創世記35:1-20
35:1 神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」
35:2 ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。
35:3 さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」
35:4 人々は、持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。
35:6 ヤコブはやがて、一族の者すべてと共に、カナン地方のルズ、すなわちベテルに着き、
35:7 そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げて行ったとき、神がそこでヤコブに現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。そこで、その名はアロン・バクト(嘆きの樫の木)と呼ばれるようになった。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再びヤコブに現れて彼を祝福された。
35:10 神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた。
35:11 神は、また彼に言われた。「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから/一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり/あなたの腰から王たちが出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地を/あなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」
35:13 神はヤコブと語られた場所を離れて昇って行かれた。
35:14 ヤコブは、神が自分と語られた場所に記念碑を立てた。それは石の柱で、彼はその上にぶどう酒を注ぎかけ、また油を注いだ。
35:15 そしてヤコブは、神が自分と語られた場所をベテルと名付けた。
35:16 一同がベテルを出発し、エフラタまで行くにはまだかなりの道のりがあるときに、ラケルが産気づいたが、難産であった。
35:17 ラケルが産みの苦しみをしているとき、助産婦は彼女に、「心配ありません。今度も男の子ですよ」と言った。
35:18 ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ。
35:19 ラケルは死んで、エフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた。
35:20 ヤコブは、彼女の葬られた所に記念碑を立てた。それは、ラケルの葬りの碑として今でも残っている。

昨日のペヌエルでの格闘以降のヤコブはどうなったか。ヤコブは、以前に出し抜いた兄、エサウと再会し、その後、神さまからベテルに帰るように命じられたところです。ベテルは、以前、ヤコブがエサウから逃げてきて、一休みした場所で、そこで、天まで達する階段が地からのびており、神さまのみ使いが上ったり、降りたりし、ヤコブにこの土地で多くの子孫に恵まれると神さまから啓示を受けた場所です。そのベテルに一族のものをつれて帰り、そこで神様から祝福を受けます。ヤコブだけでなく、一族の者も神様に立ち返り、ベテルで神の家を築いたのです。

わたしがおもしろいなと思った箇所は、ヤコブの腰からイスラエルの王が出るというところです。ヤコブは、腰の上の筋を神様と喧嘩して、怪我をしたところなのにどうして、そこからイスラエルの王が出てくるのかと不思議に思いました。神様の祝福は、実に不思議だと思います。普通、自分の見栄えのよいところや強さに祝福がるように思うのですが、神様の祝福はそうではないのです。なんでこんなところから出てくるのかと人が思うところに神様の祝福があるのです。しかも、その祝福は、自分だけでとどまることなく、人々をも祝福されていくのです。

イエスさまも十字架の死というひどい惨事にあって、絶望の淵から、復活されて、結果的に私たちを神さまの祝福に預かれるようにしてくださったのです。その祝福は、多くの人を幸せにしていくことになったのです。

いろんな苦しみ、悲しみ、しんどさの淵に、神様の祝福の種がまかれているのです。自分のどうしようもなさや弱さの内にその祝福の種を見つけるとき、その祝福の種は発芽し、成長して、ベテル、神の家を造っていくのです。その祝福の種を私たちが、見つけられるようにイエスさまがしてくださいました。だから、試練に出会うとき、それは祝福のチャンスになるのです。だから、わたしは、パウロのように弱さを誇って素直にそのまま生きたいたいと思っています。

私にはヤコブのように怪我をしてまで祝福してくださるまで離しませんと神様にしがみつくほどの力はありません。ややもすると、生きること自体をあきらめてしまうきらいがあります。でも、「怪我をしても、病気になっても、いいから、まずヤコブのように精一杯生きなさい。決して見捨てないから」と言われているようです。


もちろん、神様はヤコブのように私がエネルギーに満ち満ちた生き方ができるとは思っておられないと思います。私がそう思っているだけで神様の思いは違うかもしれませんが。けれども、私に生きる道をくださって、乗り越えることが困難なものは、すべて丁寧にとってくださり、しかも、歩きやすい道にいつも整えてくださいます。あまりにもしんどいときは、お嬢様のように赤い絨毯までしいてくださるんです。だから、私は与えられた器で、精一杯、神様といっしょに歩けばいいのです。

