏はひとつしかないと教えられてきました。そして、その大日如来は、この世に下りてきて衆生と一緒に歩いて、救いに導くのだといわれた記憶があります。昔、叔母から聞いた話なのでなんともうろ覚えなのですが、祖父がお寺さんだったから、それほど間違ってはないとは思います。だから、同人二人と書いてあるんだと思います。

不思議なもので、「光を照らす大先生」って具体的に誰のことだろうなんて幼いころにすでに考えておりました。幼いころから宗教的な感覚に敏感だったからか、そんなことも手伝ってかキリスト教に引かれていったのかもしれません。大先生ってイエスさまだと自分で結論づけたのです。イエスさまは神と等しい方なのに、私たちを救うために降りてこられ、しかも、私たちの罪のために十字架にかけられて、よみがえって、天に昇られましたということ、そして今も生きておられて、やがて来られるということ、とても心に深く一瞬のうちに刻みこまれ、そうやねん、この方やねんと悟った日を明確に覚えています。奇跡を起こしたり、人のためによいことをする人はいても、私たちのために命をささげて復活された方はイエスさま以外おられませんから。

同人二人という言葉を見て、私はイエスさまと一緒に歩いているんだと思わされました。私たちは、イエスさまがいらっしゃるから何とか前を向いてに歩けるのだと思います。イエスさまがいらっしゃらないと、光がないから、私は何をしていいか、どうしていいかわからなくなって、人生を歩むことすらできません。

「イエス・キリストという既に据えられている土台を無く無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」

すべてのことの土台にイエスさまがいらっしゃいます。この基礎はとても大事です。なんでも基礎が大切です。勉強も基礎があって始めて応用ができます。応用をしていても、必ず基礎を忘れず、常に基礎に戻ることを心がけることが一番です。独学が難しいといわれるのは、基礎をおろそかにしてしまう傾向があるからで、毎日少しでも基礎的な事項について繰り返して復習するとそのうち実力がついてきます。イエスさまは信仰生活の基礎です。だから、

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」

その基礎が私たちのうちにあるので、私たちは、神の神殿なのです。単なる家でなくて豪華な神殿のです。よくタイなどでは、人に挨拶するとき、手を合わせるという習慣がありますが、その人を拝んでいるのではなく、その人の中の仏に手を合わせています。同じように実に神様は私たちのうちにもおられるのです。日本人は生きるものすべての中に神を見出す文化です。これは、本来、生きるものすべてが神だということでなく、そのものの中に神の働きを見るということなのだと思います。だから三位一体みたいに、神様は多であるように思えて一つという考えで西洋の神様の捉え方とは異なると思いますし、三位一体も日本人には何の疑問もなく、普通のことで感覚的に理解するのはそう難しくはありません。私の教派では、礼拝中に「主の平和」といって挨拶をしますが、西洋のように握手をすることもしますが、相手を見て手をあわせるタイのような挨拶をします。いろいろ解釈はあるかもしれませんが、私は、お互いの中におられるイエスさまにご挨拶しているつもりです。

キリスト教は西欧からやってきましたが、これから日本人にあうようなキリスト教にだんだんなっていくのではないかと思いますし、西欧と違っても、イエス様の教えは変わらないと思います。そのためには、日本文化や仏教や神道なども知っておきたいと思っています。

少し話はそれましたが、イエスさまが自分の内にも相手の内にもいらっしゃるとなると、わたしたちは、そのイエスさまにお仕えするという心構えができます。試練の時も、そのイエスさまが一緒にいらっしゃるという自覚を強めることができます。たとえ、どんなに嫌なことに出会っても、心の中のイエスさまを意識していると、そのことから福音が生じてきます。イエス様はたとえ私が落ち込んで疲れ果てても、いつも復活させてくださるのです。

イエスさまを意識するとはどういうことでしょうか。人はよく思われたい、正しく生きたいと思っています。できれば、賞賛されたいと思っています。そのために、いろんな知識を身に付けようとします。知識があることは悪いことではありません。しかし、その知識に自分がすがりつくならそれは自分を欺くことなのです。私たちは知識に依存する危険性を持っています。知識に依存するとき、イエスさまを忘れ、あるがままの自分でいることを否定して無理して生きようとします。

だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

知識を持てば持つほど、おろかにならないといけないとこのごろ思うのです。この知識は、すべてを知り尽くすものでなく、神様の真理のかけらをほんの少しいただいたに過ぎない、私は何も知らないものであると思う必要があります。知識を持てば持つほど神様に自分の高慢さを砕いていただけるように悔い改めの祈りをし、その知識を用いて神と人とに使える謙虚さをいただかなければと思います。ですから、出会うもの、であうものに、自分の知識を横において謙虚な気持ちで真っ白になって学ぶ姿勢を持ちたいと思います。イエス様を心に留めて生きていくときに自然とそうさせていただけるものと信じています。

だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。
3:22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、
3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。


私の周りにあること、すべては私たちのものですが、それはキリストのものであり、キリストは神のものです。
私たちは自分の内にイエスさまがおられるだけでなく、外からもイエスに包まれ、神に包まれているのです。

内からも外からもキリストの恵みに預かっているのです。それはどこにおいても神の恵みが存在しているということです。何よりも私はイエスさまが私とおられること、その十字架の憐れみのかけらをいただいたことをうれしく思います。

どんなときでも、イエスさまの存在を自覚できるようにさせてくださることが一番の恵みです。このことこそ揺らぐことのない平和です。たとえ世の中の雑踏の中にいたとしても、世の中の悲しみや苦しみの中にいても、イエスさまの存在があり、私がここにいるということこそ私の幸せです。

イエスさま、いてくださってありがとうございます!


