使徒言行録20:24
20:24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

明日は灰の水曜日です。明日から大斎節に入ります。レントとも言われます。灰の水曜日から復活日までの六週間の間はイエスさまのご復活に備えて準備をする時期です。クリスマスの前の4週間も降臨節(アドベント)と言って準備をする時期があります。この時期は、自分の信仰を省みる時期です。昔は、この時期は祈り、断食、施しをして過ごしました。また、昔は、イースターに洗礼を受けていましたので、そのための準備の期間でした。つまり、神様と自分との関係を再確認するときだとも言えます。

明日は灰の水曜日で、大斎始日にあたります。礼拝で、シュロの十字架(去年のシュロの日曜日<復活日の前の日曜日>にいただいたシュロで作った十字架)を燃やして、額に灰を着けてもらいます。自分中心に生きてきいて、神様との関係を妨げてきたすべてのものを十字架にかけて焼いてもらって、灰にしてもらいます。灰は天に昇っていってて焼き尽くされますので、後は、清いものになっていきます。イエス様の十字架を思い起こすきっかけとなるシンボルティックなものです。

大斎はイースターまでの大切な信仰の充電期間です。そして、私たちが福音を証しする根源となるものを確認するときなのです。

ヨハネ1 2:24
2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。

永遠の命これこそが私たちが心に留めるべきものなのです。御ことばそのものに永遠の命があります。それを心に留めることで私たちは、イエス様の、神様の中にいることになります。御ことばにとどまれば、イエスさまが内からも外からもどこにでもおられることを深く知るようになるでしょう。永遠の命にすべてが生かされるのです。その深さを知れば知るほど、パウロのように肉の命よりも大事なものとして人々に証しせずにはいられなくなります。そして、それさえ、証できればその他のものは何もいらなくなるのです。

わたしは、断食や祈りや施しをすることよりも、もちろん、そのことは意味がありますし、そのことを通して、得られる恵みもあると思いますが、それよりも、意識して御ことばに立ち返ることが必要だと思います。断食は自分の食を断って自分の肉を養うことから自由になり、御ことばに養われることを知るために行います。祈りは神様とのコミュニケーションです。施しは、自分のためにためているものを他者のために使うということで自分中心の視点を神様の視点に置き換える重要なレッスンです。

この時期は私たちの根源的な信仰のもとに立ち返るときです。十字架が無ければ復活はありません。闇があるから光があります。雨が降らなければ植物は育ちません。冬がなければ春は来ません。夜があるから朝が来ます。春がくる直前は、一年の内で最も寒く、嵐もやってきてやっとこさ春になります。夜明け前が一番闇が深くなります。しかし、来るべきものすべてが希望に満ちています。このときにこそ神様の恵みの種である希望に目を向け、未来へ続く恵みに感謝して過ごすときだと思います。信仰が絶望に終わることは決してないのですから。

テモテ1 6:19
真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。

そして、イエスさまの溢れるばかりの恵みをめいいっぱい受ける恵み豊かなときを心から喜んで過ごせたらと思っています。

ヨハネ 1:16
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。



ヘブライ1:3
1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

人はできれば上に上がっていきたいという欲求があります。下に降りていくことは怖いことでしょう。今の自分のいる位置から下がることは、できればしたくないと思います。でも、どうして下に降りることが怖いのでしょうか。下に降りることは不自由で不幸になることだと思い込んでいるからでしょう。実に、この世の中は上昇することがよいこととされ、下降することを悪いことと思うところがあるからです。この思いは、この世の中の構造で生きていくときについて回る不安です。

しかし、神様は違います。イエス様は人となって私たちのところにこられました。それは、神様と人との和解のため罪を清めるためです。そして、イエスさまは、また、天に昇られました。降りてきて、また、昇られたのです。ここに神様の不思議さがあります。イエス様は、降りてきて、人と一緒に神様のところに行けるように一緒に歩いてくださいます。人が自分の力で神様のところに行けないことをご存じだからです。それ故に降りていく生き方を選ばれたのです。栄光ある天から降りていくことは究極の不安や恐れの世界に行くことですが、それを打ち消す愛がそうすることを可能にしたのでしょう。愛様は神の本質だからです。

現在は、降りていくことに恐怖や不安を喚起させるようになっています。病気になったりして能力がなくなると、たちまち生活の不安を持たざるえなくなります。年をとることも、いろんなことができなくなる不安ととなりあわせです。その人がいるということよりも能力が重視される社会になると、人は降りていくことに不安になり、その人が人として安心して生きていけなくなります。みんな、自分が上に上がろうと、必死で自分のことしか考えなくなります。

けれど、神さまはそういう人間に対して本当にそのままで存在していいとメッセージを送るためにイエスさまが、この地に降りてこられたのです。ありのままで生きていれば、上がることも下がることも自由です。それは神様の思いに生きることだからです。自分の力で上がるのではなく、イエスさまと一緒に上がっていくのです。