これまで私が信仰を保てるように保てる環境を与えてくださり、必要なものはすべていただいてきましたから、これからもそうしてくださいます。なにも私が特別なのでなく、すべての人もその人に相応しい人生を送れるように神様が助けてくださいます。

私はこんな手の掛かるわがままなか弱いお嬢様なのに、いらいらもせず、見放さずにいてくださる神さまは本当にありがたいです。神様の家にいると、みんな違うのでいつも何かしら起きます。でも、それを大変だとは思わず、広い心を持って神様は、弱さをも祝福して、みんなを幸せにしてくださるんです。実に、弱さがあるからこそみんなを幸せにできる力があるのです。ただ一人、一人、委ねられた道をそのまましっかり歩んでいけばいいのです。

でも、神様、私は、与えられた道を精一杯歩きますけれど、たまには甘えさせてくださね。












創世記32:23-33
32:23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。
32:24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、
32:25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。
32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、
32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
32:30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
32:32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。
32:33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

かつてイスラエルに旅行したとき、飛行機の中で数人のイスラエルの若い男性が話しかけてきました。彼らは、私になぜイスラエルに旅行するのか尋ねてきました。私は社交辞令のつもりで「おもしろそうだから」と簡単に答えると、それで彼らは満足せず、何がおもしろいのか、何をみたいのかと質問をしてきて、挙句の果てには、私の座席の周りに地べたに座り込んで議論をしてきました。韓国のソウルから経由地のジッタまでずっと、彼らと話していました。ジッタの後は、別のイスラエル人の男性が、話しかけてきて、結局、テルアヴィヴまでずっと話していたような記憶があります。

初対面なのにこれだけ議論をふっかけられるとは思っていませんでした。私が「うん、うん」と聞いていると、彼らはあなたはどう思うのかと聞いてくるのですから、会話というより議論です。そのとき、ヤコブのペヌエルの格闘の話しになったのを覚えています。イスラエルが神と争う者という意味であることについていろいろ話しをしたのを覚えています。

私は「神様と喧嘩するなんてそんなことできるはずがないのに、負けるのを分かっていて喧嘩しようとは何事だろう」と思いました。要するに負ける戦をするわけですからしんどいだけだから、神さまのいうことを聞いておけばいいのではないかということです。でも、この箇所には、ヤコブは、神と人と争って勝ったと書いてあるのでヤコブは戦いに負けたわけではありません。

よく考えると、抜け目のない賢さで、ヤコブは人をだましてくるような人生で、こんな人が私の周りにいたら迷惑きわまりないと思うほどです。しかも、自分のことは棚にあげて、「祝福してくださるまでは離しません」などと神様にいうくらい図々しいんです。それなのに神さまはヤコブを祝福します。神様って不公平、まじめに生きているものは損するのと思います。

しかし、神様は、ヤコブを祝福すると同時に、彼の腿を撃って弱さも与えました。ここに神様の祝福の真意があると思いました。ヤコブは実に、ありのままの正直な自分をさらけ出して生きていました。正しく生きようとはしませんでした。その正直さを神様は知っておられたのです。しかし、正直であることは、同時に、自分の弱さを受け入れることでもあります。そうでなければ、自分の律しがたい行動は、人を支配したり、自分を支配したりして、挙句の果てには、疲れ果てて滅んでしまいます。神様は本当にヤコブがあるがままで幸せになるように腿を撃って、彼を砕かれたのです。

適当不羈なるヤコブの生き方は、彼の弱さのゆえに神さまをいつも忘れず、神さまに従うようにされたのです。神様は、ヤコブのように、わたしたちが神と喧嘩することも赦される方です。私たちは神様と堂々と議論して、祝福されるまでしがみついていくのを赦されているのです。

ユダヤ教の家には「シェマー、イスラエル(聞け、イスラエルよ)申命記6:4」というみ言葉が飾られています。つまり、「言うこと聞かん子よ、聞きなさい」という神さまの愛情表現なのだと思います。

私たちは、あるがままの自分を正直に生きて、その中で、自分が死んで生きる中で神様に従っていくことができるのです。自分の弱さは、神様を忘れないための刻印であり、そのおかげで神様と共に生きていることを実感できるのです。私たちの弱さはイエスの十字架の愛で示されたように、神様は私たちに愛情をもって接して、私たちの一人一人の持ち味を生かしていけるようにしてくださいます。

