第1章からの続き

それまでの長い太平の世の価値観を一変させてしまった「開国」今まで誰も経験したことのない未曾有の事態は誰もが政治的主張をしだす。それらはやがて体制への動揺をもたらし、実質的政権首班の大老・井伊直弼は今まで誰もが経験したことのない苦難を背負うことになったのである。

 

第8章 安政の大獄発動

結局、徒党を組んでの登城は不埒千万との理由で一橋派大名はことどとく蟄居謹慎に追い込まれると一橋派の工作員たちは更なる奪権闘争を繰り広げる。彼らにとって「渡りに船」であったのが、孝明帝の怒りであった。自らの出した勅命が守られなかったことに怒った帝は幕政を批判する勅諚が幕府を下すことにしたのである。一橋派と彼らと結びつく尊攘派公家たちはこれを利用してある工作を下すことになる。それこそが

戊午の密勅

と呼ばれるものである。内容そのものは「幕府の違勅調印を非難し、尾張・水戸藩ら御三家大名を擁護したうえで、挙国一致で外国に侮られないようにせよ」という当たり障りのない内容である。しかし、それが幕府に先んじて一大名の水戸藩に出されたことは大問題であったのである。しかも呆れることに当事者たちである、尊攘派公家たちはこの意味を全く理解していなかった。朝廷は幕府に政務を一任されているのに、その幕府を通り越して一大名の水戸藩に勅諚が下される。例えばであるが、現代に置き換えてみよう。選挙で敗れた野党関係者が密かに帝からの勅をもって「現在の与党の政治は腐敗している!だからこれを正さなければならない!」と主張してみたらどうであろうか?当然、「じゃあ、何のための選挙だったのだ?」という話になるであろう。こんなことを許せば、勅を貰ったものが好きなように政治を壟断することが可能になる。それは政治権力を決めるプロセスを根底からひっくり返す危険な方策に他ならない。これを取り締まる行為を「与党総裁は野党に不当な大弾圧をおこなった」と非難されるであろうか。

安政の大獄とは直弼が政権首班とする徳川幕府の視点からすれば、朝廷を巻き込んで政権を転覆させようと企てた水戸一派のクーデターを鎮圧しようとした正当な治安維持行為に他ならない。よくこの戊午の密勅については「事前に察知することに失敗した長野主膳が自らの保身のために行った讒言で直弼が水戸藩の陰謀と思い込んだのが原因」とされることが多い。だが、起点はたとえそうであったとしても実際に出てきたのは根拠希薄なでっち上げなどではない。歴然とした政権転覆の陰謀だったのであり、少なくとも直弼の視点にすればこれらの行為を許容する理由はどこにも存在しない。密勅の内容は、攘夷に向けた幕政改革の推進だったが、クーデターをもって攘夷遂行の端緒となし、大老暗殺をもって幕政刷新の旗印となすというのが、彼らの計画だった。

西郷吉之助は薩摩や水戸、土佐などが挙兵する計画を綴っていた密書を発見され、追及された。単なる参考人聴取にすぎなかった長州の学者は自ら「老中間部詮勝を襲撃する計画だった」と自ら計画を喋りだした…皮肉な話であるが、吉田松陰はかつて直弼を極めて好意的であった。かつて藩主を継いだ時に読んだ民を思う和歌を知った時の彼は「これほど民を思うとは何と素晴らしい!」と感動していたほどである。違勅調印の件も最初は「これは堀田ら姑息な幕吏が行ったことで井伊大老なら何とかしてくれる」などと「勝手に」期待したのだが、最終的に自らの思い描いていた人物とは違うと悟った彼の好意は憎悪にとってかわられていた。

ところで孝明帝自身は幕府が自分に無断で開国へ至ったことに対する怒りは凄まじかったが、少なくとも本人の主観的には殊更に幕府の人事に口をはさむ気はなく、ましてやクーデターなど論外だったのである。(都合のいい)「勅」を手に入れた勢力がその権威を持ち出すことで(その手続きの問題はスルーして)自らの意のままに動かす…幕末の日本を混迷の騒乱に陥れた元凶は概ねこの「戊午の密勅」こそスタートであったのである。

 

