涙の理由 ② | 「窓辺の風景」 ・・・喜・想・哀・楽  

「窓辺の風景」 ・・・喜・想・哀・楽  

かけがえのない大切な時の流れ・・・
心の窓を開いて望む一瞬の風景を、優しい言の葉で綴ります。


GWが始まりましたね。通勤時間帯の車の量は少ないようですが、街の中心部は人で溢れています。

この時期にご葬儀が重なると、遠方からおいでになるご親族は、飛行機や新幹線の予約が取れずに

やむなくお別れが出来なかったりという話も耳にします。お盆や年末年始も同様ですが、交通事故

などにも、十分に注意したいものです。


早いもので、義父が亡くなって3週間。この連休にはまたダンナと義弟が実家に戻り、義母と一緒に

さまざまな手続きを済ませたり、お仏壇やお墓の話も進めてくるようです。夏くらいまでは、まだまだ

落ち着かない日々になるのでしょう。

義父は9日未明に病院で息を引き取り、それから自宅に戻って2日後の11日に通夜が執り行われました。

通夜・葬儀ともに葬儀社の式場をお借りしたのですが、四国の同業者から聞いてはいたものの、あちらでは

通夜は親族控室ともなる和室で、故人はお布団に寝かせたままの状態で、通夜のお勤めがあるんです。

足のしびれとの闘いとなる1時間弱でしたが、なんとか醜態をさらすこともなく終わることができました。

喪主を務めるダンナは、ご住職が退席された後に集まっていただいた弔問の皆さんに向かってご挨拶を

することになります。当然のことながら、緊張した面持ちで話し始めたかと思えば、父親の死を自らが発した

言葉で確認してしまったことに気づいたかのように、何かが込み上げてきたのでしょう。言葉に詰まり

震えかけた声を必死で取り繕うようにまとめていました。日頃の仕事の際にもよく見かける光景ですが

いくつになっても親の死は、子どもにとっては平常心ではとても受けとめきれない、深い悲しみなのです。

通夜の晩は、息子と孫ら5人が式場に泊まり、私は義母や義妹に長男の嫁とのんちゃんを連れて実家に

戻り、翌朝は従姉に喪服を着付けてもらって再び式場へ向かいました。そして、義父を棺に安置する

納棺式が行われました。着物に帯、羽織をかけて好物だった明太子や和菓子も添えられました。その間

棺のそばでお線香を持つ役目は、二男が務めました。

義父の孫は、うちと義弟のところを合わせて5人、全員男の子です。彼らには前日、葬儀の際に祖父への

感謝の言葉を一人ずつ伝えるようにと宿題を課していました。孫からおじいちゃんやおばあちゃんへ送る

メッセージは、私たち司会者がどれほどの名文を綴ったところで叶うものでもありません。短めに一言でも

いいからと言いはしたものの、さてどんな具合になるのかは興味津々といったところでもありました。

葬儀の開式前に、まだ幼い孫たちと一緒に笑っている義父の写真が、式場前方のスクリーンに映し出され

生前の様子をまとめたナレーションと共に、懐かしく見入るひととき。そして真言宗の導師をお迎えして

葬儀が始まりました。弔辞の代わりに孫5人からの哀悼の言葉が送られる旨のアナウンスが入り

私たちの後列に座っていた彼らが、ちょうど中央の通路に並びました。いずれも170~180cmで

そこそこイケメン(笑)軍団がずらっと並んだ姿は、なかなか壮観だったことでしょう。

(私の位置からは、真横にズラッと並んでいる風にしか見えなかったので・・・)

