前回、貧相な箱の話を書いた。その続き。

私が小学生のときにはすでに
「行きすぎた資本主義」みたいな話はあって
「お金で測れない価値がある」
みたいなことは、盛んに言われていた。
「スマイル プライスレス」
なんてキャッチフレーズが使われていたり。
北の国からが流行ったし、
世界でひとつだけの花なんて唄も流行った。
※
でも、私はわかったようでわかっていなかった。
それが、
「ソビエト連邦において、高級な銀食器を梱包していた、ものすごく貧相な箱」の話で、
やっと
今までより少しはちゃんとわかったと思う。
つまり、
私たちが、(少なくとも私が)
プライスレスとかなんとかいうときは、
だいたい
「自然」であったり
「笑顔」であったり
「人間関係」であったり、
そもそも文字通り値段をつけることができない
ものを指す。で、
お金で測れない大切なものがあるんだ、という。
そして、その「はかり」を
「値札をつけようとすればつけられるもの」
にたいして向けることはない。
絵画とか芸術品とか。
ともすれば
価値=価格にして何円か
という発想が染み付いてる。
でも、この箱が言っているのは、
芸術的な価値は、
(あるいは芸術に限らずさまざまな価値は)
市場価値とはまた別なもの
というとても当たり前だけど、
まちがいやすい事柄であると思う。
「お金で換算できない対象がある」
ということと、
「万物の価値はお金に換算した値では決まらない」(換算額は便宜的な指標のひとつにすぎない)
ということが
混同してしまっていないか。
ものの価値とは
貨幣による価格がつくものだろうがつかないものだろうが、
売り物だろうが売れないものだろうが、
それとは関係ない次元の話で、
よいものはよい
というとても単純な話。
誰それがドラマのなかで使ったから
プレミアがついて値が上がるとか
そんなんじゃなくて。
もしかしたら
それを実現するために、
高い技術の職人がこんな時間をかけてどうこうしたということでさえなくて
純粋に、
精巧な模様であったり、
色合いであったり、
そういったことの素晴らしさ(どれだけ心動かされるか)に価値があるということ。
もちろん、それを、美しいと思う人がいてはじめて、「美しい」「価値がある」という状況が成立するので、
相対的な部分を無視することは絶対にできないけれど。
おそらく、100人見て99人が、
「良い!」と思うものって絶対にあって
それはやはり「社会全体にとって価値がある」といえるのだろうな。
そこに価格という概念は存在しない。
わたしもそう思うし
みんなもそう思う、ということが
「自信」になるのだと思う。
個人の自信であり、社会の自信。
きっと文明や文化の本質。
それと較べて、
価格はもっともっと相対的だ。
Aという品をBさんがCさんに売るとして。
Aの価格は本来BさんとCさんの間で決めればよいよね。
ただ、実際には「市場価格」「市場単価」が、いちばん問題になる。みんな損をしたくないし、よくも悪くも【公平】でありたいから。
あるいはめんどくさいから。
「市場経済」というヤツにおかされると
この市場単価が、感動の共有に置き換わってしまうんじゃないかなぁ。
価値判断が
「感動による判断」の対局に
に走りすぎるんだろうなぁ…と。
そのうち、審美眼がなくなりそうだ。
そのうち、じぶんがなくなりそうだ。
もう手遅れなのかもしれない。
皆が美しいと思えなければ、
社会的な価値としての美しさは存在しない。
それは、時代とか環境の影響を受けるはずで、だからたぶん純粋に生得的ではないものの、それでも、絶対に【内発的】だ。
自分が美しいと自ら感じて
まわりも美しいと言って、
美しいが学習されて共有されていく。
たぶん、「共有された価値」と「市場価格」は、
極めて高い正の相関を示すはずで、
だけど一緒ではない。
そして値段がおまけなはずなんだけど。
実態が希薄になり、
影法師のほうばかり強調されている。
※※
鑑定団という番組がながく放送されてて
人気を博している。
「○円でした!」と出て、
それに一喜一憂する人たちが
違和感なく提示される世の中に
私たちは生きている。
持ち主自身の思いより、
価格のほうが真実で価値があるって
言っちゃってる。
とてもおかしなことなのに。
そのおかしさに気づかない。
旧ソ連の研修生がわかっていて偉そうに指南するJR幹部がわかっていなかったこと。
技術は人間のために使われるべきものだということ。
※※

考えてみると、
近年の状況はますますカオスだ。
みんな値段でものの価値を測るのに、
それでいて
ものの値段が一定しない。
価格は本来状況依存的なものなのに、
この時代を反映してさらに変わりやすくて
そして、いま、
その不一致の部分がすごく強調されてる。
(トリ○ゴとか価○.comとか)
こんな状況だから
『市場経済病末期』の私たちは
ますます自分の価値観に自信を失っている。
そんななか
「良いものは良い」
ではなくて
「俺が良いと思ったら良い」
とかいう輩が出てくる。
そして
こんな○ャイアンみたいな主張が、
まかり通ってしまうんじゃないだろうか。
大きな国のトップが、
そんなことを言い出しても、
私たちみんな
「よいものはよい」「だいじなものはだいじ」
っていえなくて、
ただただ翻弄されてしまうのでは。
それは誰かが軟弱とかダメだとかというより
社会そのものが
もはや
骨抜きになってるってことでは。
じゃ、どうしたらいいの?
ええ、全然わかりませんとも。
※※
2005年の事故は、
たしかにひとつの帰結であったかもしれない。
そして、当事者・関係者には、
たしかに多少は響いたかもしれない。
資本主義に冒されて本質はわかってなかったとしても、わからないなりに「安全は聖域、神域」と「皆が」認識した。「社会」も「その組織はかくあるべきだ」と認識した。だから、安全投資の額が大幅に増えた。
でも、あくまで「ひとつの組織の問題」としか
認識されていないから、
日本社会はぜんぜん変わらなかったし、
全体的な世の中の動きは変わってないのだと思う。
(JRだって、「とりあえずとにかく安全は大事!知らんけど」的な、乱暴な部分があるかも。
そうだとしても安全が大事という方針があることは貴重だけれど)

※※
ここで大事なのは、
個人完結のことではない、
ということなのだろうな。
私は気を付けるとか、
私は自分を保つとか、
そういう話じゃない。
文化そのものに関わることだと思う。
皆がそう思わないと、
そしてそれに対する自信がないと
価値は機能しない。
いやぁ、世界はどうなるんだろうなぁ。
米原万里さんは、「ソ連は20世紀を代表する巨大な実験だった」と言う。でも、資本主義社会だって実験プロセスが進行中なのかも。
ソ連
という実験が終わっても、
世界もロシアも終わらなかった。
人々はいつも生きている。
私たちの生活も続いていくのだろうとは思うけど。
※※※※
などなど、
わたしなりに考えました、という話。