直弼に対する誤解その④ 直弼は「恐怖の独裁者」であったのか

フランス革命時に恐怖政治を主導したロベスピエールの右腕サン=ジュストはこう語っている。

「ロベスピエールを独裁者として扱うのは敵の手先だけだ。 なぜなら、彼は軍隊も、財政も、行政当局も掌握していないからだ」

これは無論彼の立場を考えると無条件では扱えないのであるが、実は事実である。ロベスピエール自身は上記のように独裁者に必要とされうような「権力の源泉」を何一つもっていたわけではなかった。ロベスピエール自身は何一つ権力をほしいままにしていたわけではないし、実際に恐怖政治下は法的に彼の専制が許されていたわけではない。そもそも恐怖政治そのものが、革命を転覆しようと図る王党派や諸外国の内憂外患から革命政府を守ろうという当時の政府関係者や民衆が望んでいたことに他ならない。私はこれと共通のものを直弼にも感じている。

「井伊直弼を独裁者として扱うのは政敵の一橋派だけだ。なぜなら彼は将軍も、幕閣も、法律ですら壟断していたわけではないからだ」

彼は少なくとも何一つ政治のプロセスを当時の規範として踏み外していたわけではない。彼の立場は政権の第一人者に過ぎず、常に将軍と協議し、幕閣との合議ですべては決められていた。違勅調印を宇津木らに諫言されたときの直弼の言葉を思い出してもらいたい。

「すでに将軍に伺いのうえで幕閣で決定した事項を自分ひとりの一存でひっくり返すことはできない」

彼自身は何一つ政治を壟断するようなスタンスを取っていたわけではないのである。安政の大獄は当時の状況に危機感を抱いていた幕閣の合意のもとで行われていたのである。これまで述べたように従来の「恐怖の独裁者・井伊大老」は政敵の作り上げた「虚像」に過ぎず、実像の直弼は前代未聞の事態に苦悩する等身大の政治家に過ぎないのである。

 

 無論、安政の大獄そのものが正当化できるものではないことであるのはある意味では当然である。何よりもそのその流血が彼らの報復感情を高めてしまい、血生臭い騒乱へと持って行ったのは歴然とした事実だ。当時の未曾有の状況において、直弼の立場に慮ってそれを「仕方のない」行為であると言うのは傲慢に他ならないかもしれない。しかし、それを言うなら当時の尊攘派の「陰謀」をも評価の対象にしなければ、およそ公平といえるものではないだろう。一方の立場をもってすれば、相手の行為はどんなものであれ「悪」にしかならないからである。

 

ちなみにこれらの戊午の密勅~安政の大獄に至る流れを理路整然と描いていた作品は『翔ぶが如く』である。同作でチャカポンさんを演じる故・神山繁氏はまさにヒールチャカポンの完成形ともいうべきであるが、その政治的立場や対立軸が明確であり、安政の大獄に至る経緯が最も詳細に記されている。『花の生涯』以降、余り存在感のない長野主膳にしても、主人公西郷や橋本佐内らとの京都入説工作における激しい暗闘も描かれていた。

 

第9章 開国総決算

ここで幕末の日本の経済状況を見ておこう。幕末、幕府は財政的に行き詰っていた。天保14年の統計資料を見てみよう。歳入が154万両、歳出144万両で、これだけ見ると健全財政に見える。だが、これは数字による錯覚であり、歳入の内訳をみると正常な状態でなかった。年貢などの税収が全体の4割にすぎず、「貨幣改鋳」による益金、大名への貸付返済金、大名や町人からの上納金などの「借金」で賄っていたのである。既に従来の「米を年貢として徴収する農本主義」を基盤とした幕藩体制は限界に達していた。そこに到来したのが「黒船」であったのである。

 直弼と幕府絶対主義派の官僚達が「開国」に踏み切ったのは一つである。それは「開国」による貿易を独占することで幕府の再強化を図り、諸大名の力をそぎ、幕府主導による近代化を成し遂げる目的に他ならない。諸大名の政治参加を許すというのはその目的を阻害することでしかなく、その意味でも一橋派の大名や官僚(岩瀬忠震らの一橋派)らの受け入れられる余地は無かったのである。

 実際に開国によって幕府の財政は好転し、開港地とその周囲は経済的繁栄を謳歌することができた。そしてこの後に行う近代化改革の「原資」もこれらの「開国」推進があったればこそである。溜まらないのは諸藩や一般庶民であった。先の開港地周囲以外には「開国」は何ら利することではなく、物価は高騰、地場産業は低迷、伝染病が蔓延するなど、悪いことだらけだった。直弼らの失敗は開国を(幕府にとっての)良い側面でしか捉えられなかったことにあった。結果、これらの不満は反幕府派の藩による体制転覆のための方便として登場した「攘夷」思想が受け皿となり、日本全体の下級武士から庶民に至るまで受け入れられることになったのである。諸藩はこれら「攘夷志士」たちが引き起こしたテロ・戦争による出費、そして賠償金は最終的に幕府がせっかく得られた開国による収益をも散逸させるに至ったのである。

