涙の理由 ① | 「窓辺の風景」 ・・・喜・想・哀・楽  

「窓辺の風景」 ・・・喜・想・哀・楽  

かけがえのない大切な時の流れ・・・
心の窓を開いて望む一瞬の風景を、優しい言の葉で綴ります。



昨晩は雨や風が強かったのに、今朝はみごとに晴れわたり、新緑が陽射しを受けて輝いています。

あの日も、こんな青空の一日でした・・・。

先月末に肺ガンの宣告を受けていた義父が、4月9日未明に息を引き取りました。カウントダウンを意識して

わずか半月足らずで、あまりにも急な報せに私たち家族は戸惑いながらも、無事に通夜・葬儀を終え

長い闘病生活を労い、感謝の言葉を添えて見送りました。前回の記事(京都旅行)は、義父が亡くなる前に

まとめて綴って保存していたものを、葬儀後にアップしていました。業界人のはしくれとして臨んだ数日間の

詳細は、別枠で記載しましたが、かけがえのない家族を見送った一個人としての思いを、ここに残して

おきたいと思います。



4月8日日曜日、いつものように仕事を終えて帰宅したものの、夕方あたりからくしゃみ連発や熱っぽい

風邪の症状が始まりました。食事を済ませてとっとと寝ようと思いながらも、ちょうど義母からダンナへ

電話が入り、義父が5日に退院したけどやっぱり調子が良くないので7日に再入院したことを知りました。

再検査などで疲れも加わったのか、8日朝から少し意識が薄れているような気配が感じられ、主治医からも

早めに家族には連絡しておいた方が良いかも知れないと言われたとのことです。

ダンナももともと数日のうちには帰省するつもりにはしていたようですが、それならばと翌月曜日には仕事の

段取りをつけて帰ることを、義母に伝えていました。「じゃあ、明日の朝に着替えなんかは用意するから!」と

とりあえず私は、風邪薬を飲んで早めに寝ることに・・・。ところが、わずか数時間後の日付が変わった頃

再び電話が鳴っている音で目覚めた私に、ボソッと告げられた一言は・・・「オヤジが死んだらしい。」

病院からの報せで駆けつけた義母も臨終には間に合わなかったようです。同居している二男も起こし

在京の息子達にも連絡を入れて、通夜・葬儀に参列するために帰省するよう伝えました。義母には

他の親族が付き添ってくれており、まずは義父を自宅に連れて返り、その後の葬儀に関する打ち合わせは

慌てなくても私たちが帰ってから話し合おうと説得して、とにかく朝を待つことにしました。ひととおりの電話

連絡を終えて、携帯をテーブルに置いて大きな溜め息をついたダンナと私は、しばらく沈黙の時を過ごし

じわじわと涙があふれてくるのを感じました。悲しいのやら悔しいのやら、「なんかわけわからんけど、涙が

とまらんなあ・・・。」とつぶやきながらも、泣き続けました。

私は布団に入っても寝つけず、ダンナは居間のソファに横になったまま一睡もできずに朝を迎えました。

仕事に迷惑のかかりそうな取引先への連絡を済ませ、ダンナは午前の新幹線で出発。私と二男はその日の

仕事を終えて、夕方の便で四国へ向かいました。長男家族と三男も、その日の夜に車で一緒に戻ることに。

計らずも家族全員が揃うことになったのでした。夜10時すぎ、実家に着いた私達はそのまま義父の枕元へ。

顔に被せられた白布をはずして、2年ぶりの対面です。「おじいちゃん、よく頑張りましたよね。」と声をかけ

初めて義父の額や頬に触れました。ここでもまた、涙があふれてとまりませんでした。

「バタバタさせて悪かったね。」と、寝床に入ったばかりだったというのに、また起き出してきた義母の姿は

2年前に入院した際に見舞ったときよりも、さらに小さく細くなってしまっていました。お寺さまの都合で

葬儀の日程が一日延びたことを聞き、まる二日間は自宅で義父を寝かせてあげられたのは、家族に

とっても良かったのではないかと思っています。

ほんの2~3日前に、義父と電話で話をしていた二男は、「じいちゃんが話したいことがあるけん、帰って

来いって言い寄った。中旬の連休で会いに行こうかな。」と言っていた矢先の急逝だったこともあり

その約束が果たせなかったことへの後悔もあったのか、この夜から通夜までの3日間、毎晩義父のそばで

ロウソクや線香の番をしてくれていました。幼い頃から喘息を患い咳き込んで苦しがる二男を、いちばん

心配してくれて、またおじいちゃんも晩年は喘息できつい思いをしていただけに、孫たちの中でもこの子が

義父とのつながりがより深かったのかも知れません。


つづく