ヨハネ4:1-26
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

私は身長が149センチで小さいです。背が小さいことは、殆どの人の視線が上にあります。上から見られれるというのはちょっと怖い感じがします。だから、できるだけ、子供と話すときは、視線を合わせるようにしています。小さくか細い女性は、周りから弱々しくて頼りないイメージを持たれるので嫌だなと思うときもありますが、逆に、周囲の人は私を怖いと思っていないので、本音を言うし、いいも悪いも、その人のそのままが出てきます。私が小さいおかげでし、圧力がないから、かえって周りが自分らしく元気になるみたいでそれもいいかなあと思っています。強力にみんなを引っ張るリーダーに憧れるところはあるけれども、小さく目立たなくても、みんなに元気を与えてみんなの持ち味が生かされたらもっといいのではないかと思います。

今日の箇所のイエスさまはサマリア人の女性に水をくださいという場面です。当時、ユダヤ人はサマリア人とは交際できませんでした。サマリア人は差別された存在だったのです。それなのに、ユダヤ人のイエスさまは、サマリア人の女性に「水を飲ませてください」と頼みました。本当はイエスさまの永遠に渇くことのない水を与えられるのに、逆に、サマリア人の女性に水を乞うたのです。最初から、その女性に乾くことのない水を与えようと言えばいいのにどうしてだろうと思いました。

それで、自分がサマリア人の女性になったのを想像しました。この女性はサマリア人の中でも差別されるような存在だったと思います。お昼に水をくみにその女性が来るのは、こんな暑い国に考えられません。暑いので多分殆どの人は家で休んでいたのではないかと思います。この女性は、何度も結婚しては何らかの理由で別れ、今はだれかと同棲していました。そんな女性ですから、周りから差別的に見られていたのでしょう。周囲の目を避けるようにして井戸に水をくみに来たのです。そのときにイエスに出会いました。

それで、話しかけられてこられたわけです。わたしだったら、まず、目をそらしてしまうかもしれないほど、怖いと思います。しかも、水を飲ませてほしいなんてユダヤ人の男性に言われるなんて考えられないし、何とか断って家に帰りたいと思うでしょう。なんせ、怖いの一言です。

イエスさまはその心をご存じだったのかもしれません。女性の心は、渇いていました。救いを求めていました。誰からも自分が見下され、自分なんていないほうがいいと思っていたかもしれません。想像しすぎかもしれませんが、
彼女の家にいる男性は、彼女を支配し、奴隷のようにしていた可能性があります。当時のことを考えて、結婚もしていないところから見ると、彼女を認めず、ひょっとしたら暴力と支配で彼女を縛り付けていたかもしれません。その女性は心から助けを求めていたのではないかと想像します。

そんな状態の女性にイエスさまが「私が救ってあげましょう」と言っても怖がられて心を閉ざすだけです。水をもらうということは、与えてもらう人よりも立場が弱くなり、その人よりも下に立つということです。イスラエルやパレスチナに旅行に行ったとき、常に水を飲まないと、脱水症状が起るから、喉の渇きを覚える前に水を飲みなさいと指示を受けました。女性が水をあげないということは、ある意味、生死に関わることですが、ユダヤ人との交際が禁じられているので、どうすればいいのか迷ったでしょう。それでイエスさまと会話することができたのです。

イエスさまは、こうしてその女性に渇くことのない水をお与えになるきっかけをお作りになったのです。イエスさまはその女性よりも弱い立場に降りてきて、その女性に助けを求めるような形でその女性に渇くことのない水をお与えになり、福音を告げ知らされたのです。ここにイエスさまの深い思いやりがあります。

以前、あるカトリックの教会に行きました。私は、個人的にはカトリックの礼拝の形式が好きなのですが、信仰的にはプロテスタントなので、結果的にカトリック教会につながらなかったのですが、その教会で印象的だったことがあります。

あまりにも信徒の存在が大きくて、司祭の存在が小さいように感じられました。「どこに司祭さんがいたはるんやろ」という感じです。残念ながら説教の内容も覚えていません。ただ、信徒一人一人が生き生きしている姿と、礼拝を受けて心がすっきり元気になったという記憶だけがあります。後でよく考えると、その教会は本当にイエスさまの支配の中で礼拝しているのだと思いました。そのときまで、司祭には、強力なリーダーシップが必要だと思っていましたが、その教会から学んだことは、信徒を生かすために徹底して仕えるリーダーシップでした。司祭自身が前に出てしまえば、信徒は生きません。イエス様が弱く差別されている女性よりも下に立って女性を助けるという構図と似ています。

