昔、と言っても数年前のことですが、飲み屋での話。
そこまでの話の成り行きは覚えてませんが、「自論」について語ることになり。
そのお店のお姉さんに聞かれたから、いくつか言ったのですが。
その時の対応に私は非常に「ムカッ」としてしまったのです。
いくつだったか、3つか4つほど(そんなにあるのかよ!とは言わないで)出したのですが、ひとつ言うたびに
「うん、そうだね」
と軽くあしらわれたかのように流されたのです。
まるで自分が「普段から当たり前のようにそう考えている」かのように。
私も、そんな自信ありげに、自慢げに、必殺技でも出すかのように繰り出したわけではないんですが。
まだ自分としても中身をこねくりまわしながらの段階での話ではあったんですが。
もしも、同じ事を考えている人、同じ意見を持つ人がいたら嬉しく思うはずだったのですが。
色々話を掘り下げて自分の肥やしにしようと思っていたのですが。
その一言による返答だけで、「ああ、バカにされてるな」と私は判断したのです。
もしくは、「この言葉の意味を上辺だけで判断して知ったつもりだな」と判断したのです。
仮に、その人が私の持論について全く同じところまで考えている人だったとして、理解している人だったとして、やはりその人のことは受け入れることはなかったのです。
飲み屋のカウンターで働いている人が、話題をこちらに振って、解答させてそのあしらい方はどうなの?という話です。
話をぶつ切りにして無言を求めているのですか?
「じゃあ、その言葉の意味について聞かせていただきましょうか。」
と聞いてみたところで、小学生の子供が知らないことを知っているフリしている時の言い訳じみた逃げ方だったわけで。
20代そこそこくらいの人なら、「それってどういう意味?」という感じで質問してきて、まだ話の続きがあるというものです。
または、「あーなんとなくわかる」的な言い方であればまだ救われるものです。
私の目の前にいた人は40過ぎの人で、そりゃ私の考えくらい簡単にひっくり返せるほどの人生経験あってもおかしくはないでしょうけど。
私の話に興味があるわけでもなく、話題をつなげたいわけでもなく、飲みにきた客を楽しませるわけでもなく、私を「ムカッ」とさせてその場を終わらせたというだけの話。
飲み屋の、そんなスタッフと私がつまらないやりとりをした、と言うだけの話。
要は私が、職場の人に紹介されたまま、その勢いで相手の話に乗っかったのが失敗の始まりであり、初対面の人に対して勝手に「まともな話ができる相手」と勘違いした故の過ちであるわけです。
その時、相手に対する自分勝手な期待を押し付けてしまっていたわけです。
勝手に信じ込んでいたのです。
そういう人であると。
そういう人であって欲しいと。
そういえばその時、飲み屋で私が言った言葉のひとつがまさにソレだったわけであります。
「信じるということは理想の押し付けである」
「うん、そうだね」
まさにソレか・・・
若い頃、そう、15年くらい昔であれば、それこそ目的も違えど毎週末飲み屋へ足を運んでいたものです。
特に酒が好きでもないのに私はそこで何をやっていたんだろう?