何があっても安心してそのままの自分でいられるような神の国がこの地に来るようにイエスさまを通して示されました。そして、イエスさまのなされたことは神の右の座とあるように完全な正義なのです。愛は正義を完成させます。たとえ、降りていくことになっても、不安を乗り越えた完全な愛が私たちの内にあるなら、それは、世の中を完全な正義へと導きます。

イエスさまが降りて、昇られたことは、私たちへの限りない愛の現われなのです。
ヨハネ12:24-26
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

以前テレビである日本庭園作家が、「自分が死ねば、みんなが生きる」ということをおっしゃていました。その方は、有能で若くして頭角をあらわしましたが、あるとき、スランプに陥りました。自分の腕はすばらしいのにどうして大きな仕事ができないのだろう。もっとその能力が生かされていいと思い、勉強や研究に励みました。しかし、そうすればするほどむなしさを感じ、スランプに陥るばかりでした。このままでは自分がどん底に落ちると思ったそうです。その苦しみの中で気づいたことが、自分が死ぬということでした。自分が死ぬということは自分を抑圧したり、自分を殺すことではありません。相手の視点に立って、相手が生かされるように助けるということです。相手の望むように、相手が生かされるように考えるときに、自分の持っているものが生かされることにその方は気づいたのです。その後、その方は、たくさんの仕事をし、お弟子さんにも恵まれ、活躍していくことになりました。

現在に生きる私たちは、自分の賜物、才能や能力を生かすチャンスを多くいただいています。環境的に自分がしようと思えばなんでもできる時代です。自分を磨くことにかけては限りない欲を刺激される時代です。「自分らしくあらねばならない」「自己責任」「自信をもって生きよう」「自分が生き生きと生きるために」など自分に限りなく注目できる時代でもあります。伝統的な宗教より心理学が注目されるのもその現れかもしれません。実際、心理学の授業を選択する動機は、多くは自分がいかに生きるかや自分が何者であるか、自分が救われたい、という問いをもつ人が多く、この問いかけは、かつて宗教が取り扱ってきたものであることが多いのです。実際、心理学を受講して、こうした問いかけに対するきっかけは作れても、心理学で人を救うことには限界があると思います。心理学は学問であって、完全な救いを提唱するものではありません。しかし、現在に生きる私たちの視点が自分に注目が行っているために心理学に救いを求めてしまうのかもしれません。

私は賜物を使うことを否定しているのではありません。言いたいのは、自分の賜物を生かすことは大事なことだと思いますが、それよりも、その賜物を何のために持ちいるのかよく吟味することが必要だと言っているのです。ギリシャ正教は、自分の賜物を生かすことよりも、自分がしなければならないことをすることを強調するそうです。西洋のキリスト教は、どちらかというと、賜物を生かすことを強調しますが、それはややもすると、自分のために賜物を用いる危険性と隣り合わせだと思います。自分がしなければならないことは要するに使命とか召命とか言われるものだと思います。これは、神に視点がありますから、結果的に、賜物を神様に捧げることになるのです。賜物は神さまと人のために用いるものであることを心に留めておきたいと思います。もちろん、しなければならないことといっても自分らしさを無くしてしまうような無味乾燥した仕事ではなく、神様の仕事をするときは、深い喜びが伴うのだと思いますが。

自分の賜物をどのように用いるかでお互いに生かしあえると思います。


お互いに生かしあうとは、お互いのために死ぬことだと思います。私たちは死んでも滅ぶことはありません。なぜなら、揺らぐことのない真理をいただいているからです。永遠の命です。イエスさまは十字架に掛かって死んで復活されました。この出来事がなければ、多くの人々が永遠の命を受けることができませんでした。イエスさまは私たちを生かすために死んでくださいました。そうでなければ、私たちは自分中心の神から離れた生き方によって結果的に滅んでしまうからです。ソドムとゴモラが滅んだのは、自分のことしか考えず、神のことも他の人のことにも関心を持たなくなってしまったからだとユダヤ教の中で伝えられています。そんな自分中心の生き方とは異なる神を中心とした生き方を具体的に示されたのはイエスさまです。イエスさまに仕えるとはイエスさまに従うことです。それは、イエスさまの生き方に倣うことなのです。そうすれば、私たちは神の国を受け継ぐことができるのです。

ヘブライ12:25-29
12:25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。
12:26 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」
12:27 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。
12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
12:29 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

神様は、私たちに揺れ動くことのない御国をくださいました。それは、どんなことがあっても、心に平安をもたらしてくれます。私たちの内にイエスさまがおられるからです。

神様が焼き尽くす火ならば、私を焼き尽くす捧げものとして焼き尽くしてほしいと思います。これほどに揺り動かされない命をくださったのですから、この命をできるかぎり多くの人に見いだしてほしいと願っています。