ブログで難しい話が続いたのでここいらで哲学的なことは終わりにする。
自分の肥やしの為に趣味で哲学の本は読んでいこうとは思うがあくまでも肥やしであって、人に影響を与えるのは芽をだして咲いた花の方。

私はいつ頃から本をよく読む様になったのだろう?学生の時はあまり読んでいなかった。
多分社会に出ていろいろ悩むようになってからだろうか、答えを探して読むようになった。そのうち小説にはまって最近は体の仕組みと病気、健康についての本をよく読んでいる。

本のいいところはたくさんあるが一番好きなところは、本によって自分の個性がはっきりするところかな。読んでいると心にヒットする言葉や文章に出会う。表現できなかったあいまいな心の模様をしっかりと捉えた言葉に出会う喜びがある。

自分を表現できる言葉を得る喜び。その言葉は生きた言葉であるし、人に届く言葉になる。

もうすぐアップルからipadが発売される。電子書籍の時代がこれからやってくる。
手軽に大量の情報をどこでも読める。情報をいつでも引き出せる世の中で
情報の評価関数をしっかり持つことが個性になってくると思う。

あれ?やっぱり固い話になったかな。
自由って不思議なものだと思う。自由を求めているがいつまで経っても手にはいらない。
月を追いかけても一向に追いつけない感覚である。

思春期の頃は自由を強く求める時期であるように思う。
束縛からの解放が自由だと思い反抗してみる、選択肢を持つことが自由だと思い知らない世界を覗こうとする。そんなことをしながら大人になる。

大人になってお金を持つようになると更に選択肢が増え自由を得る。

自由への欲望がなくなることは無くもっと自由を求めて社会で生きて行く事になる。もっと、もっと、、、  

そうして自由になりたいと思い自由になれない不自由に陥る。映画「into the wild」という映画がまさにこのことを描いた映画だ。

自由とは?  選択肢が多い事?束縛の反対の意味?ランダム性を持つ事?
明確な答えを持っている人はどれぐらいいるだろう。
  

ここで少し思い出してもらいたい。世界の聖人、偉人達を。例えばマザー・テレサ。彼女のようになりたいと思う人は多いと思う。それは何故だろう?いろいろあると思うが、一つは自由を持っているからではないだろうか。修道女として生きた彼女の人生は制限がたくさんあったはずだ。なのに心に自由を持っていた。何者にも縛られていないあの笑顔に人は引き付けられる。


では彼女が持っていた自由とは何であろうか?それは視点の高さではないだろうか。
高い抽象度から人類を見ることが出来るから自由であったと思う。

それは私たちが蟻を見て不自由に思うのと同じであると思う。しかし蟻からは人間の存在は分からないから自分が不自由だとは思っていない。たくさん餌を集めて住処を広げることが自由だと思っている。

エッジ・オブ・カオスという言葉があるがそんな感じ。混沌の中から生まれる整合性を自分で作り出せれば自由を作りだすことが出来る。

高い抽象度を持てば今すぐにでも人は自由になれる。そのような視点を持ちたいものである。
世の中にはあいまいな事がたくさんあって、それが善か悪か判断しがたいものがある。
善か悪かの概念すら当事者の解釈によって変化するものであるから当然であるといえば当然である。
しかし、このようなあいまいな問題について追求することを自分なりにしなければ「自己」というものもあいまいな存在になると思う。

自分が何を選ぶかがアイデンティティーであり、選択が自己主張であると思う。

と、今置かれている立場から主張してみたのだけれども、逆に支配者側、権力者側からの立場からみたらどうだろう?
支配者はその権威を維持する為には従順な大衆が必要であり、自分の考えに従い先導できる世の中にしたいはずである。だからメディアを使い考えない人々をつくりだしている。「衣食住」という抽象度の低い欲望に縛り付けておけば消費も増える、バラエティーをみせて仮想空間での楽しみに縛りつければ考えない人間につくれる。思考能力が低く言う事を聞く大衆を作りたいのである。
それゆえ自己主張は必要ない。

私は世の中に対して反発している訳ではないので攻撃的な意味合いから自己主張が必要だと言っているのではなく、支配者が作り出した社会で「自己の存在」を感じることの為には自己主張が必要だと言いたい。
でないと社会的洗脳が解ける死ぬ前に「なんの為に生きたのか?」が分からないような気がする。

だからあいまいな問題こそ考える価値があると思う。