一乗寺城はかつて南北朝時代には「足利尊氏の反逆し続けた直義家臣の桃井直常」がここに籠城した城と言われます。主である直義が亡くなり、他の直義派武将の多く(上杉憲顕でさえも)も室町幕府に帰順した後になっても抵抗した反骨の将。彼は越中を勢力圏として長らく抵抗し、その後は歴史の表舞台から消えることになりますが、そんな彼の籠城した城となるとさだめし…
石川県と富山県の県境の山奥深くに位置します。マジで熊に遭遇する危険性大
しかもここまでの道のりは車1台が通れるのがやっとの対向車両が来たら一発でOUT。しかも昼間でも薄暗く、とてもじゃないが夜間にここを車で通行するのはなかなかの蛮勇とさえ言われるほどのかなりの荒廃した道を登っていきました。
安養寺城から車で約30分ほどで石川県と富山県の県境にあたる場所に到着しました。ここで一旦、一乗寺城への道を探索するために周囲を検索します、
「富山県側」見ての通り鬱蒼とした山林の中になっており、ここを登ってきたのが信じられないくらい。
「石川県側」こちらは比較的道が広く走りやすくなっており、少し下りて行けば人家もあるなどまだこちら側はそんな山奥深くと言う感じがしませんでした。この城を訪れる時は絶対石川県側から来た方がいいですね。
さて一乗寺城への道ですが、幸い電波施設が近くにあり、そこまでの道が整備されている…と思って車を進めて見たら、落ち葉が酷くて四駆でないとスタックの危険性大。これはちょっと危ない。
それでも入口には「一乗寺城」の入口標柱が立っており、この近くで車を駐車していよいよ城探索。ヘルメット被って音楽を大音響で鳴らして、片手に熊スプレーもう片手にカメラ構えての臨戦態勢でいよいよ一乗寺城へと進軍です。
かなりの獣道でしたが
城の入口近くまで来ると整備された小道となっており、そこには
真新しい案内板が設置されていました。非常に綺麗で比較的最近に設置されたと分かります。
堀切部
城への登り口
二ノ丸土塁跡
城跡は比較的整備が成されており、城としての形状をよく保たせていました。
随所に櫓台跡が残っており、
加越国境の山岳地帯、そこから一望できる富山平野が一望できました。
主郭への虎口跡
更にその下にも帯曲輪が設けられています。
主郭部に到達!入口部から歩いてもほんの10分ほどで到達できたことにホッ!
最初は30分くらいの徒歩での登りを覚悟していただけにちょっと安心。
虎口部
ここから下にも大手虎口があるみたいですが、ちょっと道が荒廃していてここはちょっと危険。
土塁部
主郭部はかなり広く、戦国時代にはここは佐々成政が同じ織田家武将ながら非常に関係の悪い前田利家との最前線として活用した城跡らしく非常に技巧的な城跡でした。更に感銘を受けたのはこれだけ山奥深くにありながら
キチンと整備をしてくれている地元の方に深く感謝
やっぱりこういう城を登ってみたいですね。あ、降りてきたら何とか熊に出くわさずに済んで感謝。マジで怖かった~💦
〇加越軍事の最前線地帯が平和になるまで
『越登賀三州志』「故墟考」によれば、一乗寺城の起源は南北朝時代に直義派の筆頭である桃井直常配下の丹羽吉左衛門がこの城に拠り、戦国時代には佐々成政配下の杉山小助が守ったとされています。室町幕府に抵抗し続けた桃井直常の軍勢は越中「一乗之城」を、幕府方の能登の吉見氏が攻め落としたとされていることから、この城が南北朝時代に桃井軍の拠点として築かれたと推定されています。ここは現在でこそ、人も車も滅多に通らない道ですが、かつては倶利伽羅峠を越える北陸道に対する脇街道の一つで、森本(石川県)から越中の八構田へ抜ける山越えルートの「田近越」の道が城のすぐ傍を通っており、ここを押さえる要衝として存在していました。すぐ近くには松根城(加賀)があり、ここは越中側と加賀側の勢力が対峙するまさに国境の城であったのです。
天正年間になると越中の佐々成政と加賀の前田利家は天正12年(1584)から13年に双方が激しい攻防戦がここ加越国境で繰り広げられ、各所の城もより強化改修されることになります。佐々成政方の城となった一乗寺城もその拠点として激しい攻防戦が繰り広げられました。天正13年8月、成政は羽柴秀吉の大軍による征伐を受けて降伏。これに伴い越中西部は前田利長(
利家の息子)に与えられ、この結果加越国境地帯は軍事的緊張が解消されることになりました。これ以降、加賀と越中は前田領として事実上内国となり、それまでの抗争の歴史が嘘のように平和が訪れ、一乗寺城始め加越国境の城は廃城となり、今も史跡として多くの城が山中に眠っているのです。
〇アクセス
あいの風とやま鉄道高岡駅から車で60分で登り口そこから徒歩10分で主郭
「一乗寺城に狼煙が一本…」






























