米原万里著「ロシアは今日も荒れ模様」を

帰省した先の本棚に見つけ、読んだ。

 

なんというか。

とても複雑な本だった。

 

ウィットに富んでいる、上品

それでいて、汚い話もあり、

そして私にはよくわからないなというところもありつつ、

うーんと考えさせらせられるところもありつつ

そして、はっとさせられるところもある本だった、という複雑さだった。

 

とてもとても印象に残った章がある。

 

ソビエト崩壊以降、知的支援という名目で、
日本の官庁や民間企業が、

多数の旧ソ連人の研修生を受け入れ、
市場経済の方法と技術を伝授している。

戦後日本の

奇跡的経済復興と発展の経験に学ぼうと
意気盛んに矢次早に質問を浴びせるソ連からの研修生。

ところが。

日本のサラリーマンの年平均有給休暇利用日数が10日未満と聞いて
幾度も耳を疑い、
ついでにこちらの通訳能力まで疑い
何度も再確認した後は

すっかり鼻白んで
質問も湿りがちになってしまったことが
一度ならずあった。


あるいは。

「国鉄を民営化し、作業現場の効率化、合理化を図る中で、この保線区の人員を、二名から一名に縮小することができました」
と、
自慢で自慢でしかたがないという風情で説明するJR幹部。

それをさえぎった研修生。
「ちょっと待ってください。」

どんなに、機械化が徹底しようと、人間の注意力には限界があります。

ですから
保線区のような、鉄路の安全と人命に関わる部署は、決して一人にすべきではありません


第一、削減されて、一人で働くようになった労働者の負担もストレスも増え、

結局労働条件が悪化しているのではありませんか?

それを改革と呼べるのでしょうか。」

そう問われて二の句が継げず、

苦笑いするばかりであった。
(中略)

研修生にも遠慮がある。
だから表立って言いはしないが、

繁栄を極める日本経済の背後に、
寒々とした風景を感じ取っているのではないだろうか。

繁栄と引き換えに日本が切り捨て、
失ってきたものの、累々たる屍の風景
を。

少なくともその場で通訳するわたしには、

そんな風景が
いやおうなく垣間見えてしまうのである。


経済の発展も
技術革新も
その主体である人間のためにこそあるはず
だ。

この、ごくあたりまえの
しかし
大切な真実を

豊かなはずの日本が
貧しいはずのソ連を支援する現場で


ことあるごとに思い知らされる

今日この頃である。

―ジパングの寒々とした光景(初出1992年)