思い返すと、うん、なるほど何も目的を思い出せないほどの理由であったのだろう。
その飲み屋に、今、年相応であって、いてもおかしくない、むしろ自然に見えるであろうその場所に足を運ぶ暇を与えてくれない私の周辺事情。
年取るほど自分の時間は自分のものではなくなるのだな・・・
家庭をもって、人の親になればさらに、でしょうか。
生まれれば、生きてるだけでいずれは自動的に運び込まれる大人の世界。
学生が、学業の達成感があろうとなかろうと、覚悟も実感も用意するまもなく放り込まれるネクストステージ。
そこから先は、「勝手にどうぞ」的な、軽くムカつくこのシステム。
無慈悲ともとれる時間に、為すすべなく流されて進んでいく人生。
大人タイム、スタートです。
新社会人にむけて、自分なりの完全武装で「参る!」みたいに意気揚々と突っ込んでくる若者もたくさんいるでしょうが、少なくない数が敗走している現状。
最初から華々しい戦果を上げられる人は、ひとつまみ程度でしょう。
そんな新しい世界で地に足着いてない状態の人たちには厳しいかもですが、苦い経験は、若いうちにしておきたいですね。
だって、年取って心も体も疲弊しきった頃に大きな敗北とか、人生にトドメさされるほどの威力ですよ。
今はまだメンタル弱いかもしれませんが、「時間」というインターバル時間をたくさん持っている若いうちに苦い薬をストックしておくのをオススメします。
そんな中、大小さまざまというか、年季の違いはあれど大人の会話で耳にするのが、
「もし、学生時代に戻れたら、まじめに勉強やるだろうな」
とか、
「あのときに戻れたら、絶対この仕事は選ばない」
見たいな後悔ともとれる内容であります。
もとい、後悔としかとれない内容ですね。
私も例外ではありません、心の中では思っています。
思っていますよ、完璧超人じゃありませんもの。
「後悔は故意犯」だとか自分で言っておきながら。
失敗しない人生とか、後悔しない人生をひた走る人もいるかもしれませんが、そんな人はほとんどいないでしょう。
しかし、もしも完璧な予測・見積もりができて、結果が必ず思い通りになるような世界なら。
求めた結果を必ず手に入れられる世界なら。
そこに過程は必要がないように思うのです。
過程とは、悩んだり、努力したり、準備したり、経験したり、結果を出すまでに行う全ての行いと認識してますが、それが不要となると、人生も不要のように思えてきます。
これをやったら必ずこうなる。
「1に1を足せば2になる」みたいに確実なプロセスなら、それはなんというか重要なものではない気がします。
みんなが同じ過程をふんで同じ道を歩く。
みんな同じ結果を得られて、そんな同じ結果が大量生産される世界は、どこにも魅力がありません。
張り合いもなく、苦労もなく、失敗もなく、不安もなく、達成感もなく、充実感もなく、存在感すら感じない。
だからこそ、この現実世界にはそういう人生における「確実なもの」がほとんどないのかも知れません。
確実なもの、強いて言うなら「生まれた者は必ず死ぬ」くらいでしょうか。
それ以外のことについては、何かが起これば変わらざるを得ないものばかりです。
良くも悪くも変わり得るのです。
だから、みんな自分にとって「望む方向」に向かって何かしらの努力をしているんですね。
後悔するのも前向きにとれば、次に失敗しないための反省「の一部」であるわけですし。
失敗しながら成功に向けて、勝利に向けて、少しずつでも距離をつめていく。
これが大人に限らず人間の生き方の基盤なんですかねえ。
とまあ、だらだらと書いた内容もまとめてしまえば
「自分の理想に近づくためには努力を続けなければならない」
ってことなのですが。
あえて遠回りに、寄り道しながら、脱線しながらいろんなことを巻き込みながら考えることで、あら不思議、どんな話もあながち無関係ではないのだと気づくのです。
そして、私の周囲にはこんな話を、どうでもいい話を一緒にバカになって語ってくれる人が、残念なことに一人もいらっしゃらないのです。
知人であるかどうかなど、老若男女などどうでもいい、一緒に話が出来る人とだらだら語ってみたいだけなのです。
今の私が「それ」をゲットできるかもしれない場所こそが、「そこ」なんです。
今の私が「そこ」に行きたいという理由が、このとおりなわけなのです。
あ~飲み屋に行きたい・・・
人間、生きていれば色々経験するものです。
生まれた時期、場所、環境は人それぞれ違い、見る方向も見てきたものもやってきたことも全て1人のものであり、2つと同じものはない、それが人生というやつなんでしょうか。
私のこれまでを振り返ってみただけでも(他人のものは全て振り返ることは不可能ですけど)相当の数をこなしてきたと思うのです。
こんな私でさえ、といいましょうか。
それは何かをする時も、しない時も、ビッグイベントであろうとなかろうと、自分で意識していようといまいと、です。
思い返してみれば、「あれも、これも」がそうであったわけです。
そして、それは全て、もれなく、自分の責任であるのです。
何がって?
