〇松永久秀の夢の結晶

我が生まれ故郷の奈良県は元々寺社仏閣が強い地域であったためか、「城郭」として残っている城は非常に少ないです。

地元民だったから言うけど日本全国ワーストレベル

で「城」に対する整備は遅れているのが実情なのよね。それこそ日本全国駆け巡ると知名度は低くとも立派に保存整備している自治体も多いのに、本当ハァ~とため息をつきたくなります。

し・か・し・そんな奈良にも歴史上重要な「城」がありました。

もしこの城がキチンとした遺構として残されていたなら、それこそ安土城などにも遜色ない日本全国の城郭ウォッチャーが集まる「名所」となっていた可能性のある名城です。「キチンと残されていたなら」

多聞山城

戦国の梟雄として名高い松永久秀が築いた奈良市内に築いていた名城。その威容は「安土城の前にこれほど壮麗な城はない」とまで絶賛され、更に「天守」という概念を生み出したまさしく城郭史上でも重要な城でした。松永久秀に先見の明があったのは

「城」を戦闘施設としてだけではなく、「行政施設」としての機能を持たせた

ことにもあります。そんな松永久秀については私の一推しは「麒麟がくる」の吉田鋼太郎。「熱い大和国love」っぷりを見せつけ、最期も印象的な非常におススメです。

永禄4年(1561)大和国の大半を支配下においた松永久秀は、眉間寺を移転させ、その地に多聞城を築城させます。翌年8月には奈良の住民が見物する中での棟上げが行われています。城内では、裁判や行政文書の発給、人質の収容等が行われるなど政庁としての機能を持たせました。その一方で軍事施設としても非常に優秀で、大和国の反松永派を一掃するための軍勢を各地に派遣し、三好三人衆の攻勢を迎撃するなど充分すぎるほどの役割を果たしていました。更には興福寺関係者や京の公家、更には宣教師らも頻繁に訪れ、奈良の市民との茶会が開催されるなど文化交流の役割を果たしていたのでした。

 元亀元年(1570)に久秀は隠居し、信貴山城に居を移し、嫡子の久通に家督が譲られます。しかし、松永家はその後織田信長と敵対し、天正元年(1573)に多聞山城は信長直轄の城となります。わざわざ信長が直轄にするくらいの非常に重要な城で、蘭奢待の切り取りもここで行われるなど非常に重要視されました。しかし、天正4年(1576)多聞山城は破却され、久通は父が精魂かけて築いた城の解体責任者とし従事、資材などは安土城に活用されたと言われます。その後、豊臣政権時代に一時、再利用の計画が持ち上がるも、使用されず、その歴史を終えました。

日本城郭史上に重要な即席を残した名城は今は僅かに面影を残すのみとなってしまいました。

多聞山城跡は、奈良市の北…もかなりの北に位置しています。現在の奈良市中心部とはかなり隔絶した位置にあり、実を言うとかなり交通の不便な場所。それでも高台に位置し、かつてはここから現在の奈良の街並みはもちろん大和盆地一円を一望することのできる場所でした。現在は奈良市立若草中学校敷地となっています。

 

残念ながら校舎造成の際に多聞山城の遺構はおろか地形の大部分は破壊されてしまい、僅かに残るのみとなってしまいました。

城跡の石碑

学校の入口部分に斜面裾に土塁を設ける曲輪が残存していました

 

多聞山城の全景

周囲は文化施設となっており、都市開発の一環として多くが失われてしまいました。今となってはかつての大和国を代表する名城は過去の世界にしか実在しなくなったのは非常に淋しい限り。残っていれば、それこそ私にとっても特別な存在となっていただろうし…

 

〇アクセス

近鉄奈良駅から徒歩で30分

 

「多聞山城に狼煙が一本…」