この場で全てを探す旅 -3ページ目

この場で全てを探す旅

今、自分が置かれている生活環境のまま、自分にとって人生最大のテーマに立ち向かうさまを残すブログ。
人生ってなんだ?に真っ向から対決しますが、趣味、こだわり、妄想、アレコレ考えさせられることからの自論展開、すでに限界。

そんなこんなで、モンハンクロスのリハビリをしているところなのですが、オンに顔出したらナニコレ?

色々ツッコミどころがあり過ぎて疲れる。

まず、出会い目的の思春期真っ只中な子供達は、自分の学校で直接ナンパしなさい。

ガチの女性ハンターは、そんな性欲むき出しの恥ずかしい人にはまず近寄りません。
もし誰か来たとしても、中身は超高確率で立派なオッさんです。

それに、狩りがまともに出来ない事実がバレた時点で、軽蔑される危険すらあります。

自爆行為はやめましょう。

次に、学校行くので放置とか、寝るから放置とかいう人達、その部屋を維持する必要はないと思われるので、DSをパタンしてください。

電力の無駄使い、サーバーに無駄な負荷をかける、集会所の検索に出てくる煩わしさと、いいことなしです。

周囲の迷惑を考えられない、モンハンやってはいけないレベルのおこちゃまの行動です。

そして極め付けが改造です。
自力でやり遂げてナンボのモンハンを改造するくらいなら、ソフトを売ってしまいなさい。

自分で倒せないモンスターの武具を身につけたところで、何も倒せないでしょうよ。

苦労することが美徳とは言いませんが、出来ない人間が出来る人間と肩を並べているのは、ことモンハンに関してだけは、私は軽蔑の眼差し矢の如しです。

「改造さん」とか「改造様」とか言ってる人間も言われる人間もハッキリ言って私には不要、不愉快極まりない存在です。

改造する楽しみをバカにするなとか主張する人もいるかも知れませんが、そんな連中と一緒にやりたくない人間がたくさんいる事を理解して、とっととオンラインから撤退してください。オフラインでやるぶんには、私は何も言いません。

そもそもメーカーが認めてないでしょ、改造行為。

なんの自慢にもなりませんからねぇ、改造データなんて。

自力で一生懸命がんばってるハンターなら、いくらでも手を貸しますよ、私は。

私達は、にしときましょうか。

ただ普通に、健全にモンハンやってるだけのハンターならみんな一緒です。

今からでも、恥ずかしい出会いとか放置とか改造なんかやめて、純粋に狩りを楽しみましょう。

そんなこんなでハンターとして復帰した私。

モンスターハンター2ndG、しかしながら大半は前作と同じであるなら、またしても私のハンター生活は短いのだろうと思っていました。

しかし、そうはならなかったのです。
なぜなら、私は前作をプレイした時にモンハンの「楽しい部分」を何一つやっていなかったのです。

その一つが4人での協力プレイです。

さすがに、周りのハンター(職場の同僚)はそれなりに経験を積んだ上位ハンターではありましたが、今まで私が苦労して倒せずタイムアップしたようなモンスターをサラリと討伐してしまいました。

1人では絶対に出来ない連携プレイ。

作業分担も仲間いてこその作戦です。

ハンマーで頭を攻めて気絶させ、ガンナーが麻痺弾で動きを止め、大剣が尻尾を切断する。

その無限とも言える連携プレイは、蚊帳の外で呆然と立ち尽くしていたハンター(私)の心をガッチリと鷲掴みしてくれちゃったわけです。

以降も、HRを上げるためのキークエストをこなしながら、モンスターの弱点や部位破壊できる場所、防具とスキル、スキルと武器の関係などを教わり、ハンターとしてどんどん成長していったわけです。

武具の作成時に誰もが立ちはだかる「レア素材」
の入手という壁と「物欲センサー」なるオカルトシステムが邪魔してくるなんて話も聞きました。

そうこうしているうちに、エンディングまで辿り着き、全てのランクのクエストを解放するところまでいくことが出来ました。

そこで同僚から言われた意外な一言。

「これからは、うちらのクエも手伝ってもらうからな」

クリアしたゲームを手伝う?