 ここで不平等条約にも言及しておきたい。一般的には幕府が「外国の言いなりになった」ことで屈辱的な不平等条約を結んだことで直弼らは非難されることが多い。なるほど確かに「領事裁判権」はまさに幕府側の無知からあっさり容認してしまったのであり、これに関していうなら西洋諸国との交渉と知識を研究しておかなかった歴代幕府政権の怠慢が招いた事態である。だが、それを直弼らに全部責を負わすのは酷な話である。「関税自主権」についていえば、実は条約締結当初はそれほど日本にとって不利な条件ではなかった。ところが、数々の攘夷テロや戦争が結果として不利に働き、文字通りの不平等な条件に変えさせられたのである。「夷戎に対して」弱腰を攻撃してきた尊攘派志士にしてからが、実をいうと認識してなかった。後の志士たちが築き上げた明治政府は自分たちが不平等条約を改正するために苦労させられたことをもって幕府の対応を非難しているのはこれもまた公正なものではない。

尊王攘夷とは何であったのだろうか。それは結局のところ、「尊王」は倒幕をカモフラージュするための「大義名分」として利用された挙句、「攘夷」は利用される価値が無くなるや捨てられたのである。「攘夷」を叫んだ志士たちは自分たちが政権をとるやあっさり「公約」を破棄した。その行動は選挙前には「増税しません」「美しい国を取り戻す」とか美辞麗句を並べ立てて、選挙に勝利を収めたとたんに「詐欺フェスト」「新しい判断」と称して正反対の政策を行う某国の為政者とそっくりである。連中がしきりに志士たちを称賛するのもまた当然というべきであろう。断っておくが「転向」が悪いわけではない。一たび自らの路線変更を許さぬ国家・組織はすべからく破滅の道に至った。幕末の会津藩しきり、昭和の「帝国」しかりである。しかし、自分たちの唱えてきたスローガンを反故にしたからにはきちんと「総括」もせぬまま、行うのもまた身勝手な話なのである。結局、維新志士たちが政権を握るや行ったのは直弼の路線の追認にすぎないのだから。

 とはいえこれでは使い古されたネタになるのでここで明治維新礼賛論者の怒りを発起させる歴史を紹介しよう。慶応4年1月11日に起きた神戸事件である。

これは備前藩兵の進軍中、その隊列先をフランス水兵が横切ろうとした。それを制止しようとした備前藩士の槍を見たフランス兵が銃を取り出したところ、他の藩兵が発砲、銃撃戦に発展してしまった事件である。結果的には責任者が自制したことで死者は出なかったのであるが、これを西洋諸国は居留民保護を名目に出兵し、神戸が一時的に占領される事態となった。これに対して、新政府の伊藤俊輔(博文)は政権移譲を宣言すると同時に、「開国和親」をも列強に表明してしまった。「攘夷」のスローガンはあっさり覆された。そして、この事件は、列強の要求を丸呑みする形で、最初に仏兵を制止した備前藩士を切腹させるという屈辱をもって和解するに至った。米欧の「言いなり」になる歴史もこの時に始まったのである。

 

一般には「外国に対して弱腰だった幕府に代わって、尊王攘夷を掲げる維新志士たちの働きによって日本の独立が守られた」なる評価がなされているが、これほどの屈辱的な土下座外交は徳川幕府ですらやらかなったことである。確かに、当時は戊辰戦争開戦のさなかで、新政府が弱い立場にあったとはいえ、およそ「毅然とした」対応とは言い難い。

まあ前政権の「弱腰」を非難し、「美しい国がー」と声高に叫ぶ連中が実際にはもっと「売国」的政策を展開するのは本邦では珍しくもなんともない話である。

なお、後年維新志士たちのエピソードがある。長州に白井小助という男がいた。吉田松陰よりも5歳も年上だったにもかかわらず、松下村塾の門下生となるほどの心酔ぶりであった。戊辰戦争では第二奇兵隊を率いて戦場を駆け巡ったものの、軍人としても官吏としても才能がなかったために、維新後は故郷に戻って塾を開く生活を送った。しかし、後輩たちの栄達がどうにも気に入らず、東京に上ってきては、伊藤博文や山形有朋の屋敷を訪ね、大酒を食らって「攘夷はどうなったノダ!」「こんな大屋敷に住んで、寅次郎(松陰)に恥ずかしくないノカ!」と罵るのが常だった。

