三国志で個人的に

気に入ってる一人。


呂蒙について。


呂蒙 字は子明


汝南郡 富陂県の人




若い頃に江南に渡り、


姉の夫の鄧当の厄介に。


鄧当は孫策の将軍。


鄧当は、将軍として


山越族をたびたび討った。


呂蒙は15,6歳だったが、


こっそりこれについていく。


鄧当が気づき、呂蒙を


大いに叱りつけた。


帰れと言ったが、


呂蒙は聞き入れない。


鄧当は呂蒙の母親に


このことを言った。


蒙の母親は大いに怒り、


蒙を厳しく叱る。


呂蒙がこれに対して、


言うには、


蒙「今の貧しい暮らしに、


耐えられない。万が一


手柄を立てられれば、


出世できる。それに、


『虎穴に入らずんば


虎子を得ず』とも言う


ではないか。」と。


これを聞いて母親は


蒙を憐れんで許した。



続く。

いやはや三国志のせいで、

登録してもうた。


携帯ゲーム『三國志2』


ネットワーク対戦型なんとか。


一日一ターン制。


名前登録しろって。


「蕭何」に。


名前負け。


馬超とか呂布とか

ホウ徳、張遼、田豊、

荀彧、カイ越…いるのに。



ちょっとした合間に。


春秋・戦国に関連して。

「鄭」という国

周の宣王が弟の桓公友を
今の陝西省の辺りに封じた。と。

陝西省…省都に西安、漢中あたり。

のち、周の東遷に伴い、
河南省のあたりに移る。


河南省…黄河中流以南を占め、
洛陽などが首都となる。
要は中原あたり。

「鄭」といえば、《子産》が、
思い付くね。
《子産》姓が公孫 名が僑

子産は字。

細かくは後々。

続き


隠公(在位前722~712)



元年、春

王の正月とのみあって、

即位を書かないのは、

摂政だからである。


三月、公が邾(鄒)の儀父

と盟われたとは、邾子克

のことである。


まだ襲爵の王命を、

受けていなかったから、

邾子と書かない。


儀父と字を称したのは、

貴んでのこと。


我が公は今あらたに

立ったので、まず邾(鄒)

に誼(よしみ)を求めよう

とて(魯)の国内の蔑で

盟約されたのである。



もはや何が何だか…。


摂政…皇帝が幼少、

または女帝などのとき、

代わって政治を行うこと


つまり魯公が幼くて。と。


邾=鄒(すう)の国


邾子 名が克

普通国主が後継ぎに

任命すると。

これが襲爵。

襲名みたいなもの。

爵位を受け継ぐと。


けど克は、まだ継いで

いなかったと。

……。


簡単に言うと、


1、(魯)は(鄒)を

  保護国としていた。


2、魯公が亡くなった。と


3、その後を継ぐ魯公が

  幼いので保護国の

  (鄒)が、離反する

  ではと恐れ、誼を深めたと。



難しいな。これは注釈?

本編


改めて言うけど、

春秋の(魯)という国

の年代記。




隠公 14代(在位前722~712)


いきなり14代から。



登場人物


 恵公 13代

 隠公 14代

 桓公 15代

 

 孟子 恵公の初めの夫人

 声子 恵公の孟子の次の

     夫人 隠公を生む

 仲子 恵公の三番目の夫

     人 桓公を生む


孟子の「孟」は字でも言ったが、

長男、長女の意。


「仲」は次。

だもんで仲子は孟子の妹。



孟子の「子」は(宋)の国の姓。

であるからして孟子は(宋)公の

長女になる。


声子は孟子の嫁ぐ際、その妹分

として一緒に来た。


仲子は孟子の妹


 武公 娘に孟子、

     孟子の妹に仲子 

 





わが恵公の初めの夫人は

孟子と呼ばれる人であった。


孟子が亡くなりしばらく、

声子が孟子の後を継ぎ

隠公を生んだ。



しかし、(宋)の武公の娘に

仲子という姫がいた。


生まれついて(魯)の字の

筋が手に出ていたので、

(宋)の武公は、

「いずれ(魯)の国の奥方

になるのだ」といった。


やがて仲子が成人すると、

(魯)に嫁ぎーの。


そして桓公を生んだ。


桓公がまだ幼いうちに

恵公が亡くなったので、


隠公が立ち桓公の成人

するまで育てていくこと

になった。



つまり最初に(宋)から

孟子が嫁いできたが、

これが亡くなり側室の

声子が隠公を生んだと。


けどあくまでも声子は、

正室ではないので、

仲子が桓公を生むと

それが後継ぎになる。


けれども桓公が幼い

うちに恵公が亡くなった

のでとりあえず隠公が

立ち桓公を盛りたてて

ゆく事になったと。