新潟県長岡市の代表的城郭と言えば、「長岡城」…は今となっては影も形もありませんが、実はもう一つ長岡市内に「城」があります。新潟県を流れる大河川・信濃川沿いに位置する場所にあり、その場所からも容易に想像できますが、まさに水運交通の要衝でした。元々ここ信濃川東岸にある蔵王の地は信濃川両岸を結ぶ渡しの他、信濃川舟運の河港として栄える水上交通の要衝でした。そしてこの蔵王こそが中越の代表的都市・長岡の起源です。今回はそんな長岡市内に残る貴重な城跡をご紹介しましょう。

ここは信越本線の北長岡駅から徒歩でも15分、車でなら長岡市街から車で10分ほどです。駐車場も完備されています。

 

車で向かうとかなり入り組んだ細い道でちょっと駐車場所を探すのに苦労します。それでも神社なので見つけると広大な駐車場に車を停めていざ散策を開始します。

蔵王堂城は信越本線北長岡駅から北北西約2キロの信濃川の傍に位置します。この水堀とその内側に残る土塁がかつての蔵王堂城の遺構です。

 

 

安禅寺

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社屋内に残る毘沙門天像

本丸内側には城主である堀直寄の立像が残されています。

堀直寄は元は織田家家臣で、上杉が会津に国替えになった後に春日山城に入った堀氏の一門。宗家が無嗣断絶で改易された後も大名家として存続し、後に現在の城下町長岡誕生の立役者であり、立派な銅像はまさにその証明といったところでしょう。当人は長岡城が完成する前にこの地を去ってしまいましたが…

長岡と新潟、現在の新潟県を代表する都市の誕生に関わった越後史の重要人物です。

この背後の大土塁はかつての蔵王堂城の規模の大きさを物語っています。今となっては断片的にしか残っていないのが残念な限りですが

土塁上を歩いて

先ほどの土塁頂上部

土塁角の内側に地蔵像が安置されています。

主郭となっている安禅寺境内は東・南・北の部分は土塁が残存していますが、西側は崩されてしまい平地となってしまいます。

 

 

 

これは源頼朝塔。え?なんで源頼朝が関係すんの?と思われるかもしれませんが、伝承によれば源頼朝が夢枕に蔵王権現が現れて、前世の縁起で越後の蔵王堂に供養せよと諭されたのが所以とされています。

頼朝はやはり夢枕に何かが立つ運命なんだね(鎌倉殿の13人感)

何だか大泉洋のイメージで余裕で脳内イメージをしてしまった。そんなわけでこの蔵王の地は頼朝由来ということで、越後の武士達からは非常に特別視されていたことが分かります。

水堀と土塁の外郭部

 

金峯神社があるのは二の丸跡

こちらは残念ながら遺構を偲ぶようなのはありませんでした。

それでも目を引いたのは蔵王の大欅

金峯神社の御神木で樹齢800年の大木。かつてはそれこそ蔵王堂城の生き証人でもあります。
 
蔵王堂城自体はここも信濃川の水害や市街地化によって多くの遺構は失われてしまっていますが、水を湛えた堀に大土塁、そして堀直寄の銅像とそれでも長岡の起源となった城跡としての象徴性を十分に残している城でした。
 
〇中越最大の都市長岡の原型
蔵王堂城の歴史は南北朝時代に始まるとされています。南北朝時代、越後の南朝方が興国4年/康永2年(1343)に拠点として築いたのが始まりとされています。正平7年(1352)8月、南朝方の片切氏らが守る蔵王堂城に、北朝方の池氏が押し寄せて攻防戦を展開。結果、南朝方は敗北し、翌年にはこの城は北朝方が掌握。
 南北朝の動乱が終焉を迎えると越後守護上杉家は守護代長尾氏一族の長尾景春を蔵王堂城主とし、古志郡の守りを固めさせます。これが古志長尾氏の始まりです。ちなみに春日山城主の守護代長尾家は後に上杉謙信を、関東との国境に位置する上田長尾氏は後に謙信の甥の上杉景勝を輩出していますが、古志長尾氏はその後上田長尾家の出身となる景勝と敵対したために没落。結局、長尾3家はいずれも家名が消滅してしまう結果となったのでした。上杉謙信亡き後の内乱では蔵王堂城主の丸田周防守定俊は景虎方に属し、景勝軍に攻められて降伏。
 慶長3年(1598)4月、上杉に代わって越後国主となった堀秀治は弟の親良を蔵王堂城主とします。しかし慶長15年に堀家は改易。その後、松平忠輝は重臣山田勝重が入りますが、忠輝も改易。先に述べた通り、堀家一族の堀直寄が蔵王堂城主となります。彼は後に長岡城となる「新城」を築城させ、更には信濃川河口の湊町となる新潟に保護を与え、近世の新潟の町の発展の基礎を築いたのでした。残念ながら堀直寄は長岡城の完成を見る前に、村上に転封となり、その後は上越長峰から徳川譜代の牧野氏が入り、ここに北越戦争で大きな存在となる長岡藩牧野家の統治と長岡城の歴史が始まるとなったのでした。

 

〇アクセス

JR信越本線北長岡駅から徒歩15分