「選択」です。
生きていくうえで、何かを決めるのは最終的に自分であり、結果が出た時点で自分の責任であると私は考えています。
それは、人生を左右する一大決心みたいなものだけではなく、毎日の些細なことでさえも、「それ」の連続で成り立っているのです。
朝、なりはじめた目覚まし時計を「とめる」「とめない」に始まり、夜は「寝る」「寝ない」の選択でおやすみになるまで、それはもう数え切れないほどの「選択」の連続で1日が、私たちの生活が組みあがっていくのです。
そして、その選択ひとつひとつが何気ないものであれ、全て自分の責任であるというのです。
言っているのです。
日常起こりうる様々な出来事に対する返答、回答、状況判断、選択、これは他人のせいには決してできないのです。
上司に強要されたとしても、車の運転で後ろから煽られても、本来なら絶対にやらないことなのに時間がなかったからと自分に言い訳をつけても。
結果、してしまったことは自分の責任です。
起こってしまった現実、そしてその現実は過去となり決して取り戻せない一瞬の事実なのです。
すでにあなたの歴史の一部なのです。
こう言ってしまうと何か悪い選択や判断を対象とした言い回しっぽく聞こえてしまいますが、それは誤解で、良いことについても同様です。
結果、自分にとって、または周囲の誰かにとってプラスになり、自分としても嬉しい事ならば、誰に遠慮することでもなく、素直に喜んでいいのです。
誇っていいのです。
要は、自分に選択する権利やその余地があった出来事については、その結果については、
「自分で選んだことである」
ことを自覚してほしいのです。
言い逃れは認めない。
受け入れる以外の道はない。
良い事も悪い事も。
「誰か」は誰かの世界の話なのです。
上司には上司の世界があり、その中で、あなたと同じように選択を問われているのです。
同僚も、家族も、友人知人、現場にいた知らない人、全て自らその場で何かを選択している、していたのです。
いつも、「何か」について考えていなければ落ち着かない私がたどり着いた、座右の銘ではないですが、結論とでも言いましょうか。
そのひとつが
「後悔は故意犯である」
ということです。
ちょっと前までは、今よりさらに言葉を知らぬ私でしたので「後悔は確信犯」とか思っていましたが、言葉の意味がそれではなかったので修正して今に至りました。
ここまで読んで頂いた方になら、この言葉の意味を今更説明するまでもないでしょう。
あえて説明するなら
「あなたが手にした結果は、そこへたどり着くまでにいくつもの分岐点があり、それらを選択したのは他ならぬあなたの意思である」
ということです。
後悔するであろう未来を全く見えていなかったわけではないでしょう。
うっすら見えていた不安や疑問があって、それでも選択したのであれば、まさに自分の意志というしかありませんよね。
もしそんな未来など全く予想できなかった、していなかった、というのであれば、それは思慮が足らなかった、ということなのでしょうね。
その決断が大きいものであるほど、その先に影響するであろう事象について深く考えるべきなのでしょう。
それを人のせいにしてしまうのは簡単なのでしょうが、そうやって責任を逃れ続ける人がいるのなら、その人は自分の何を貫きたいのでしょうね。
人間社会で生きるのであれば、良いも悪いも含め、自分を認めて、それをもって自分として生きていかなくていけません。
常日頃から、そう思うわけです。
そんな私は、のんべんだらりと無駄に過ごしてしまった休日に対して、それを自覚しながら常に後悔しているだめな人間なのです。
夢をよく見ます。
とにかく、よく見ます。
寝たときに見る夢ですね。
ほぼ毎日見ています。
あの夢の内容って、どういう風に決まるんでしょうかね?