伊藤も山県も裃を付けて出迎え、「すみません、すみません」と平身低頭して酒を注ぎまくって、酔いつぶす他なかったという。

 

第10章 桜田門外の散華

※例によってこの章は他の章以上に主観・感情的表現が多々あることをご容赦願いたい

直弼の対応において問題があったとすれば、それはあまりにも「水戸藩を追い詰めすぎた」ことであった。既に「戊午の密勅」に関しては孝明帝から違勅調印の件は「やむをえない事情であったことを了解した」という「叡慮氷解」によって実質的効力を失っていた。しかし、直弼は安心しきれずに密勅を幕府に返納するように圧力を加え、これが水戸藩内における収拾のつかない抗争状態に陥ったのである。既に斉昭・義篤の藩主親子にしてももう幕府に恭順する姿勢を示しており、水戸藩は、将軍継嗣問題でも敗北しており、幕府主流派に反抗する力はなく、穏健論が藩内を支配していた。しかし、これに納得できない天狗党過激派は最早斉昭ですら制御できなくなっていたのである。何としても密勅を断行せんとする一派は密勅返納を受け入れる藩に反発し、追い詰められた彼らは遂に大老暗殺をもって事態打開を図ろうとしたのである。

桜田門外の変についてはこれまで水戸脱藩浪士たちの視点からの「美談」が有名であるので、ここでは詳細な経緯は記さない。あくまでも彦根藩から見た視点で描こう。

既に直弼の下にも水戸の脱藩浪士たちによる襲撃計画の情報が届けられていた。安政七年(1860)2月28日、上野矢田藩主松平信和は、井伊家屋敷を訪問して、危険を進言し、辞職かせめて警護の増員を願ったのであるが、

井伊直弼「どんなに警戒しても刺客はそれを果たすであろう。供侍の数は規定があるので大老自らそれを破るわけにはいかない」

と後に信和は語っている。それは慢心なのか、それとも既に死をも覚悟した悟りであったのかは今となっては分からない。そのポリシーである「ルールには誰もが従わなければならない」という点に関しては直弼は首尾一貫している。だが、やはり為政者が自らの警護に無頓着なのは美徳でもなんでもない。実際にこの後に到来する事態を考えれば…・

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ちなみに大河でこの場面を非常に印象深いシーンにしていたのは『徳川慶喜』の杉良太郎氏である。威圧感あふれる独裁者像ではあるが、それでもこうしてキチンとしているところは多いのである。後述する映画『桜田門外ノ変』にしてもそうだが、「水戸視点だから」といって決して不当に貶めて描いているわけではないのである。

 

安政七年3月3日、季節外れの大雪が降るその日、江戸城に登城する彦根藩の一行を直弼の命を狙う水戸・薩摩の脱藩浪士たちが襲撃。彦根藩士っちは雪のために合羽を羽織り、刀が濡れるのを防ぐために柄袋に入れていたのが災いして、不覚を取ってしまう。ドラマなどの創作では彦根側が一方的にやられた印象があるが、実際にはその場で踏みとどまって戦った10数人の藩士たちは悪条件の中で健闘していたのである。剣豪・河西忠左衛門は襲撃を受けると冷静にいったんその場から離れて、合羽や柄袋を外し、その二刀流の剣技をもって主君の駕籠の側に立ちはだかり、死闘を繰り広げた。しかし衆寡敵せず、浪士たちの滅多斬りに遭い、無念のうちに息絶えた。この間、直弼の駕籠は周囲の喧騒とは裏腹に静寂を保っていた。襲撃の端緒に浪士たちが撃ち込んだピストルの弾丸が腰から腹に抜けて動けなくなってしまっていた。その時、彼の脳裏に去来していたのは何であったのか…今となっては知るすべもない。

井伊直弼、桜田門外にて落命。享年四十六

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豪徳寺における直弼の墓所

映像作品において最も迫力かつリアリティ溢れた作品は映画『桜田門外ノ変』である。その凄惨かつ鬼気迫るクオリティは半端なく(逆に言うとそれ以外は微妙ではあったが…)友人は「余りにもドン引きな史実そのままの展開に映画館で観なくて良かった」と感想を述べておられたが、私は違う意味で映画館で観なくてよかった。

悪い意味で昂揚感がありすぎて、鬼気迫る死闘シーンに感情移入してしまったのである。(もちろんどちらサイドかは言うまでもない)大河ドラマでの予定調和的チャンバラ劇とは異なる史実の死闘をできる限り忠実に描いていた。何よりも先の河西や小河原秀之丞の逸話まで取り上げたのはファースト大河以外には考えられなかった。ちなみに初回視聴した時の私