そう、私はモンハンというゲームをここで始めて理解したのかもしれません。

モンスターハンターというゲームは、やりたいことをやりたいだけ続けることが目的のゲームだったのです。

エンディングはただの結節でしかなく、言うなればやり込み開始のスタート地点に過ぎないのです。

ある人は欲しい武具を手に入れるため、必要素材が手に入るモンスターをひたすら狩り、またある人はその手伝いをする。

全てのモンスターを100体狩るという目標を立てる人がいれば、全ての武器を使いこなすためにひたすら狩りに明け暮れる修羅の世界の人もいる。

何をやってもいい。
あ、改造は絶対ダメね。

やめ時は自分で決める。
それがモンスターハンターというゲームの世界だったわけです。

もともとやり込みが好きな性格だった私は、それからドップリとモンハンにはまり、以降全てのナンバリングソフトとクロス、PCではフロンティアもやり込みました。

クロスをある程度やり込んで、一息ついてからここ数ヶ月、モンハンから手が離れてしまい、このまま引退かなと思った矢先にダブルクロスの発表があり、私の中の狩り魂は消える事なく次へと繋がって行くのであります。





モンスターハンター2ndをやらなくなって、約半年。

私の中では既に終了し、特に思い出もない存在となっていたモンスターハンター。

再びその名前を聞いたのは職場でした。
続編のモンスターハンター2ndG。

これが事実上、私が始めてやりこんだモンハンであり、人生ではじめてプレイ時間4桁を超えたゲームです。

実は、職場にモンハンプレイヤーがたくさんいた、というのを知ったのはさらに数ヶ月後なのですが・・・

「え?モンハンやったことあるの?だったら一緒に2ndGやろう!」

こんな感じで、仲のよかった同僚から誘われたのが、私とモンハンが再会するキッカケとなったわけです。

「いや、やったといっても、かなり序盤で挫折してやめたんだよね」

「大丈夫だって。俺らがG級まで連れてってやるから」

ほとんど強制された感じでしたが、職場仲間と協力してやるゲームは中々面白いかも知れないと思い、半分はまた挫折するかなって気持ちも残りつつのゲームソフト購入。

そして、久しぶりのモンハンがスタートしたのですが、そこで私はまたよくわからない選択をしたのであります。

ボウガンであれだけ苦労して、武器選びはよく考えないとダメだって思い知ったはずなのに。

みんなと武器かぶらないように、なんて理由でハンマーをチョイスしてしまった私。

結果的にはそれがモンハンの奥深さを知るキッカケにもなったわけですが。

そしてこの瞬間から、今に至るまで続き、そしてこれからも続くであろう私のハンター生活が始まるわけです。
ここ10年ほどの間にプレイしたゲームといえば、モンハンシリーズしかありません。