見たいときに見たい夢が見れる人っているんでしょうか・・・
まあ、夢見てる人は眠りが浅いとよく聞きますが、私にとっては浅かろうが疲れが残ろうが何であろうと夢は見たい派の人間です。
毎回、当然のように予想もできないような内容の夢を毎回生み出してくれるよな~って、誰に?何に?向かっていえばいいのか知りませんが感心してしまいます。
突然古い知人が出てきたり、空を飛んでいたり、現実には不可能なことをしっかり盛り込んでくれる夢もあれば、終始意味がわからず、夢見てるけど本体は首かしげてんじゃないかっていう内容もあります。
他には、何かに追いかけられ、ドラマでよくありそうな崖に追い込まれて、崖下に落下していく夢。
これはよくある夢?ですが、昔はどこまで落ちていくかわからない中で足をバタつかせながら目を覚ましたものです。
この「落ちる」夢は、時を変え、シチュエーションを変えて昔から何度も見るんですが、あるときから私は夢の中で変化・・というか進化したのです。
なんと、「飛び降りた崖下には地面がある!着地できる!」というイメージを夢の中で考えるようになったらしく、度々着地に成功して逃亡成功してしまうのです。
それがいいのか悪いのかはあまり興味がありませんが、夢の中にそういった何らかの変化があると自分としては新鮮で楽しくなってしまうのです。
そもそも同じような夢を何度も見てる時点で新鮮味にかけているのかもしれませんが、そこはそれでまたあるんですよ。
「これは夢だ。何度も見たことがある」ということを夢の中で自覚していながら、いつのまにか「夢を見ている、夢の中にいる」という感覚を失っているんですよね。
目が覚めたときに改めて「ああ、夢だったんだよな」って思い直すんです。
あるときは誰かに殺される夢、そして殺されてしまうんですが、その続きが合ったという話もあります。
どういう風に殺されたかはその時忘れてるんですが、次に夢の中で意識が戻ったのであろう、その時私は自分の首が転がっている状態を、どこかから見ているのでした。
さすが夢ですね。私は胴体のほうに意識があるらしく、目は当然転がっている首のほうにあるのですが、胴体側からどうにかしてしっかり見えていたようです。
そして、自分も周囲の人たちも、私自身が死んだということを認識しているにも関わらず、生きているとき同様の振る舞いでこれからどうしようか、なんて話題をのんきに話しているのです。
自分の頭を脇にかかえながら。
死ぬ直前までの、あの恐怖や緊張感は、もはやきれいさっぱりどこにもないのです。
正に夢!正夢ではありませんけど。
しかも死んだのに動くなよ!とか突っ込む自分もそこにはいませんでしたね。
とにかく、こちらでは自ら判断して体験しているように見えてますが実はそうではなくて、そういう結果に必ず連れて行かれているだけなんですよね。
そんな感じで、私自身はオーダーを出すことも出来ず、誰が企画してキャスティングしているのかもさっぱりわからない「夢」なんですが、そのうちものすごいネタになるような壮大な物語でも見せてくれないかな~と期待してはいるのです。
ブログを書いてる途中になんらかの不具合で、今まで描いていた内容がきれいさっぱりなくなってしまう。
ブログ再開してからもう何度もそれに泣かされている。
インスピレーションで書き込んでたものなんて、書けば書くほど記憶に残らない。
同じ文章どころか、どんな内容かまで思い出すことも困難な私にとって、これは絶望的な問題である。
そして今日もやっとこさペンが走り出したあたりで、絶妙なタイミングで、まさかと思う一瞬の隙も与えてくれずに。
スクリプトうんぬんの負荷が原因でフリーズし強制終了の運びとなった。
何かの力が働いているのか?
誰かに嫌われているのか?(いないとは思わないが)
もはやこれはただの愚痴でしかないが、同じ悔しさを味わった人もいるかもしれないので、あえてこの叫びをここに記しておきます。
次からは一息つくたびに下書きボタン連打してやる!