これは、米原万里さんの1998年出版の本に収録されていた話。


米原万里さんが亡くなったのは2006年。

福知山線の列車脱線事故が発生したのは2005年。
米原さんは闘病中であったと思う。
ニュースを見て何を思ったか。

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ここからは私自身の話になるけれど、

縁あって、事故当時のJR西の幹部だった方の話を聞いたことがある。

また、事故の前に発行されていた社内誌をある人に貸していただき、読んだことがある。


当時のJRの体制については、色々とたたかれているけれども、
それはそれで厳然たる事実だとしても、


それと同時に、

きっと「良い会社」であったのだろうと感じた。

それも、やはり厳然たる事実として。



事故前の社内誌から伝わってきたのは、
なんというか、

勢いがあって、前向きな組織の姿。
安全をないがしろにしてもいいとは誰も「明文化しては」思っていなかったはずだ。

気がついたら実は安全がないがしろになっていた、そうだと気づかないうちに…というのが正しい気がする。


そして、それよりも「よりよりサービス」を真剣に考え、そこに向かって、すごく熱心に働いていた様子がうかがえる。


私が話を聞いた幹部は、
事故の発端のひとつは

一種の間違った成功体験だったという主旨のことを語っていた。
それは1995年の阪神大震災。

あのときの

会社が一丸となったモーレツな努力に基づく、

迅速なサービス再開。
それを契機とした発展。

これは、とても強力な「成功体験」として、幹部や社員に刻まれた。
そして「よりよい会社」になるための動きが加速した。

より良い会社とは何か。


お客様の期待に応える会社。
お客様の期待とは何か。
早くて、安い。利便性が高いこと…


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ああ、まさに、米原さんが指摘している

「資本主義」がここにあるじゃないか。


そして、その行きつく先が、
2005年4月25日 福知山線列車脱線事故だったのだ。


こうしてみると
震災はたしかに契機であったのだろうけれど、

そのもっと前の源泉は、
まさに、米原さんが直接触れた旧国鉄~JR、

そして日本社会のありかたそのものに

あったんだろうなと思う。


私は2005年の事故当時、学生だった。

私たちは高校の部活の後、

列車が毎日遅れているのを、

世間話のネタにしていたものだ。



私が住んでいたのは都市中心部から

ちょっと外れていて

駅間の距離が長めだった。

都市部で満員の乗客を運んで
遅れがデフォルトになっている列車は、
私たちが通学に使っていた路線で後れを取り戻すようにしていたようだ。


無理ありきの過密ダイヤが常態化していて、
それでいて「遅れ時分」が長ければ長いほど叱責の対象だった。
だから、乗務員は、スピードを出しやすい駅間距離の長い路線で、上限ぎりぎりまでスピードを出して、遅れ時分を少しでも短縮しようとしていた、
…そういう乗務員さんの切実な状況は、あとで報道で知ったことだ。


でも、列車が私たちの路線で後れを取り戻しているのは、

私たちは観察の結果知っていた。

その背景を慮るようなことはせず、


ただただ、
昨日の電車はA駅に10分遅れで来て、B駅での遅れは7分だった、
今日は8分遅れ出来て、B駅では3分になっていた、「今日は運転手さん頑張ったんやね」。

そんなことを、部活の友達と毎日の帰り道の話のネタにしていたのだ。


のんきに。


まるで天気の話みたいに。



だから

報道を聞いていて、私は、うすら寒くなった。

私たちは、悪意なく、「便利さ」を期待し、

列車が数分遅れたときには不満を感じていた。

鉄道会社に直接投書したり怒鳴り込むようなことはしなくても、

不満な感情をあらわにはしていた。

そういうわたしたちの「声」が、ひとつの会社の方向性を左右していた。


私も、遠くの遠くの遠くではあろうけれども、

それでも、事故の遠因を作った1ピースには間違いないと思ったのだ。

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事故で、実際に被害にあわれた方は、
こんなふうに、大局的に、事故を語られることに不快感を感じるかもしれない。

「100名を超える旅客」というのは、

けっしてひとまとまりではなくて
亡くなった一人の命がそれだけの数あった、ということなのだから。

それでも、
あの事故は、
私たち自身が作った社会のひとつの帰結という気がして仕方がない。


事故が起こる10年以上前の、
そして、当時、「支援される側」の立場であった若い人の発言が、

こんなにも真実をついているなんて。


「日本の鉄道の様々な安全の仕組みやルールは、

   過去の悲痛な事例のもとに築かれてきたものなのです」という。

(たとえば、 非常ドアコック設置義務化や自動列車停止装置開発の契機となったのはそれぞれ、1951年、1962年の大きな事故だ。)

 

「事故を経験していない社員の割合が増え、風化防止が課題です」ともいう。


だけれど、

 


資本主義に染まっていない人は、

若くても

事故を経験していなくても

そのことを知っていたんだなあ‥‥

というのが、

私にとっては、とてもとても印象に残ることだった。

 

 

当然ながら、私は政治イデオロギーの話を始める気はないし(私にはそんな高尚なことは無理)、

そもそも、

日本で鉄道や、その他の産業の事故防止を考えるにあたっては、日本人や時代に合った、やり方を考えるべきではあると思っている。

 


ただ、
100点の思想なんてどこにもなくて
どのような思想とか考え方にも、長所と短所があるんだなとあらためて思わされる。


 

同書のプロローグから。


あらゆるものが金に換算されて評価され、
商品としての価値を高めるために万人が血道をあげる社会。
物を売るためにあらん限りの知恵と情熱をささげることが当然視され、
それが今や押しとどめようもない自動運転モードに突入したような感がある。


(中略)

何もかもが「買って、買って」と
わめき、ささやき、こびへつらい、まとわりつくのにうんざりしている目からすると

「買ってくれなくとも一向にかまわないわ」

という感じの
貧相なその箱は、なんだかとても潔くてすがすがしかった。

己に包まれるものが商品となることを拒むような毅然とした迫力があった。



人にも、
物にも。

売れるか
売れないかなんかに関係なく、

それそのものの価値がある。
いや、価値など無関係に、それぞれ、勝手に存在する。
そんな当たり前の真実


虚を突かれたかのように気づかされたのだ。




ああ、看破ってこういうことを言うんだろうな。


ビズリーチのCMに私が感じている嫌悪感。
転職サービスのCMもだけれど。

その正体はこれだよね。



自分さえが「市場価値」で値踏みされ、
それが当たり前の社会ってなんなんだろうか。