ヨハネ3:16-21
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
今日は天気がよかったので賀名生梅林(あのう)を見に行きました。賀名生は、奈良県の南のほうで、和歌山に近いところです。その昔、南北朝時代、南朝方の天皇が逃げてきて、住んでいたところです。後醍醐天皇は、吉野に逃げたのですが、そこが責められたので、当時、穴生(あなう)と呼ばれた場所に逃げてきました。その後、足利家が南朝に寝返ったため、後村上天皇が、京都に帰れるという願いが叶ったので「加名生」(かなう)と土地の名前を変え、その後、「賀名生」と書くようになり、明治時代に「賀名生」と書いて「あのう」と呼ぶようになったそうです。
梅は七部咲きというところで、まだ、上のほうは咲いていませんでした。それでも、まだ寒々しい山肌がほんのり桃色になっていて春の気配を感じました。梅は、百花のさきがけというのも頷けます。まだ、風の寒い時期にこれから来る春を告げるように、小さい花だけれども、しっかりと咲いています。本当に梅を見ていると元気になれます。桜やモモのように派手ではないけれど、力まず、争わず、そのままでいます。梅の花を見ると、イエスさまをなぜか思ってしまいます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この6節は、よくクリスマスカードに書かれている有名な箇所です。梅を見ていて思ったのですが、寒々しい山に梅がただ咲いている姿が、イエス様が、この世に来られたようなイメージと重なります。あんな寒々しい山に梅が咲くなんて、梅は神様からのプレゼントのようです。イエスさまもこんな寒々しい世の中に、お生まれになったのは、本当に神様の私たちへの一方的な愛と憐れみでしかないと思います。それから、こじつけかもしれませんが、「賀名生」は、「かなう」と呼ばれたと聞いて、もっと嬉しくなりました。私たちは神様に救ってほしいという願いを持っていますが、実に、イエスさまによってその願いが叶えられたのです。なんという恵みでしょう!
しかし、イエスさまが来られたのに人はイエスさまのところに行こうとはしません。自分の罪を認めたくないからです。光に照らされると、自分の存在が無くなるのではないかと恐れてしまうからです。悪霊も自らが悪いことを知っています。罪のある状態でいると、それがばれないようになんとかしたいのです。罪を認めることほど、勇気のいることがないからです。しかし、罪の中にいると、自分で自分を裁きます。そして、それに耐えられなくなり、ユダのように自ら命を絶ってしまいます。だんだんと、闇の中に引き込まれていってしまうのです。
だれも罪を犯さない人はいません。罪がないのはイエスさまだけです。しかし、イエスさまを信じて罪を認めて、新たに生きるならば許されるのです。自分の力では人は正しく生きられないほどどうしようもないのです。でも、そんな、弱いどうしようもない私たちを、神様は、いつも心にかけてくださっています。親が子供のことを気にかけるように、神様はいつもわたしたちを気にかけてくださっているのです。そして、必要なときはいつでも手をさしのべてくださる方です。どう生きたらいいのかわからない私たちに、イエスさまを送られ、見える形で、私たちを育ててくださっています。
自分は神様に近づくなんて相応しくないと思ってしまいます。神様は立派すぎて私たちには遠すぎると思うかもしれません。それでも、神様は、私たちに戻ってきてほしいと願っておられます。神様は、ご自分の子供をかわいくてかわいくて仕様ないんです。だから、誰一人滅びないで、子供が、親のもとに帰ってきてほしいと思っておられるのです。
弱くてどうしようもなくていいんです。本来、私たちはパンのくずを拾うにも足りない者なのです。けれども、神様の愛によって悔い改めて歩むとき、神に似たものにされていくのです。意固地にならないで、どうしようもないままで、そのままの自分を認めて、神さまに助けられながら、歩んでいきたいと思っています。
寒々しい中で咲く梅のように生きられたらなあと思います。感謝!
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
今日は天気がよかったので賀名生梅林(あのう)を見に行きました。賀名生は、奈良県の南のほうで、和歌山に近いところです。その昔、南北朝時代、南朝方の天皇が逃げてきて、住んでいたところです。後醍醐天皇は、吉野に逃げたのですが、そこが責められたので、当時、穴生(あなう)と呼ばれた場所に逃げてきました。その後、足利家が南朝に寝返ったため、後村上天皇が、京都に帰れるという願いが叶ったので「加名生」(かなう)と土地の名前を変え、その後、「賀名生」と書くようになり、明治時代に「賀名生」と書いて「あのう」と呼ぶようになったそうです。
梅は七部咲きというところで、まだ、上のほうは咲いていませんでした。それでも、まだ寒々しい山肌がほんのり桃色になっていて春の気配を感じました。梅は、百花のさきがけというのも頷けます。まだ、風の寒い時期にこれから来る春を告げるように、小さい花だけれども、しっかりと咲いています。本当に梅を見ていると元気になれます。桜やモモのように派手ではないけれど、力まず、争わず、そのままでいます。梅の花を見ると、イエスさまをなぜか思ってしまいます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この6節は、よくクリスマスカードに書かれている有名な箇所です。梅を見ていて思ったのですが、寒々しい山に梅がただ咲いている姿が、イエス様が、この世に来られたようなイメージと重なります。あんな寒々しい山に梅が咲くなんて、梅は神様からのプレゼントのようです。イエスさまもこんな寒々しい世の中に、お生まれになったのは、本当に神様の私たちへの一方的な愛と憐れみでしかないと思います。それから、こじつけかもしれませんが、「賀名生」は、「かなう」と呼ばれたと聞いて、もっと嬉しくなりました。私たちは神様に救ってほしいという願いを持っていますが、実に、イエスさまによってその願いが叶えられたのです。なんという恵みでしょう!
しかし、イエスさまが来られたのに人はイエスさまのところに行こうとはしません。自分の罪を認めたくないからです。光に照らされると、自分の存在が無くなるのではないかと恐れてしまうからです。悪霊も自らが悪いことを知っています。罪のある状態でいると、それがばれないようになんとかしたいのです。罪を認めることほど、勇気のいることがないからです。しかし、罪の中にいると、自分で自分を裁きます。そして、それに耐えられなくなり、ユダのように自ら命を絶ってしまいます。だんだんと、闇の中に引き込まれていってしまうのです。
だれも罪を犯さない人はいません。罪がないのはイエスさまだけです。しかし、イエスさまを信じて罪を認めて、新たに生きるならば許されるのです。自分の力では人は正しく生きられないほどどうしようもないのです。でも、そんな、弱いどうしようもない私たちを、神様は、いつも心にかけてくださっています。親が子供のことを気にかけるように、神様はいつもわたしたちを気にかけてくださっているのです。そして、必要なときはいつでも手をさしのべてくださる方です。どう生きたらいいのかわからない私たちに、イエスさまを送られ、見える形で、私たちを育ててくださっています。
自分は神様に近づくなんて相応しくないと思ってしまいます。神様は立派すぎて私たちには遠すぎると思うかもしれません。それでも、神様は、私たちに戻ってきてほしいと願っておられます。神様は、ご自分の子供をかわいくてかわいくて仕様ないんです。だから、誰一人滅びないで、子供が、親のもとに帰ってきてほしいと思っておられるのです。
弱くてどうしようもなくていいんです。本来、私たちはパンのくずを拾うにも足りない者なのです。けれども、神様の愛によって悔い改めて歩むとき、神に似たものにされていくのです。意固地にならないで、どうしようもないままで、そのままの自分を認めて、神さまに助けられながら、歩んでいきたいと思っています。
寒々しい中で咲く梅のように生きられたらなあと思います。感謝!