私、イライラしてキーっ!て家族に怒ってしまう。


もう、無意識に条件反射で。


時々、自分でも"私、怒ってるなー、なんでこんなに怒ってるんだろう?"とか思ってた。


そして、人が怒るのって当たり前だと思ってた。


それが先日違うということを知った。


世の中には怒らない人がいるらしい。


喜怒哀楽って、必ず誰しも全て持っていると思ってた。


いや、正確に言うと"感情を振りかざして誰かにぶつけない人"なんだ。


今、書いていて思った。


そうだ、自分の弱さや恐怖を隠す為に私は怒りをぶつけてた。


弱い犬ほど良く吠えるってやつだ。


弱い自分を認めたくなくて、そんな自分を誰にも見られたくなくて。


怒りでそれらを覆ってしまえば、怒りの感情に目を奪われて誰も弱い私に気付かない。


攻撃に勝る防御なし、だったんだなぁと思った。


自己価値の低かった私は、なけなしのプライドを失わない様に、誰かにつけこまれないようにって必死だったんだ。


気がついたらそれが当たり前になって、わからなくなってたんだなぁと思う。


それは、幼い頃から父に感じていたことで。


なんだかんだと嫌っていた父のそんな性質を私は色濃く受け継いでいたことを薄々知っていた。


そして社会に出てからも無駄に怒りを振りまく人達に嫌悪感を感じていたのも。


全て、私の私に対する嫌悪感であり、自分に見せられたものだったんだと今のならふにおちる。


そう、嫌悪する自分を受け入れられてなかったことを先日知らされた(笑)


そして、「それ、まだ受け継いだままにして、子の代まで引き継ぎますか?」って問われた。






もう、この性質はわたしの性格だからってどこか諦めてたんだ!って気付かされた。


私はこの怒りをぶつけることで自分を守ることをやめてもいいんだ。


もっと言うと、そんな弱くて駄目な自分を受け入れればいいんだ。


それを私の意志で決められるってことを忘れていたんだ。


思い込みってやつは可能性を限定している。


私らしさというものさえ、あやしい。


"私らしさ"を本当に私は知っているんだろうか?


それを体現できているんだろうか?


そう思ってハッとする。


私がわたしを一番知らないのかもしれないって可能性にびっくりした。


私って誰?どんな人なんだろう?


考えようとするとどんどんわからなくなりそうで、ふと思う。


わいてきた欲求に正直に従っていったら"私らしさというものになるんじゃないか?"って。


私らしさって、そうやって動いていった先に誰かが表現して教えてもらえるものなのかもしれないって。


私の欲求に純粋に真っ直ぐに従えることが、私を表現することになり、そのフィードバックを他者や現実が見せてくれる。


ひょっとしたらただそれだけのことなのかもしれない。


そこにたどり着いたらなんだかホッとする私がいる。


私はこんな人だからって、頭で考えて、あれこれこねくりまわす必要なんてなくて。


人目や常識が気になってしまうけれど、私の奥から響く欲求に従えることが自分で生きるってことなのかもしれないって思う。


それは想像するだけでも恐ろしいことだけれども。


現状で生き辛さを感じるのなら、今のやり方を変えれば良いわけで。


それならやってみるしかないわけで。


私が思い込んで抱えている、私が引き継いだ性質を息子に引き継ぎしない為にも。


何より私が人生を謳歌する為にも。


その辺りをもう少し意識して、自分の欲求に敏感に素直になることをやってみようと思う。


言うは易し…だけれどこのことが判明した、受け入れられたことだけでも一歩前進だと思って。





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