綺麗事の側面は汚い | この場で全てを探す旅

この場で全てを探す旅

今、自分が置かれている生活環境のまま、自分にとって人生最大のテーマに立ち向かうさまを残すブログ。
人生ってなんだ?に真っ向から対決しますが、趣味、こだわり、妄想、アレコレ考えさせられることからの自論展開、すでに限界。

突然思いついた話でも、毎日のように考えている話でもない、私にとってはそのぐらいの距離間を保っているテーマなんですけどね。

自殺って。

結果として出てしまったのなら。
周りにとっては正に「他人事」というしかないですよね。

私が常に思っていることの一つ
「他人の考えなど理解できると思うな」
です。

仲の良い人、仮に親友と呼べるほどの仲であっても、相手を完全に理解することなど不可能だと私は言い切ってしまいますね。

仮に、他人という存在を完全に理解できるのなら、知られてしまった人はその人に何一つ反論できない関係になってしまうと思うのです。

見透かされ、見下され、利用され、操られているようにしか感じないでしょう。

そこに信頼関係が共存することはあり得ないように思います。

中には、相手に自分の全てを知って欲しいと思う人がいるかもしれませんが、果たして本当にほんのわずかなことも隠すことなく完全に、全てを晒せるでしょうか。

まあ、全て知ることが出来たとしても、私はそんなものに興味ありませんし。

話が軽く脱線しましたが、自殺に至るまでの道のりは、言うまでもなくその人が歩いた道であることは疑いようのない事実であり、結果です。

仮にその人の周辺環境がその道を作り、追い込んだのだとしても、それでも道を歩いたのは自分なのです。

道は常に分岐しています。

自分の進む道。

進みたい道も、進みたくない道も、可能性がある限りそれは無数に枝分かれしていきます。

その中で、一番早く自らの意思で選べる人生の終点が、自殺というだけです。

人生の終点、死。

それは、全ての人に例外なく決まっている結末で、生まれることとセットで自分についてきます。

その時期や原因は人それぞれで、それこそ「運命」なんて言葉はまさに絶妙な表現だと思います。

死については、誰でも一度は考えることだと思います。

ですが、自分の死はともかく、他人の死に関しては、結果として出てしまったものはどうにもなりません。

死んでしまってから周りが騒ぐ。
職場が、学校が、家族が。
遅いですね、実に遅い。

時すでに遅しって言いますが、あれですね。

後悔先に立たずと似た感じですね。

私の自論のひとつに「後悔は故意犯」というのがあります。

誰かが自殺を選択したことを後悔するというのなら、それは事前に出来ることがあった、ということです。

そしてそれをしなかった。

ならば、自殺を責めることはできませんね。

それは、その人が数ある道の分岐から、自らの意志で選択したものだから。

自殺までの道のりを周りが、他人が、環境が作り出したと責任を追求するのなら。

自殺しなくて済む道もまた、周りから作ってやれたのでは?その人達も同様に責任を追求されないと。

まあ、私も死ぬ事については結構考えてまして、なぜ自分が死ぬことを選ぼうとしているかを何度も自問自答したものです。

まあ、未だ吹っ切れたわけでも解決したわけでもありませんが。

とにかく、自殺を選択するまでに存在する分岐が多いほど、回避できる可能性はあると思います。

そして、その分岐を作り出すのは自分自身です。

職場が嫌で死にたいのなら、仕事を辞めるという選択肢を。

夫婦間の家庭問題が原因なら、離婚という選択肢を。

その選択を出来ないのなら、出来ない理由と自分の未来を天秤にかける。

仕事を辞めたら再就職出来る自信がないから辞めれない、というのなら無職と自殺を天秤にかけ、どちらをとるか、という話です。

しかしながら、この天秤は社会の一般常識で作られた天秤ではない、特別製なのです。

本人の価値観が100パーセント反映される、他人が触れることのできないものなのです。

それこそ、自分の未来は自分で決める。

他人の未来や人生に向かって、横から自前の価値観で、常識で、批判しようと説得しようと耳に入らないのは当然のこと。

その人の人生の分岐が、天秤が、見えない者には立ち入ることはできません。

だから他人事なのです。

まさに事が起こる直前に説得するということが必ずしも正義の行いではない。

起こってしまった結果にあとから何を言おうとも過去は変わらない。

スピード違反者を取り締まるだけで、交通違反がなくなりましたか?

自殺もスピード違反も、根絶したいのなら、それこそ「多くの人」を知る必要があるのだと、私は思います。

そして、それは無理だと思うのです。