言わずと知れたカプコンの名作、ハンティングアクションのゲームです。

私がモンハンと出会ったキッカケは、弟でした。

弟が先にモンハン大好き人間になっていたわけです。

ある日、弟からPSP本体とモンスターハンター2ndのソフトが一緒に送られてきました。

「兄ちゃん、一緒にモンハンやってくれ。武器はヘビィボウガンでよろしく!」

という、モンハンを知らない人間にはよくわからない弟からの電話が私のモンハンデビューとなったのです。

今となればなるほどという話なのですが、『ラオシャンロン』という巨大なモンスターを狩る際に、剣士では手の届かない場所の部位破壊をして欲しかったそうで。

しかし、とにかくモンハンを全く知らない私は、とりあえずヘビィボウガンを担いで狩りをはじめたものの、初心者一人ではかなり厳しいものでした。

『全てはプレイヤーの腕次第』

この一言に尽きます。

お金も、素材も、クエストの進行も、全ては自分の腕次第なのです。

立ち回りがうまければ、回復アイテムを使わなくてもモンスターを狩猟できる。

ガンナーはモンスターの弱点部位を適正距離で狙えれば、消費弾数を抑えられる。

モンスターの特定部位を破壊できれば入手出来る素材が増える。

入手素材が多いほど武器や防具を強化しやすくなる。

基本操作に加えて多種多様の弾に関する知識を必要とするボウガンは、初心者とはすこぶる相性が悪く、さほど時間を要せず壁にぶつかることになったわけです。

正直、当時そこまで興味がなかった私は、上位ハンターになることもなく、PSPから、モンハンから手が離れていったのであります。

それからしばらくして、私が結婚することになり、久々に会った弟と始めてのモンハン協力プレイをしたのですが、私の中ではモンハンの火が完全に消えていました。

弟よ、申し訳ない。

この後、私が再びモンハンを手にするのは、G級を引っさげて凱旋した続編の登場がキッカケでした。

振り返ってみると、なるほど筋金いりのネガティヴ人間であるな、私は。

もしくは、現代クレーマーとでも言うべきか。

まだ姿を現してさえいない未来にも期待の眼差しをむけることはない。

いやいや、そこまでではありません。

現状を打破出来うるのは、変化しうるのは、進化できるのは、今より先の世界、すなわち未来にしかないのですから。

だから未来にしか期待できない訳ですが。

その未来も、現実から突拍子も無い変化とか、脈絡も関連性もない事象が、レールをつなぎ変えるように急激にやってくることはまずないでしょう。

たとえあったとしても、宇宙人襲来❗️、みたいな、いきなり絶望てんこもりのシーンしか思い浮かばないですね。

地球、まっぷたつに割れる!とか。

そんな絶望があるからこそ生まれる希望っていうのが、無数に存在する物語の主人公だったりしますけど。

夢のある未来への伏線という意味では、ヒーローものは大好きです。

個人的には仮面ライダー、好きですね。
特に平成からのものは、ストーリーもよく練られています。

必ずしもライダーの敵=悪とは言い切れない世界というのがよいです。

ライダーが必ずしも人間ではない、という作品もありました。

固定観念に囚われない、どうにでもなる、どうにでもなれる展開に「いいね」送ります。

そんなライダーがいる世界はたいてい平和ではないのですが、逆説的と言いますか

「彼らが存在してくれるなら、世界が平和でなくてもいいな」

というのは私の意見です。

ところが困ったことに、すでに私の目から見える世界は、平和と程遠い位置にあるのです。

なのに、なぜ仮面ライダーがいないのでしょうか。

私の知る仮面ライダーの世界なら、悪の活動とほぼ同時期にはライダーが存在しているのです。

実はもうどこかに存在していて、世論とは別のもっと悪い奴らと戦っているのかもしれません。

世界が平和ではないのに、ヒーローもいないんじゃ救われないじゃないか。

こういう結論にたどり着く時点でやはり私はネガティヴなのかも知れないが、だからこそ言いたい。

ネガティヴな人間ほど、本当はヒーローの登場を心待ちにしていると。






一般的に正しい、本来はそうあるべきだと思いつつも、大半の人が頭の片隅あたりにぶん投げられていること。

例えば、規則関係が多くてわかりやすい代表だとおもいますが、この件については本当に納得いかない。

例えば、道路交通法とか。

たいてい守らない國民。
たまに取り締まる警察。
道交法を守らない国民に煽られ、危険な目にあったり、ストレス溜まったりな道交法守る国民。
その割には、いざ、飲酒だのスピード違反だので身内を失った人達は怒り狂ったりしている。
当然、自分達は道交法守ってる人なんだろう。

守れと言われて守らない。
守らせるには違反に対する処分がぬるい。
いざとなったら自分のことは棚上げですか。

守らなきゃ駄目な事で守らせる必要があると言うならキッチリ対策をとれ。

守らない理由に正当性がないくせに、規則を守っている人間にやたら勝気で強気な違反者、言い訳はいらん。

そもそも規則を守らなくてもいい場合という正当な理由が思いつかないが。

この件に対して、「正論」という言葉を使って逃げようとするなら、「正論は毒」だというなら。

あれか、正しいのに毒扱いというなら、聖水みたいなものか。

ならば人間は吸血鬼といったところか。

規則を守らない先人達が、守らなくていいという風潮を、さながら吸血鬼が血を吸うように「規則は守るべき」という意思を吸い尽くすわけだ。

すでに大半の人達の考えが、周りと同じであることが自分の安心を得るための唯一の正当性になっているんだろう。

必要ない規則なら廃止しろ。
守っている少数の人間が受けている迫害を知らんわけではないだろう、警察よ。
ちゃんと出来ないなら取り締まるな。
規則を守ることが周りを敵に回すというリスク。

