ヨハネ6:48 わたしは命のパンである。



心で決めたことを人は容易に行えるほど思いどおりにいきません。自分がそうなのですから人は尚更でしょう。みことばに励まされてみことばを行おうとするときやる気に満ちていきますが、その一方で自分の力を過信する傲慢さと隣り合わせだと思うのです。神さまはそうした傲慢さを見抜いて徹底的に神さまの愛にすがって生きるように求めてこられます。みことばを道徳や知識ではなく、生きたパンとして食べて命を育むようにされるのです。預言者エリヤは、神さまの働きをなしていく中でさまざまな迫害に遭いました。あるときバアル信仰(偶像礼拝)の預言者を排除したために殺されそうになり、追われ、エニシダの下で力が尽きそうになりました。そのときに天から菓子と水が与えられました。それを食べてまた、歩きだしました。


人生の中には困難があります。もう疲れて立てなくなるときがあります。みことばは単に耳障りのよいいい言葉ではなく、与えられた日を生きる命の糧なのです。たとえ、見通しが立たず不安の中にあっても神に委ねてなんとか生き抜く力を与えてくれます。全く不安でしんどい中でも心の奥深くに動かない平和を保たせてくれます。命のパンを日々、食べて神さまに委ねて生きたいと思います。
コロサイ2:10 あなたがたはキリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

新しい年が始まりました。今日はイエスさまのお名前がつけられた日です。名前には意味や願いが込められています。イエスはちなみに、ヨシュアで主は救いといという意味だそうです。私の教会では洗礼名があります。クリスチャンとして歩むときにいただく名前です。通常、聖書に出てくる信仰者や聖人が多いのですが、時々、恵みとか信仰的な意味の名前も あります。洗礼名はそうした信仰の先輩から学んで生きたいという願いが込められています。私の洗礼名はデボラです。旧約聖書の士師の一人で女預言者です。彼女は夫がいましたが、イスラエルがバラバラになり、侵略されそうになったとき、立ち上がり、イスラエルを励まし、一つにし、敵からイスラエルを守りました。テボラはイスラエルの母と呼ばれました。実際、デボラは、戦場にいたものの、戦ったのはイスラエルの兵士たちでした。最終的に敵に留めをさしたのは、小さな弱い女性でした。みごとな共同作業です。デボラはそこに存在して、みんなを励ましただけで支配しませんでした。

私はキリストにあっていつも満たされて存在するだけで、なにをも支配しないで生きたいと思います。イエスさまが支配されるのです。私はただみことばを証するため存在していたいと思います。それだけでデボラのように多くの人々を生かしていけるのではないかと思っています。それが真の宣教だと思います。年の始めにあらためてデボラのような生き方ができればなあと願っています。

列王記上17:24 女はエリヤに言った。「今わたしはわかりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主のことばは真実です。」


今年のクリスマスは、ベッドの上で寂しいときを過ごしました。風邪をこじらせ、寝込んでしまいました。クリスマスに礼拝に行けないのはかなり辛く、ブログにも書けませんでした。やっと回復して元気になりました。

ただ、お祈りがいっぱいできたのと聖書を読めたので一番好きなことができて、イエスさまと二人で過ごせて贅沢だったのかもしれません。

始めは、何もできない自分に焦りを感じましたが、そのうち、私が休んでも神さまの働きは止まらないという確信を得ました。


神さまのお考えは私たちの考えをはるかに越えます。

エリヤは神さまの導きによりシドンのサレプタにいるやもめのところに泊めてもらいました。始め、エリヤは、やもめに家に泊めてほしいと頼むと、やもめは、壷に一握りの小麦粉と瓶にわずかな油があるだけで息子と自分が生きるのに精一杯だからエリヤを泊められないと断りました。エリヤは、それを使って自分の菓子を作ってそれからやもめと息子のお菓子を作るように言いました。そうすれば、それらが尽きることがないと言いました。やもめは信じてそのとおりにしました。そうすると、小麦粉も油も尽きることがありませんでした。それから、息子が病気になって死んでしまいました。やもめは、エリヤに自分の息子を死なせるために来たのかと言いよります。エリヤはその息子を前に神さまに祈ります。すると、息子は生きかえったのです。最初の言葉は、そのとき、やもめが、エリヤに言った言葉です。

やもめは、始め、エリヤがお越した奇跡を信じましたが、それが神の業であることを信じきれていませんでした。しかし、息子が窮地に陥り、エリヤが祈り、息子が生き返るということを通じて、神を信じるに至ったのです。

自分が凄いことをやりとげたり、人が凄いことをやってのけると、やったことに目が行ったり、人の資質や才能を見てしまいます。あの人は賢いからだとかいうふうに。しかし、神さまは神さまを表すために私たちが無力であることを知らせます。無力な私たちが神に求めるとき、神さまは惜しみなく恵みをお与えになります。神さまの言葉は、人の資質や才能、性別、年齢とは関係なく臨むのです。神さまは、その言葉を表わすに相応しい器として私たちを用いられるのです。