前置きが長すぎてしまったので、「本編」と言う形にしました。
「いい」「悪い」なんてのは絶対的なものではなくて、時と場合によってコロコロ変わるものだと認識しています。
結局はその場の「決定権」を持つ者の判断で決まってしまうものです。
ですが、これには上限というか限界があって、簡単に言えば権力者のような存在がいて、その権力者間の上下関係で決まるということです。
まあ、誰もが「当然のことを言っているな」と思うことでしょうけど。
しかしこの権力者は、皆さんもご存知のとおり、この地球上においては、ほぼほぼ人間のみが所有している・・・ようなのです。
自分が人間で、当たり前のように人間社会が確立されているなかで「こういう話」をするとき、当たり前の話ではなくするために必要なことがあります。
「自分を人間と言うくくりから一旦除外する」
まあ簡単に納得されることと思います。
なんやかんやで遠回りした気もしますが、本題に入ります。
人間が人間のために考える規則や判断は、おおむね人間社会をよりよくする方向に向いています。
・・・と私は考えています。
ですがそれは短期的、もしくは極めて視野が狭いというか「近い」見方であると思うのです。
人間の想像力や実現力は甚だ著しい進化を遂げたもので、他の動物たちからすれば人間が同じ動物とは、もはや見ていないかもしれません。
生活環境に合わせて進化するのが動物ならば、周囲に影響を受けて自らを変えていくのが動物なら、人間はすでに動物ではないですね。
自分たちの思い描く生活環境を「創造」する人間は。
自分たちの一生を最善にするための知識・技術を日々更新し。
より長く生きるための手段を求める。
あまりにも人間だけを見すぎているのではないでしょうか。
人間あっての地球と思い込んでしまったのでしょうか。
人間が地球の管理者だと、無意識にそう考えてるのではないでしょうか。
人間が人間のためにしている努力の大半は、人間にとっては「いいこと」なのでしょう。
しかし、あまりにも無計画に、無責任に、自意識過剰に、やりすぎたのではないでしょうか。
環境に対するうんぬんは言うに及ばず、人間の欲望さながらに人間そのものまで増殖し続けているこの状況。
地球が人間を許容可能な人数はどのくらいなんでしょうかねぇ。
人が増えれば食料がいる。住む土地もいる。人間社会に居場所が必要となる。
人間社会は例外なく地球上に作られる。
「人間が望む快適な生活環境」がおおむね「地球の良好な環境に相反する」と考えれば、人類の増加は地球上の生物の危機なのではないだろうか。
私は決して人が嫌いな訳ではないし、自分の生活環境が不満でなんやかんや言っている訳ではありません。
ただ、漠然と「このままでいいのだろうか」と思うわけですよ。
「野山に鹿が増えたら、農作物に被害が出るから鹿狩りで絶対数を減らそう。」
見たいな事を人間の上から人間に対して言う存在がない。
まあ、それこそ神様ですね。
人間だけに都合の良い神様ではなく、地球全体に公平な神様です。
人間に対して、まだ何もそのような処分がくだされていないとすれば、そんな神様が存在しないか、まだその時ではないのでしょうか。
他には人間や動物、植物全ての母である地球そのものが手をくだすとか。
これは、環境破壊された地球の「意思の有無」に関わらず、いずれは大きな災害となって我々に降り注ぐでしょうね。
人間がこのまま地球に居続けるのなら、自らのためにもこの状態をうやむやにしている場合ではありませんよ。
面倒ごとを先延ばしにして、あとで取り返しがつかなくなるなんてのは、誰しも経験していることでしょう。
人間同士の争いなんてやっている場合ではないのです。
・・・ないのです?
人間同士の殺し合いは、「見ようによっては」宇宙船地球号の乗車人員削減に貢献するといえばしますね。
人間がここまで大きな社会を築きながら、平和を言葉上であれ望みながら、自らを守るための規則を作りながら、その本性はおそらく変わらないのでしょう。
「欲望の化身」とでもいいますか。
全てを望み、他者を認めたくない。
時の権力者たちがこれだけ大きな地球の問題に対して、個人から見れば何も興味がないかのような、または「誰かやっといて」的ないい加減なイメージしかありません。
それは、
「自分が生きてるうちにその脅威が実体化することはないだろう」
とか思ってるんじゃないですかねえ。
少なくとも人間社会の末端のほうでは、私の職場においてはそんな上司ばかりで、筑前煮が出来上がる感じですね。
色んな我がままを通して、仕事をせず。
溜まりに溜まって煮詰まった分は部下に投下。
責任添加、いやいや責任転嫁。
根拠もなく納得もできない持論で若い人間に自分の正しさをアピール。
どれだけ甘い人生なんだか。
まあ、そんな感じのものが、地球に対しても日々蓄積しているわけで。
地球からしてみれば、別に環境がどうなろうと地上に生命があろうとなかろうと、別になんとも思っていないのかもしれませんけどね。
