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前回紹介した古國府城のあった場所に江戸期に寺内町として栄えた勝興寺。その元あった場所は伏木から更に南西の加賀との国境近くの平野部(現小矢部市)に位置していました。今となってはなんの変哲もない田園地帯が広がる農村ですが、かつては加賀~越中への交通の要衝として栄えた場所でありました。

高岡から車を走らせること 〇〇分。残念ながらかつての大伽藍をもった寺院城塞の跡地は今や往時の面影を全く残さない状態。今となっては登録しているアプリ「城巡り」のお城マークのみが頼りです。明治時代にはまだ古城の面影として土塁などがのこっていたようですが、本当に何も残っていません。(後で調べると鐘楼跡と空堀跡が残っているらしい)

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田園地帯の脇に小道があり、そこを進んでいくと

かつての安養寺城がここにあったと示す城跡の石碑と解説版が残っていました。

ここは「本丸」にあたる御堂屋敷があった一角であり、辛うじてこれがかつての寺院城塞の面影となっていました。

それ以外は何の変哲もない田園地帯が広がります。

 

ここから先は安養寺越と呼ばれる加賀(石川県)との国境の山岳地帯への道。加賀・越中間には険しい山々が聳えますが、宗教の信仰の伝播はそれを全く障害ともしない強い影響力をこの地に残したのでした。さて次なる目的地は車でもなかなか難しい城攻めとなります…

 
〇一向宗の「王国」
永正16年(1519)勝興寺がこの地に安養寺御坊として建設したのがこの安養寺城の歴史の始まりです。越中においては一向宗は大きな勢力を誇り、井波瑞泉寺と共に一向宗の越中二大拠点の一つにまで発展します。しかし、天正9年(1581)、宿敵となった織田家の勢力は北陸奥深くにも及び、安養寺城も城主(住職)が石山合戦本山に参戦していた隙に木舟城主石黒左近に攻められ落城し、敢え無く焼き払われての灰燼に帰したのでした。その後天正12年(1584)佐々成政の仲介により勝興寺は古國府城の地を寄進され、そこへ移転し、かつての一向宗拠点は田園地帯となって埋没したのでした。
 

 

 

〇アクセス
あいの風とやま鉄道高岡駅から車で40分
 
 
「安養寺城に狼煙が一本…」