本来ならあり得ない状況が、自然に日常の当然である今をおかしいと思わないのか。

処分を重くする事に躊躇するということは、違反した人間に対して

「情けかけますよ、許しますよ、そんなに悪い事したわけじゃありませんよ」

という風に言ってるようなものだ。

だから、

「捕まらなければ問題ない規則」

と解釈されるわけだ。

私から見れば、例えば飲酒運転なら

①「酒酔い運転で殺された人」

②「酒酔い運転していた人間は死刑」

これについて考えると、

②を採用することで①による被害者数は減る。

ここで言いたいのは、飲酒運転した人間と飲酒運転の車で殺された人間の命が対等であるか、ということである。

規則を守らない人間が人を殺した。

規則を守っていれば、人を殺さずに済んだかもしれない。

仮に飲酒運転の常習者が軒並み現行犯で死刑になったとすれば、少なくとも違反者による事故は今とは比較にならないほど減るだろう。
自分の命を天秤にかけても飲酒運転したい人間だけが最後に残り、それもいずれ取り締まられる。

これで規則を守る必要がないとか、守らないことに正当な理由がつけられるなら、それこそ規則を廃止してもらいたいものだ。

規則廃止で①が爆発的に増えて、人類の人口増加問題も解消されるかもしれない。

全てに当てはまるとは言わないが、自分を正当化するために正論を毒化する人間は、吸血鬼だと私は考える。

気がつけばもう、生まれてから高校卒までに費やした時間が、経過した時間が、就職してから今日までの時間に追い抜かれている。

「子供時代」

という言葉を使うと、いかにも

「今の自分は立派な大人です」

というふうに取られそうなので、学生時代と言いましょうか。

明らかに学生時代の時間のほうが、長く感じる、長く感じたのです、私としては。

ロクに勉強頑張ったわけでもなく、部活に打ち込んだわけでもなく、結構テキトーに、いい加減に
高校卒業まで何となくたどり着き、通過してしまったのですが。

そんな時間のほうが、遥かに社会人として苦労しながら消化してきた時間より、長く、重く感じるのです。

何という人生の薄っぺらさよ。

年をとる度に薄さを増していく何か。

記憶に残らないほどの速度で過ぎ去っていく時間。

昨日食べた食事を気にしている暇はない。

自分にとってどうでもいいことをした時間は瞬時に霧のように消え去る。

自分に残る何かをしなければ、私の時間はゴールへ向けてどんどん加速していくのだろう。
明日地球は爆発しない

明日のことはわからない

明日を見なければ答えには辿り着かない


人は最初からたくさんの束縛を受けている

最初から決めつけられて、その束縛を暗黙に受けている

受け入れている

性別という束縛
身体能力の束縛
母国という束縛
常識という束縛
家族という束縛
人であるという束縛

何らかの自由とは、その束縛から解放されるということ

何かしない限り、その束縛は続く

人はそれを自分で認識し、判断し、決断しなければならない

束縛されたまま続けるのか、解放するのか

人生もまた、死ぬまで生きるという意味では、私を束縛している

束縛も解放も、人それぞれにあり、そして自分だけのもの

他人の何かを解放することはできない

自らの意志のみが動かせる、唯一の平等な選択なのかもしれない

そしてその選択を出来るのは、生きている間だけ

生きていて、今が耐えられないのなら、絶望してしまっているのなら、それは何かの束縛によるもの

その何かを見つけて解放することが、自分で自分を維持するために必要なこと

自分の中から見つける、見つかる答え

でも、このうちひとつだけは、安易に選択してはならない

それは、切り札ではなく、結末

人が最初に与えられ

必ず最後の選択として手元に残るもの

最後には必ず解放されるもの

生きるという束縛

しかし

その束縛を自分で解放できるということが

あるいは選択できる権利を持つということが

どういうことかを考えなければならない

束縛からの解放は

ほぼ全てやり直しが効かない一回限りの決断

知らなければいけない

後悔すらできない一手があることを

後悔すらできない一手であることを

何を大切にしたいかを考えなければ

あなたが、わたしがここにいる意味はない

束縛に耐えて

未来を欲しがらなければ

束縛から解放されて

自分を明日に逃がさなければ

明日地球は爆発しない、という約束はできない
先日、とある知り合いの人から言われたこと。

「年を取ると愚痴や文句しか出てこない」

ふむ。

こうやって見てみると、自分が書いているものも確かにそのような感じに受け取れる。

しかしながら、私に関して言えば、言わせてもらうと、それは半分といえる。

なぜなら、愚痴にしろ、駄目出しにしろ、話の中盤や最後に改善案、または打開策を講じていることである。