思っていたらとっくに人間イレーザーみたいな処置がとられてますよ。
人間の根本が争い好きということも、増えすぎた人間がそのうち殺しあって、帳尻あわせになる場面がやってくることを裏づけてるのかもしれませんね。
戦争だけでなく、技術発達の不完全さからくるしっぺ返しかもしれません。
人間社会の進化を支えてきた側面が、その時は皆に称えられ、時をおいてその有害性に気づき、不安を募らせる。
「いいこと」が「いいことであり」、「いいことであり続ける」のは難しい。
結局、人が決めた「いいこと」「悪いこと」なんて、あってないようなものなんですかね。
世の中は何かの事象に対し「いい」か「悪い」の二択で決めたがるものだと思います。
その中には、ホントに「いい」「悪い」でしか判定できない事象もたくさんありますけども。
例えば、人間社会で言うところの「飲酒運転」は、言い訳の予知なく「悪い」にあたる物事です。
そもそも、規則で「罰せられる」行動ですし、その行動が他者に対して重大な被害を与える危険があり、実際今までにそういう結果を数多くだしてきているわけです。
これを無理やり「いい」に持っていこうとすると、非常にたくさんの事象をひきずり混んで他の「悪い」ことまで「いい」に変換しなければならなくなります。
道路交通法を守らないこと=「悪い」を「いい」にしなくてはならない
公共の施設や個人の所有物に損害を与えること=以下同文
人の命を安易に奪うこと=以下同文
自分のやったことに対する責任をとらない=以下同文
簡単に思いつくだけでもこれだけのことを「いい」ことにしなければ飲酒運転を「いい」ことにはできません。
交通ルールの話を例にしたところで、私が気になるひとつのネタがあります。
それは、飲酒運転以外の交通ルール、特に「速度違反」に関することです。
免許を取得したことがある方なら当然知っているはずの
「速度超過は違反です」
という、何のひねりもない話なのですが。
いざ、車に乗って道路へ出てみると、あら不思議。
普通に守られてませんよね。
そう、「普通に守られていない」、というより「守らないのが普通」といわんばかりの違反ぶりです。
守ってる人を探すのが非常に困難なほどに、「速度」は守られていないわけです。
全国調査したわけではないので、これは私の住む地域周辺だけなのかもしれませんがね。
まさに、「建前と本音」のごとく、口で建前を、足で本音を語るわけです。
で、これを取り締まるのは警察のお仕事?なんですかね?
でも、見た感じはまったくと言っていいほどその成果が感じられない。
そりゃあ、毎日毎日草の根活動みたいな感じで四六時中見張ってられるほど警察も人が余っているわけではないでしょうけど。
だからって、今のやり方で「精一杯やってます」「努力は認めてください」って話じゃないでしょう。
もはやこれは、
「規則が規則ではなくなっている」
のではないでしょうか。
本来、「悪い」事である速度超過を、取り締まりきれないから、全ての面倒を見てられないから、さじを投げてしまっているのでしょうか。
あるいはそもそも、「守らせる側」自体存在しないのでは・・・。
「いい」ことではないにしろ「悪い」と思っている人間はほとんどいないのではないでしょうか。
だったら、規則はあるけど守らなくていいというこの現状。
「守らなくてもいい規則」
だったら、規則から削除したらいいんではないでしょうか。
ほんの少数、守っている人間には、ただのデメリットしかないんですよねこの規則。
速度を守っている人間が悪者扱いされている現状を、取り締まる側はわかっているのでしょうか。
幅寄せされたり、クラクションならされたり、煽られる危険と、ストレスをかかえこんでまで守る価値があるのでしょうか。
一時停止で追突されるとか、守った人間がバカを見ているような現在をどういう風に見ているのでしょうか。
もはや取り締まり方がどうこうというより、運転者に対する教育を考えたほうがいいのかもしれませんね。
中には違反者のせいで親族を失った方もいるでしょうが、その方々は果たして普段からきちんと道交法を守っているのでしょうか、とも思うわけですよ。
ホントはこの辺の話はただの前座だったはずなのですが、結構長くなったので本題は次回にします。
世の中、心霊現象だとかUFOだとか完全否定はできないにしても、曖昧な存在が結構ありますよね。
「曖昧な存在」と言うよりは「存在が曖昧」なのか。
とにかくそういうものに対して私は
「見たものしか信じない」
と、誰でも言いそうでしかもちょっと大人っぽいセリフを使うわけなんですが。
ちょっと考えてみたところ、どうやら私は見方を変えると大嘘つきになっていたのです。
一般的に「それがある」と認識されていないものに対して私は純粋に「見たものしか」信じていません。
というより「そういった事象はまだ見たことも経験したこともない」のほうが正しい。
ん?さっきと言ってることが同じだろう、ですか?
