列王記下5:1-15b
5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
5:4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、
5:5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」
土曜日に「べてる」の家の向谷地生良先生とそのメンバーの方の講演を聞きに行きました。「教会が教会であるために」というテーマの講演でした。べてるの家は北海道の浦河にある教会から始まった障害者の支援活動ですが、その教会のある地域は、昔、理想のクリスチャンの村を造ろうとして入植した人々によって造られた場所でした。現在、べてるの家の活動拠点となっています。べてるの家は精神障碍をもつ人々と共にその人たちの共に苦労を担い、人としてそのまま受け入れられるように生きる地域を造っていっています。何か教会のあり方を考えさせられる講演でした。
そこで気づいたことですが、クリスチャンの理想郷を造りたいという思いで入植した人々の祈りが、ここでかなえられているなあと感じました。べてるの家を見るとき、一見、平穏で綺麗で敬虔といわれるクリスチャンからはほど遠い世界のようにみえます。礼拝中に立ち歩く、じっとしていない、話しを聞けない(聞きたくてもきけないのです)人たちがいて、考えただけでも、穏やかで静かな礼拝とは違います。しかし、そこの人たちは、みんな正直で生き生きしています。幸せそうなんです。
私は天国が近づいたと思いました。でも、特別でないのです。至って普通の当たり前の生活がみんなにあるのです。
さて、今日の箇所ですが、イスラエルの王に皮膚病を患ったナアマンを癒すように手紙をもらい、王はそれはできないと拒んだところ、エリシャが自分のところにナアマンをよこすようにいいました。ナアマンが、皮膚病をエリシャに治してもらおうと思って相談すると、ヨルダン川で7度身を洗いなさいと言われたことです。ナアマンは、直接、エリシャを通して、神の名によっていやしてもらえると思っていました。しかし、エリシャの答えは違っていました。しかも、ヨルダン川より綺麗な川があるのにヨルダン川と言われたのでナアマンにとっては納得できないものでした。しかし、家来たちにいさめられて、ヨルダン川で身を清めたら皮膚病がよくなりました。
私たちは自分のところに何か問題をもった人が来ると、なんでこんな人がくるのか、こんな人と一緒にやれないと思ってしまいます。特に、集団の和を乱す人がいるとその人をやっかいもの扱いしてしまう傾向にあるようです。ただ、ここで注目したいのは、エリシャがいうように自分が予言者であり、神を証しするものであるという自覚をもったものは、そうした人を拒まずに引き受けたということです。ときにクリスチャンであっても、自分の平穏な信仰を乱されたくないゆえに、問題を抱えた人を受け入れることを拒んでしまうことがあります。なんでこんな人がいるのと責めたくなるのです。信仰的にそんなことを言ってはいけないと思っているので言わないにしても、心の中でイスラエルの王のような言葉を言っていることがあります。それは自分はその人になにもできないといってあきらめる姿勢です。しかし、エリシャは神に頼り、神を証しするため、ナアマンを引き受けました。自分にはできないけれども、神に頼る姿勢は大切だなあと思いました。
次に、私たちはナアマンのように超自然的な奇跡を期待しがちです。しかし、治癒の方法は、ナアマンからはなんでそんな川に身を清めないといけないのかと思うようなおかしな方法でした。なんでそんなものの中にと思うような中に奇跡があるのです。結果的に、ナアマンを治癒に至らしめたのは周りの家来たちの助言を聞き入れたことでした。自分がなんで?と思う方法の中にも真があるのに、自分のものの見方が偏っていることをナアマンの行動によって気づかされました。周りの人たちは自分の偏ったものの見方を修正し、ただしいもののとらえ方に導いてくれるよい助け手なのです。
ベテルの家では、当事者研究が盛んです。その障碍はその人が一番知っているからその人から学ぶという考え方です。ときに障碍によって自分に対する、他に対するものの見方が偏ってしまって苦しんでしまうということがあります。そのときに、当事者の周りが耳を傾け、当事者も周りに耳を傾けることで、ひょんなところから解決策が見えてくることがあります。べてるの家でも、障碍や病気が超自然的に治るということを期待するのでなく、病気のときもそうでないときもそのまま受け止め合うきずなによって、そのままの自分で生きていけるということを教えてくれています。
十字架は復活へと導かれて行きます。どうしようもなさの中のなんでこんなことがと思うところに光があります。それはイエス様が歩まれた道そのものです。
「神の内にいつもいるという人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(ヨハネ1 2:6)」
なんでこんなことが?と思う中に神様の恵みがいっぱい詰まっているとことを日々発見しながら、イエス様の歩みに付いていきたいと思います。