文句だけなら誰でも言える。

しかし、その先こそが重要であり、本題でなければいけないのだ。

自分の意見を通したいなら、半分では終わらせられない。

そのために、どれだけ大きなものを敵にまわそうと、失う危険があろうと、その先を言わなければならない。

覚悟がないなら言わなければいい。

文句だけ並べて満足するなら、それこそ人生の大半を消化した方々が思い残した後悔と同じではないだろうか。

突然思いついた話でも、毎日のように考えている話でもない、私にとってはそのぐらいの距離間を保っているテーマなんですけどね。

自殺って。

結果として出てしまったのなら。
周りにとっては正に「他人事」というしかないですよね。

私が常に思っていることの一つ
「他人の考えなど理解できると思うな」
です。

仲の良い人、仮に親友と呼べるほどの仲であっても、相手を完全に理解することなど不可能だと私は言い切ってしまいますね。

仮に、他人という存在を完全に理解できるのなら、知られてしまった人はその人に何一つ反論できない関係になってしまうと思うのです。

見透かされ、見下され、利用され、操られているようにしか感じないでしょう。

そこに信頼関係が共存することはあり得ないように思います。

中には、相手に自分の全てを知って欲しいと思う人がいるかもしれませんが、果たして本当にほんのわずかなことも隠すことなく完全に、全てを晒せるでしょうか。

まあ、全て知ることが出来たとしても、私はそんなものに興味ありませんし。

話が軽く脱線しましたが、自殺に至るまでの道のりは、言うまでもなくその人が歩いた道であることは疑いようのない事実であり、結果です。

仮にその人の周辺環境がその道を作り、追い込んだのだとしても、それでも道を歩いたのは自分なのです。

道は常に分岐しています。

自分の進む道。

進みたい道も、進みたくない道も、可能性がある限りそれは無数に枝分かれしていきます。

その中で、一番早く自らの意思で選べる人生の終点が、自殺というだけです。

人生の終点、死。

それは、全ての人に例外なく決まっている結末で、生まれることとセットで自分についてきます。

その時期や原因は人それぞれで、それこそ「運命」なんて言葉はまさに絶妙な表現だと思います。

死については、誰でも一度は考えることだと思います。

ですが、自分の死はともかく、他人の死に関しては、結果として出てしまったものはどうにもなりません。

死んでしまってから周りが騒ぐ。
職場が、学校が、家族が。
遅いですね、実に遅い。

時すでに遅しって言いますが、あれですね。

後悔先に立たずと似た感じですね。

私の自論のひとつに「後悔は故意犯」というのがあります。

誰かが自殺を選択したことを後悔するというのなら、それは事前に出来ることがあった、ということです。

そしてそれをしなかった。

ならば、自殺を責めることはできませんね。

それは、その人が数ある道の分岐から、自らの意志で選択したものだから。

自殺までの道のりを周りが、他人が、環境が作り出したと責任を追求するのなら。

自殺しなくて済む道もまた、周りから作ってやれたのでは?その人達も同様に責任を追求されないと。

まあ、私も死ぬ事については結構考えてまして、なぜ自分が死ぬことを選ぼうとしているかを何度も自問自答したものです。

まあ、未だ吹っ切れたわけでも解決したわけでもありませんが。

とにかく、自殺を選択するまでに存在する分岐が多いほど、回避できる可能性はあると思います。

そして、その分岐を作り出すのは自分自身です。

職場が嫌で死にたいのなら、仕事を辞めるという選択肢を。

夫婦間の家庭問題が原因なら、離婚という選択肢を。

その選択を出来ないのなら、出来ない理由と自分の未来を天秤にかける。

仕事を辞めたら再就職出来る自信がないから辞めれない、というのなら無職と自殺を天秤にかけ、どちらをとるか、という話です。

しかしながら、この天秤は社会の一般常識で作られた天秤ではない、特別製なのです。

本人の価値観が100パーセント反映される、他人が触れることのできないものなのです。

それこそ、自分の未来は自分で決める。

他人の未来や人生に向かって、横から自前の価値観で、常識で、批判しようと説得しようと耳に入らないのは当然のこと。

その人の人生の分岐が、天秤が、見えない者には立ち入ることはできません。

だから他人事なのです。

まさに事が起こる直前に説得するということが必ずしも正義の行いではない。

起こってしまった結果にあとから何を言おうとも過去は変わらない。

スピード違反者を取り締まるだけで、交通違反がなくなりましたか?

自殺もスピード違反も、根絶したいのなら、それこそ「多くの人」を知る必要があるのだと、私は思います。

そして、それは無理だと思うのです。