はい、ここまでは確認です。そしてここまでは間違いないです。
問題はここからで、それは
「一般的にそれがある、あったと認識されているもの」
に対する問題です。
人によっては何を言ってるのか理解しにくいかもしれません。
例えば、私は日本人で、海外に行ったことはただの一度もありません。
ですが、世界には日本以外の国があることを「知っています」
私は地球人で、地球の外に出たことがありませんが、地球以外の天体があることを「知っています」
さらには、私が生まれる前の過去に起こった世界の出来事まで知っているのです。
つまり、世間的には一般常識で、むしろ知らないとバカ扱いされるような知識、そのほとんどは自ら直接見たわけでもなく、過去に起こったとされる経験していない出来事を
「知っている」
と言っていたわけです。
皆さんは、それらの事象が全て当然の事実で、真実で、疑う余地など1ミリもないとお考えでしょうか。
そういえば私は、実はそんな常識でしかないはずの世界の全てに「実在しない可能性」というか「疑惑」を昔から抱いていたのです。
例えば、この地球は、皆さんがイメージするようなドデカいスケールでなくとも問題ないのではないか、と思うのです。
極端な言い方をすれば常時地球がフルサイズで存在している必要はないのでは?という疑惑です。
私目線で話しますと、例えば今、私は自分の家の自分の部屋でパソコンを操作しています。
このとき、私にとって「現実を現実と認めるために必要な情報」というのは本当に限られていると思いませんか?
生活観を演出する情報、と言ってもいいかもしれません。
目の前のパソコンはもちろんですが、自分の部屋の情報、壁や時計、本棚の様子、開けた窓、窓はカーテンを閉めていますから、お昼時であれば日の光をカーテンの向こう側から感じられれば、太陽はなくても不自然には感じません。
せいぜい風になびく程度でしょうか。
そう、部屋の外の情報は窓から見る景色さえ今は必要としないのです。
外から得られうるものは人の話し声、車の走る音、風邪の音、鳥の鳴き声、そんな情報くらいです。
私の家の情報も、今この一瞬に限るなら、2階にあるこの私の部屋だけ存在してればいいのです。
そう考えると、外国の存在どころか、日本の都道府県もいらず、市内の情報もいらず、ほとんどいらないのです。
となると、今私が必要としない情報は、ぶっちゃけ存在しなくてもいいわけで、地球の大半というかほぼ100%なくても気づきません。
酸素は必要ですけどね。
私にとって、その日、その時、その場所から目視で確認できないものは、当然あるかないかもわからないわけで、その存在を認めようがないわけです。
誰もいない、誰も見ていないその景色が常時実在している根拠はない、という考え方です。
だから、何も無いかも知れないという疑惑、というかそれこそ未確認なわけですよ。
まあ、とにかく世界のいろんな場所にいる皆のために、同時にそこに、全てまとまって、「出来上がった世界」が実在していなかったとしても、ここにいる、生きていることを私は実感できているのです。
「見たものしか信じない」
というのは、つきつめるとまさにこの状況になるわけです。
「今、見えてるものしか信じられない」
つまり、
「今見えてないものがあちらこちらに存在していることを誰が証明できようか」
ということになるのです。
なるのです?私の考えとしては、ということです。
まあ、同じこと考えてる人もきっと世の中にはたくさんいるんでしょうね。
昨日、確かにそこにあったものが今日も必ずそこにあるとは限らない。
その一瞬、一瞬の連続が時間であるのなら、生活していく中で、自分の見える範囲で体験した事象こそが、胸をはって「知っている出来事」なのではないでしょうか。