テモテ1 3:15-16 神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人たちに述べつたえられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。



韓国からの留学生たちがもうすぐ帰国するので昨日今日と奈良の飛鳥や大阪に一緒に行きました。結構遅くまでしゃべっていたので家に帰るのも遅くなりました。


その友人たちもクリスチャンで、国は違っても、なんか家族のような感覚があります。まさに神の家なのです。韓国に帰ってしまうと寂しいですが、神の家族は永遠なのでいつもつながっています。わたしたちは生ける神の教会です。私たちの土台はイエスさまです。この土台は一つです。イエスさまはわたしたちの主です。この真理によって教会は生きるのです。


生ける神の教会は目に見える建物でなく、イエスさまを信じる人々の絆です。それは、神の家族であり、互いに支えあって生きるとき、神の家族が広がっていくのです。


神の家がイエスさまの愛でいっぱいになっていくように祈っています。

マルコ11:24
だから、言っておく。祈り求めるものは、すべて既に得られたと思いなさい。そうすればそのとおりになる。


願いを持たない人はいません。願いがあるから叶えられないとき、失望したり、叶えられると、喜ぶのです。願いがなければ、喜びも失望もありません。ただ、無味乾燥した毎日でしょう。

願いをもつからこそ生きる張り合いがあると思います。私はこれまで自分の願いで苦しむことはなかったように思います。昔からあんまり欲しいものもなく、どこか冷めた子でした。

よく言えば、欲がないのですが、ある意味、生きる気がないのかもしれません。だから、そんなに強烈に祈り求めたこともなかったかもしれません。


しかし、それでも不思議なことに願ったことはほとんどなんらかの形で与えられて、それは、すべてよいものでした。叶わなかったものは、私にとって危険なもの、自分勝手な願いです。しかし、それらも、正しい方向に向かうように変えてくださいますので、すべて叶えられたと言っていいと思います。


最近、自分の内に抑えられないほどの願いがあり、そのために苦しさを感じます。私は、それが叶わないなら、その思いを取り上げて欲しいと願いましたが、ますます願いが深まるばかりです。その思いはどこから来るのでしょう。私にはそんなに強烈に願う力はありません。もういいと何度も思おうとしても、迫ってくるようです。不思議です。


「あなたがたの内に働いて、みこころのままに望ませ、行わせておられるのは神である」 フィリピ2:12


自分の内にある真っすぐな思いも神から与えられるのです。神の与える思いは感情的な熱さだけでなく、知性の冷たさだけでなく、それらのものを越えます。


ただ、信じてみこころがなるように祈り求めるとき、神さまと心を合わせて、みこころが実現していくのです。


自分の今の願いがどうなるかわかりませんが、なるようになっていくでしょう。何か意味があるのですから、そのままでいたいと思います。

マルコ11:1-11
11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

聖書を深読みしすぎるのもどうかとは思いますが、あえてその深読みの中にも真理があるものなのです。妄想・偏見の中にも神のことばへ至る道を見いだすことができると思っています。

今日は、子ろばがとても気になりました。もし、わたしが子ろばだったら、いくらイエスさまがお乗りになるといっても成人男性を乗せるなんて重いのでしんどい仕事だなあと思うと思います。子ろばにそんな感情があるかどうかは知りませんが、どう見ても、子ろばにイエスさまがお乗りになる構図はなんか滑稽というか変に思えます。イエスさまが子ろばを引っ張っていく方が早いし、子ろばも楽でいいと思うのですが、なぜ、子ろばに乗られたのかは本当のところ謎です。子ろばにとってはいい迷惑かもしれません。

でも、この子ろばはとても偉いと思います。ちゃんとイエスさまを乗せてゆっくりと、ときにふらつきながらも、エルサレムに向かって行ったのです。子ろばは頑張りました。しかも、人がイエスさまが来られるのを「ホサナ!(救ってください)」と叫ぶ人たちが熱狂的に迎える中でただ黙々とイエスさまを乗せて歩いたのです。救ってほしいのは子ろばのほうだったかもしれませんが・・・。なんせ、そんなことも子ろばは考える間もなく、イエスさまのために、イエスさまを重荷として、ただひたすら歩いたのです。

子ろばの信仰?、子ろばに信仰があるのかと言われたら、どうかわかりませんが、子ろばはイエスさまに従う私たちの姿と重なります。神様にすべてをおゆだねするといいますが、全く自分の力を使わないで何もしないということではありません。むしろ、逆で、委ねれば委ねるほど、苦労をすることになります。こういうと、信仰なんてしたくないと思うかもしれません。でも、その苦労は、私たちがこの世の中で神の国の建設に携わるための苦労で、やりがいのある苦労です。子ろばは、イエスさまがなすべき使命を果たすために重要な役割を担いました。荷物を運ぶにはまだ役立たない弱い体に全力を注いでイエスさまを運んだのです。

人は生きていく中で、さまざまなしんどさに出会います。生きていけば、どこかひずみも出てきます。どうしようもない部分をもってそれでも生きていくのですが、その部分が私はとても大事なだと思います。私の宝はどうしようもなさかもしれないです。子ろばのようによろついたりしながらなんとか歩いているのです。でも、そんな子ろばだからこそ、人々を元気づけ、勇気づけられるのです。人々は、「ホサナ!」とイエスさまに向かって叫べるようになったのです。

もし、元気で意気揚々とした馬なら、人々はイエスさまに近づくこともできなかったでしょう。でも、あんなに小さいのに精一杯歩いている子ろばの力に神の力を感じたのだと思います。

それでも、苦労はできれば長い間したくはありません。苦労に意味を見いだしたとしても苦労は苦労で、しんどいものです。いつまで続くのかと正直思います。祈ってもなかなかかなえられず、疲れ果てることもあります。信仰があればあるほど、
神様に期待すればするほど、神様に委ねれば委ねるほど、自分のどうしようもなさに出会っていきます。

ただ、自分の状態が最悪であったとしても、その中で弱音を吐きつつ、なんとかやっていられる不思議さだけが恵みだと思います。弱くてもろくてどうしようもない私が生かされているのを赦されているのはイエスさまの十字架のゆえです。子ろばはイエスさまを背負いましたが、イエスさまは私たちのために十字架を背負われました。私も、イエスさまから十字架のお裾分けをしていただいて、自分の十字架を背負って歩いていける力をいただきたいと思います。

それでも、私は力がないので、たまには降ろして、休憩させてくださいね。お願いします。