義弟家の二男である高校3年生のT君から順に、マイクの前に立ち、おじいちゃんに話しかけ始めました。

「僕はあともう少し部活を頑張って、大学受験に向かうから、来春には合格の報告を楽しみに待っててね」

トップバッターの彼がうまくまとめたので、この後は少しずつハードルが上がる予感(笑) 次にその兄の

大学生M君です。「僕はつい先日、じいちゃんを見舞いました。もっとあの時にいろいろ話をしておけば

良かったと後悔しています。いつも可愛がってくれてありがとう・・・。」 さて、いよいよバトンが我が家の

三兄弟に渡りました。

まずは三男坊主から・・・「じいちゃん、〇〇〇です。私が東京に就職してからも、いつも電話では身体の

ことを気遣ってくれましたね。これからもしっかり頑張りますので、見守っていてください。」

おや?!ナンチャッテなチャラ男が、いっちょまえのビジネスマントークになっちゃってるではないの?!

続いて二男は・・・「じいちゃん、〇〇です。じいちゃんの名前の一文字をもらっています。小さい頃から

喘息を心配してくれていました。じいちゃんも最近は咳き込むことが多かったようで、きつかっただろうと

思います。仕事もなんとか落ち着きましたから、安心してください。お世話になりました。」

最後は、初孫でもある長男です。「じいちゃん、〇〇です。オレがやっぱり一番可愛がってもらったと

思います。でも時には『〇〇くんは長男じゃけん、しっかりせんといかん。』と、弟達よりも厳しく言われた

こともありましたよね。結婚して子どもが生まれて・・・」 なんとこの長男が、前夜のダンナ同様、途中から

涙をこぼし、震える声で必死で話しかけるではありませんか?!「一度だけひ孫を抱かせてやることが

できたけど、もっともっと会わせてあげたかった。じいちゃん、ごめん!ばあちゃんは、オヤジやオレらが

支えます。心配せずにゆっくり休んでください。ほんとうにありがとうございました。」

ちょっと~~~~、オマエが泣くなんて!!!そして、それにこの母がもらい泣きするなんて~~~ あせる

同じ列に座っている喪主も義母も義弟も義妹も、親族のおっちゃんおばちゃんも、後に聞いた話では

みんな「アレにはやられたなあ~~」と、ちょっとした感動の場面になったのでした。とうの本人は

非常にバツの悪そうな表情で、触れられたくない弱点になりそうですがね。もちろん、この数日間を

さほど湿っぽくなく、みんなの気持ちを和ませる存在が、ひ孫ののんちゃんであったのは、言うまでも

ありません。義父の携帯電話の待ち受け画面には、まだ生後半年くらいの頃に帰った際に写した

のんちゃんとのツーショットが残されています。


閉式後、再び棺のふたを開けて、最期の献花が行われました。大輪のユリの花を義父の顔のそばに置き

もういちど頬に触れて、「長い間、お疲れ様でした。」と声をかけると、また涙が溢れてきました。きっと

出来の悪い嫁に不満も多かったことでしょう。口数も少なく、面と向かってきつい言葉を言われた記憶も

ありませんが、たまに義母からこっそり聞かされたこともありました^^;結婚してもうすぐ30年にもなると

いうのに、帰省した時には上げ膳据え膳で楽チンでしたし、我が家に来てもらったときでさえ、大した

おもてなしもできませんでしたよね。義母が入院した際に、自宅療養の義父の世話に戻り、私がテキトーに

つくったお味噌汁を「ばあちゃんのより美味しい!」と褒めてもらえたことは忘れません。

火葬場まで同行した長男家族と三男は、拾骨を待たずに翌日の仕事に間に合うように帰途に着きました。

のんちゃんとは予定外の再会となりましたが、人見知りもなく誰にでも笑顔をふりまいて人気者でしたし

義母や義弟家族もみんな揃って、笑顔の遺影と一緒に全員での写真撮影の機会を作ってくれた義父に

今一度感謝!!それぞれが流した涙の理由は、それぞれに異なり、思い出と共に刻まれることでしょう。

今日という日が、命尽きた人が生きたいと願った明日であることを、あらためて感じた義父とのお別れでした。


「窓辺の風景」 ・・・喜・想・哀・楽