604年頃のイギリスに主教デイビットという方がいました。その人が、あるとき説教をするとき、何人かの人が彼の姿が見えなかったそうです。そのとき、彼のいる場所が盛り上がってみんなが見えるようになったという奇跡があります。しかし、おそらく、みんなを丘の上に登らせて、自分は丘の下に降りたところから福音を語ったのだと思っています。球場のようにみんなより低い位置にいると、みんなが見えるからです。イエスさまも、会衆を丘の上に登らせて自身はガリラヤ湖で舟に乗って低い位置から福音を語ったのだと思います。

イエスさまは私たちの上から教える方ではなく、私の下にいらっしゃいます。だから、私たちを理解することがおできになります。英語で理解するという言葉であるunderstand はunder(下に)+ stand(立つ)という意味です。渇いた人間にはより渇いた人のようになって寄り添うイエスさまの姿にあやかりたいと思います。

「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので無知な人、弱い人を思いやることができます。」ヘブライ5:2

大祭司とはイエスさまのことです。イエスさまは、人間として生きられたからこそ、その弱さを身をもってご存じなのです。だから、私たちよりも下に降りて来て救う力をお持ちなのです。私たちを下から小さくなって支えてくださるイエスさまのように生きたいなあと思います。

そして何よりも、そんなイエスさまにありがたいなあと思う以外、私は何もできませんが、本当に日々、その恵みに生かされているんだなあとつくづく思わずにいられません。

ヘブライ4:12-16
4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
4:13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。


以前、変な夢を見ました。私は、天から鎖を首にかけられて裸で、さまざまな人と一緒に話しを聞いて歩いている姿でした。夢を見ているときは何とも思わず、むしろ、私は喜んでおりましたが、目覚めて我に返ると、なんとも恥ずかしい格好の悪い夢だと思いました。しかし、なぜ、恥ずかしい、格好が悪いと思ってしまったか後で考えると、奴隷みたいでみすぼらしい自分を見られたくないという思いがあって、それをできれば隠したいと思っているからだと気づきました。

人は、自分がみすぼらしくて見劣りするという部分を隠したくなります。だから、ありのままの自分を隠さないで見せることを恐れています。アダムもエバも裸であることが分かって神様から隠れました。神様にはすべてお見通しなのにそれでもあるがままの自分でいることができないでいます。

ある黙想会で自分の人生を振り返える課題をしたとき、ある参加者は、自分がいじめられたとき、自分が弱いからだと思い、相手より強くなろうと努力したと報告していました。その人はあるがままの自分でいれば、だれかに弱さをみられて自分が攻撃されるという考えをこのときに強く感じたのかもしれません。実に、いじめられたり、侵略されたり、支配されたり、暴力をうけると、それから自分を守るために、無理して強くなることを人は意識します。なので、弱さを攻撃されないように、相手を支配したり、攻撃したりして自分を守って生きることを覚えるのです。

自分にとって、あるがままでこの世でいるのは恐ろしいことなのです。弱さを持つことへの恐れを抱いているわたしたちは、神様の前にあるがままの自分でいることがなかなかできません。神様を無視し、逃げるしかないのです。
しかし、神様にとっては、人が弱いと思っている点も、神の前では必要な価値のあるものであると思っていらっしゃいます。

コリント1 12:24 「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」

こうあるように、どの部分も意味のあるものなのです。だから、神さまの前では何一つ無駄なものはなく、意味があるのでわたしたちは、そのままでいることが求められます。これが神様のいう完全な者になるということです。

私は信仰が深くなればなるほど、人は個性的になっていくのだと思っています。つまり、神の奴隷になれば、本当にありのままで自由に喜んで生きることができるのです。私が見た夢は、そういう意味では恥ずかしいものではなく、喜びに満ちた信仰生活のあり方を示してくださったのかもしれないと思います。

人間の弱さも神の前では意味のあるものに変えられます。これが、イエスさまの憐れみなのです。だから、弱さを否定せず、そのまま、神様の前でさらけ出せばいいと思います。弱さを出せないで、罪を犯してしまうから、ますます、自己嫌悪に落ちいり、自己否定にまで至ってしまうのです。

イエスさまは、私たちの弱さを知っておられます。それも、人としてこの世に来られて私たちと同じように試練に憐れました。だから、私たちの苦しみを身をもって知っておられるから、憐れむことがおできになるのです。しかし、急に、神様の前にそのままでいようとしてもできない弱さもご存じです。

何も無理をしなくていいのです。私たちの信仰の歩む速度で一緒に歩いてくださいます。そして、いつでも助けてくださいます。相応しいときに相応しい助けをしてくださるのです。

「4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

イエスさまに近づくのを遠慮しなくていいんです。イエス様、こんなわたしだけれど、このままでよろしくお願いしますというだけでいいと思います。イエス様はきっと、温かい眼差しで迎えてくださいます。

こんなイエスさまの温かな思いに抱かれて、生かせていただけるのは何よりも幸せです。ありがとう、イエスさま