5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
5:4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、
5:5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」
土曜日に「べてる」の家の向谷地生良先生とそのメンバーの方の講演を聞きに行きました。「教会が教会であるために」というテーマの講演でした。べてるの家は北海道の浦河にある教会から始まった障害者の支援活動ですが、その教会のある地域は、昔、理想のクリスチャンの村を造ろうとして入植した人々によって造られた場所でした。現在、べてるの家の活動拠点となっています。べてるの家は精神障碍をもつ人々と共にその人たちの共に苦労を担い、人としてそのまま受け入れられるように生きる地域を造っていっています。何か教会のあり方を考えさせられる講演でした。
そこで気づいたことですが、クリスチャンの理想郷を造りたいという思いで入植した人々の祈りが、ここでかなえられているなあと感じました。べてるの家を見るとき、一見、平穏で綺麗で敬虔といわれるクリスチャンからはほど遠い世界のようにみえます。礼拝中に立ち歩く、じっとしていない、話しを聞けない(聞きたくてもきけないのです)人たちがいて、考えただけでも、穏やかで静かな礼拝とは違います。しかし、そこの人たちは、みんな正直で生き生きしています。幸せそうなんです。
私は天国が近づいたと思いました。でも、特別でないのです。至って普通の当たり前の生活がみんなにあるのです。
さて、今日の箇所ですが、イスラエルの王に皮膚病を患ったナアマンを癒すように手紙をもらい、王はそれはできないと拒んだところ、エリシャが自分のところにナアマンをよこすようにいいました。ナアマンが、皮膚病をエリシャに治してもらおうと思って相談すると、ヨルダン川で7度身を洗いなさいと言われたことです。ナアマンは、直接、エリシャを通して、神の名によっていやしてもらえると思っていました。しかし、エリシャの答えは違っていました。しかも、ヨルダン川より綺麗な川があるのにヨルダン川と言われたのでナアマンにとっては納得できないものでした。しかし、家来たちにいさめられて、ヨルダン川で身を清めたら皮膚病がよくなりました。
私たちは自分のところに何か問題をもった人が来ると、なんでこんな人がくるのか、こんな人と一緒にやれないと思ってしまいます。特に、集団の和を乱す人がいるとその人をやっかいもの扱いしてしまう傾向にあるようです。ただ、ここで注目したいのは、エリシャがいうように自分が予言者であり、神を証しするものであるという自覚をもったものは、そうした人を拒まずに引き受けたということです。ときにクリスチャンであっても、自分の平穏な信仰を乱されたくないゆえに、問題を抱えた人を受け入れることを拒んでしまうことがあります。なんでこんな人がいるのと責めたくなるのです。信仰的にそんなことを言ってはいけないと思っているので言わないにしても、心の中でイスラエルの王のような言葉を言っていることがあります。それは自分はその人になにもできないといってあきらめる姿勢です。しかし、エリシャは神に頼り、神を証しするため、ナアマンを引き受けました。自分にはできないけれども、神に頼る姿勢は大切だなあと思いました。
次に、私たちはナアマンのように超自然的な奇跡を期待しがちです。しかし、治癒の方法は、ナアマンからはなんでそんな川に身を清めないといけないのかと思うようなおかしな方法でした。なんでそんなものの中にと思うような中に奇跡があるのです。結果的に、ナアマンを治癒に至らしめたのは周りの家来たちの助言を聞き入れたことでした。自分がなんで?と思う方法の中にも真があるのに、自分のものの見方が偏っていることをナアマンの行動によって気づかされました。周りの人たちは自分の偏ったものの見方を修正し、ただしいもののとらえ方に導いてくれるよい助け手なのです。
ベテルの家では、当事者研究が盛んです。その障碍はその人が一番知っているからその人から学ぶという考え方です。ときに障碍によって自分に対する、他に対するものの見方が偏ってしまって苦しんでしまうということがあります。そのときに、当事者の周りが耳を傾け、当事者も周りに耳を傾けることで、ひょんなところから解決策が見えてくることがあります。べてるの家でも、障碍や病気が超自然的に治るということを期待するのでなく、病気のときもそうでないときもそのまま受け止め合うきずなによって、そのままの自分で生きていけるということを教えてくれています。
十字架は復活へと導かれて行きます。どうしようもなさの中のなんでこんなことがと思うところに光があります。それはイエス様が歩まれた道そのものです。
「神の内にいつもいるという人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(ヨハネ1 2:6)」
なんでこんなことが?と思う中に神様の恵みがいっぱい詰まっているとことを日々発見しながら、イエス様の歩みに付いていきたいと思います。