
回顧録Vol.3 PITTIじゃなくてパリのSEHM(後編)
前回に続き、90年代ヨーロッパ最大の展示会であったパリのSEHMのお話です。
前回は会場内の雰囲気や出展ブランドをお見せしましたが、今回は来場者のスナップや著名人のコーディネート、そしてSEHMが衰退しPITTI UOMOの隆盛が始まる流れもお話ししたいと思います。
1994年のSEHMの会場で私が撮ったスナップです。
当時のSEHMでスナップをとる人はほとんどいなかったので、ある意味貴重な写真かもしれません。
日本のメンズ雑誌では、おそらくメンズクラブのバックナンバーでスナップを見たような気がしますが定かではありません。
90年代に入ると本格的な英国調のブームが広がり、この頃になるとVゾーンが狭い3つボタンのジャケットやスーツを着た人がSEHMの会場でも多く見られるようになりました。
それでも肩幅が広く着丈が長く、パンツも太く、なんとなく80年代を引きずった英国風も多く見られたので、まだまだ確立されていない部分も多かった印象です。
上の3枚はおそらくフランス人だと思いますが、フランス人はこんな感じのフィッティングやシルエットに無頓着な人が多く、4枚目もおそらくフランス人だと思いますが、こんな感じがOLD ENGLANDのディスプレイのようなフレンチブリティッシュで洒落た感じのフレンチスタイルでした。
このあたりの人たちはイタリア人だと思われます。
この頃すでにイタリア人は明らかにフランス人や英国人と違うフィッティングやシルエットのジャケットやスーツを着ていたので、すぐにイタリア人とわかる雰囲気でした。
パンツのシルエットも大きく違っていた印象です。
特に3枚目の人はネイビーのスーツにネイビーの無地のネクタイ、大きなノット、テーパードしたパンツと、現代にもつながる明らかなイタリアンクラシックなスタイルです。
当時は展示会場でスナップなど撮る人など誰もいなかったので、隣の女性が ”なんで撮るの” という感じで睨んでいますが、本当に知らない人に写真を撮られるのを嫌がる人がほとんどでした。
カジュアルなスナップはこれしかありません。
この人たちもおそらくフランス人だと思いますが、男性も女性も80年代のフレンチアイビーな感じのカジュアルスタイルです。
著名人たちのスタイルはこんな感じでした。
MICHAEL DRAKE
皆さんご存知のDRAKE'Sのデザイナーのマイケル ドレイクです。
1994年なのでまだスリムですね(笑)。
着用しているスーツはBELVEST、シャツはBROOKS BROTHERSのオックスフォードBD、靴はおそらくCHURCH'Sのダークブラウンスエードのチャッカブーツ(RYDER)だと思います。
彼と初めて会った1989年頃から引退する2010年頃までずっと彼のスタイルを見てきましたが、彼が英国のスーツやシャツを着ているのを見たことがありせん。
当時DRAKE'Sの共同経営者だったCARRINGTON HULL氏が英国のBELVESTのエージェントだったこともあり、マイケルはいつもBELVESTのネイビーかグレーのスーツを着ていました。
イタリアのスーツにBROOKS BROTHERSのボタンダウンにCHURCH'SのRYDERと言うのは、当時イタリアで流行っていたスタイルです。
ちなみに、2000年代に入るとナポリのサルトGENNARO SOLITO(ジェンナーロ ソリート)で仕立てたスーツを着るようになり、シャツも同じくナポリのカミチェリア FRANCESCO MEROLLA(フランチェスコ メローラ)でスミズーラしたセミワイドのシャツを着るようになりました。
当時彼のビジネスで最も重要なクライアントだったナポリのMARINELLAのMAURIZIO MARINELLA(マウリツィオ マリネッラ)の紹介でオーダーするようになったとマイケル本人から聞きました。
この写真を見ても、マイケルがMARINELLAのようなプリントのネクタイをしているのがわかります。
唯一英国人らしいと思った点は、イタリアのスーツを着ていてもブレイシーズ(サスペンダー)はずっとつけていたところです。
JOHN DAVIDSON
JOHN DAVIDSONって誰?と思う方も多いと思いますが、彼はJ&M DAVIDSONの創設者で、J&MのJは彼の名前からとっています。
Mは奥さんのMONIQUEからとっているので、JOHN&MONIQUE DAVIDSONがブランドネームの由来となっています。
彼のスタイルはいつも上の写真のように、ネイビーブレザーにボタンダウンシャツにネイビードットのスカーフ、ファイブポケットのジーンズに黒のオックスフォードやモンクストラップという、英国人らしからぬフレンチアイビー的なスタイルでした。