「その方が光を放つと、光は走り、一声命ずると、光はおののいて従う。
星はおのおのの持ち場で喜びに溢れて輝き、
その方が命ずると、「ここにいます」と答え、
喜々として、自分の造り主のために光を放つ。」旧約聖書続編 バルク書3:33-35

私たちは、神様との豊かなコミュニケーションを通じて、紆余曲折しながらも、自分の人生を神様に捧げて生きていくのです。私たちもいい子よりも手の掛かる子の方が記憶に残るように、神さまも、いい子でいるよりも先に正直に生きる私たちに手をかけて愛情いっぱいに育ててくださいます。私たちに手をかけ、目をかけてくださる神様の愛情で自分勝手さを砕かれ、自然にいい子になっていけるのです。

だから、いろいろ失敗しても、神様を忘れない限り、必ず、祝福の道を用意してくださいます。本当に大きな大きな神様の愛に生かされていることを感謝します。


テモテ1 4:14

あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。



自分の長所よりも欠点を書き出してみると、欠点のほうが長所よりも多く書くことが多いと思います。長所なんてないと思っている人もいるかもしれません。しかし、長所と欠点を比べてみると実は表裏一体になっていることが多く、長所が欠点になったり、欠点が長所になったりしています。実は、欠点や長所は自分または、他者に決められた表現であってそれは自分の真実ではありません。 

私には取り柄がないというときは謙遜のように思えて実は、神さまからの賜物を軽んじているのかもしれません。神様はすべてよいものとして私にくださったのですからそれに対して文句をつけるているようなものです。賜物とは、何かができるという才能だけではなく、赤ちゃんは何もできないのに、その存在を家族が喜ぶように、ただ存在することが神様を喜ばせるよいものなのだと思います。

つまり、ただありのまま存在していていいと言われているものです。だから、自分の内にあるものも賜物であり、自分の人生も、自分自身も賜物なのです。自分の人生をどのように生きるかを神様に導き求めて精一杯生きることが賜物を重んじることだと思います。

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みのよい管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ペトロ1 4:10

神のさまざまな恵みを管理するとは、まず、自分の存在を喜ぶこと、つまり、神様が私という存在をくださったことを喜ぶことです。そして何よりも、神さまがいてくださることに感謝することです。そうすれば、お互いの存在もありがたく思えてきます。いてくれることがお互いの喜びになってきます。自分と同じように神さまのよい賜物をいただいているのですから、そして、その賜物を生かし合うことで神の国に近づいていくのです。

たとえ、病気や障害があっても、年をとって動けなくなっても、どのような弱い状態になっても、それをも賜物として用いることができるのです。私の祖母は、足が悪くなってから何もできないと嘆くことがあります。しかし、祖母がそうならなければ、家族は、仕事など自分のことで忙しくなり、バラバラになって、集まらないのです。祖母は、家族をつなぐ絆としての賜物をいただいたのかもしれません。

5年ほど前に私は、ある病気になりましたが、そのとき、癌の可能性があるというものでした。癌では無かったのですが、そのときは、先が真っ暗のように思えましたが、今になって、人生は与えられたものだという恵みの賜物をいただいたのだと思います。たとえ病気になっても、その病気を通じて、恵みの賜物を生かしていくことができるのです。

一見、暗くて弱いものでもその中に賜物が隠されています。その賜物を生かしていくように神さまは望んでおられると思います。そして、すべてよいものに変えていただけるのです。ただ、そのままで自分を受け入れることを赦されているのです。イエスさまが十字架に掛かってくださったのですから、だれも自分を否定しなくてよいのです。そのままの自分を神さまにおささげするときに、完全なものになっていくのです。

「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイ5:48

完全は完璧ではありません。なんでもできるとか、道徳的に否がないとかではなく、ただあるがままにいるということです。自分が赦されているなら、どんな人もそのまま受け入れることができるから、敵であろうと、憎まず、イエスさまの愛になっていくことができるのです。

私たちに与えられている賜物は、イエスさまの愛になっていくために与えられています。何よりも内なる賜物の中の恵みの賜物はイエスさまがおられるということに尽きると思います。

イエスさまがいてくださって感謝します。