奥さんのMONIQUEはフランス人なので、その影響もあったと思います。
当時パリの街にリサーチに行くと彼ら夫婦をよく見かけました。
パリの街並みに溶け込んだ、二人のシンプルでありながら上品な装いに憧れたものです。
この画像は2015年の画像ですが、二人のスタイルが変わっていないのもいいですね。
LLOYD JENNINGS
本名はASHLEY LLOYD JENNINGS
LLOYD JENNINGSと聞いて懐かしいと思う方は相当な靴マニアだと思います。
1970年代後半頃にロンドンにあった彼の名を冠したショップは、クロケット&ジョーンズやエドワードグリーン製のLLOYD JENNINGSネームの靴を展開し、ビスポークも手掛け、ALDENも扱うショップでした。
ある意味伝説的なショップでしたが、ビジネス的にはうまくいかなかったようで数年後に閉店します。
その後パートナーであるJEREMY HACKETTと1983年にロンドンのキングスロードにオープンしたショップがHACKETTでした。
この写真は私が1989年に初めてロンドンに行った時に撮ったキングス ロードのHAKETT一号店。
自分の持っている写真を確認すると、1991年まではこの一号店の写真が残っています。
ストイックな英国紳士的な着こなしのハケット氏と比べると、彼はどことなくフランス人のような抜け感のあるスタイルでした。
ツイードジャケットにチャコールグレーのパンツに明るいブラウンの靴というスタイルも、英国というよりは少しラテンの雰囲気が感じられるスタイルでした。
彼はその後ALFRED DUNHILLやCORDINGSのディレクターや様々なブランドのコンサルタントを務めます。
私が最後に彼に会ったのは10年くらい前、PITTIが終わりフィレンツェからミラノに向かう列車の中。
私の向かいの席に座った彼は、白のオックスフォードのボタンダウンにホワイトデニム、足元はブラウンのドライビングシューズという、英国人というよりはフランス人のようなスタイルでした。
何度か面識があるのでその場で昔話に花が咲きましたが、気難しそうな雰囲気のハケット氏に比べるとジェニングス氏はフレンドリーでとても社交性のある人でした。
彼とのエピソードはいくつかありますが、2011年に書いたブログで少し触れているのでご興味があればご一読ください。
SEHMが盛り上がったのは90年代中頃がピークで、その後急速に衰退していきます。
きっかけは無料で誰でも入場できたのが入場料を取るようになったこと。
パリはファッションを学ぶ学生が多く、アパレルに携わる人もとても多いので、SEHMはそういう人たちが学んだりリサーチする場でもありました。
入場料(当時の値段で2000円くらい)をとるようになってから、そのような人たちが次第に来なくなり、来場者が急激に減り出し出展者の撤退が始まり、私が最後にSEHMに行った1999年には出展者が数十社という散々たる状況になり、その数年後幕を閉じました。
SEHMが衰退していくのと反比例しPITTI UOMOの来場者が増え、90年代後半頃にはPITTI UOMOがSEHMに代わりヨーロッパ最大の展示会となり現在に至ります。
こうやって当時のSEHMを振り返ってみると、なんとなく今のPITTI UOMOも似たような状況を感じます。
というのも、PITTI UOMOはここ数年急速にサプライヤーの撤退が相次ぎ、ブースの数は全盛期の6~7割くらいに減少しています。
今後もさらに減ることが予想され、PITTI離れが進んでいることは誰が見ても明らかです。
一般の方はSNSでスナップを見て盛り上がっているように感じているかもしれませんが、そもそもスナップに写っている人の多くがファッション業界の人ではなくインフルエンサーで、そのような人たちは会場の中にはいないので、4日間の会期の中で会場内が盛り上がるのは1.5日くらいで後はガラガラという状況なのです。
PITTIもなんとなくこの頃のSEHMと同じような状況で心配ではありますが、協会の旧い体質はなかなか改善されないようで、なんとなくどこかの国の政治に似ているなと思うところもあります。
あれだけ盛り上がっていたSEHMが数年でなくなってしまい、昨今のPITTI UOMOの危うい状況を見ても、時代の流れや時勢をしっかり捉えて早く対応しないといけないことをブログを書きながら思っていました。
40年間世界のブランドやショップの栄枯盛衰を見てきた自分にとって、過去を振り返ることで今や未来が見えることもあります。
”ブレずに正しく進化する”
難しいことですが、自分の仕事はそれが大事だと思っています。