「えー、彦根藩邸と襲撃現場があんなに近かったら救援がすぐ駆けつけちゃうじゃん」

「ダメだ!それは罠!」

「忠左衛門!!大老様をお守りせよ!」

「ああ、忠左衛門がぁぁぁ!貴様らそれでも侍か!」

「アァァァァァァ(無念の絶叫)」

最後に史実通り、現場に残されたチャカポンさんのご遺体や忠左衛門ら闘死した藩士たちの遺骸や生存者の雄たけび…

彦根藩の無念の感情を臨場体験させてもらうとは思わなかった…まあこの映画でそんなことを感じるのは間違いなく変人の類であろう。実際傍目から見た家族からは「痛い人間」として見られていたからね

『桜田門外の変』とは彦根の人々の視点からすれば、家臣からも民衆からも慕われた名君の命を奪った卑劣なテロに他ならない
変の報に接した彦根藩内では二つの動きが同時進行した。一つは、主君の仇を討つために『元凶』である斉昭への復讐を成し遂げんとする動きである。国元の藩士たちはいうに及ばず彦根藩領の武蔵世田谷や下野佐野の領民たちまでが江戸に集結し、官民挙げてのテロに対する報復戦争を水戸に仕掛けようとしていた。藩上層部は必至にそれを抑えつつ、何とか井伊家の存続を図ろうとしていた。大名がこのような横死を遂げた場合、幕法に従えば大名家はお家断絶である。しかし、それを行えば、彦根藩と水戸藩の間での内戦となること必定である。この間に老中安藤信正や直弼と親しい会津藩主松平容保らの奔走もあって、表向きは「病死」と発表されたが、如何せん白昼堂々の暗殺劇が隠蔽できるはずもなく、世間では井伊家に対する陰口が横行した。それでも将軍家茂が必死に慰撫し、その忠勤を認めて、直弼遺児の直憲への家督相続が認められたことによって、ようやく事態は沈静化したのである。

桜田門外の変は徳川幕府の権威を失墜させ、直弼らが目指した幕府再強化の目論見が破綻することになった。『テロに屈した』幕府はこれ以後、事態を沈静化させる主体的能力と気概を失い、以降幕末の政局は京の朝廷を取り巻く諸藩による熾烈な抗争劇へとつながっていくことになる。テロの横行は日本全土を(建前として)攘夷一色の国是が支配するようになり、更に多くの流血をなした。そして、これは日本近現代テロリズム史の原点となったという意味で歴史を動かす一大事変であった

最後に一つ、エピソードを紹介しよう。江戸の民衆は横死した直弼を嘲笑ったが、その一方で直弼を護らんとして落命した藩士たちに対しては忠臣として称えていた。明治初期には彼らの錦絵まで描かれたほどだったのである。河西ら8名の藩士たちは直弼の墓がある世田谷区豪徳寺に顕彰碑が建てられた。後述するが、明治政府は後年水戸の脱藩浪士たちを一方的に「義士」と持ち上げ、贈位まで行った。一方で「主君を護るために戦う」という当時の武士の価値観に従って闘死した彼らは顧みられることはなかった。明治政府及びそのプロパガンダに乗って、脱藩浪士たちの「義挙」を褒めたたえるような創作を行う連中はこと度量と公平性に関しては当時の民衆にすら及ばない。

その一方で生存者は後日になって「主君の護衛に失敗して家名を辱めた」として過酷な処分が下された。無傷で生存した者たちは家名断絶の上、斬首となったのである。

 

そしてここからが彦根藩にとっての受難の始まりとなったのである

 

第2部 彦根人のたった一つの願い
直弼死後の彦根藩については歴史上でもそしてドラマなどでの創作でも顧みられることはない。ここから述べる明治維新史は彦根の人々による直弼の名誉を回復せんとした苦闘の歴史である。

 

第1章 逆風・幕府との決裂

転機は2年後の文久2年(1862)に訪れた。外様大名で先の一橋派の中心人物である薩摩藩島津斉彬の弟・三郎久光が武装兵を率いて

上洛し、幕政改革を要求。逼塞させられていた一橋派が政権を奪取したのである。一橋慶喜、松平春嶽らが直弼と敵対した連中は「大老の死を偽って届けたのは不届千万」という言いがかりをつけ、彦根藩への責任追及を行った。そもそもあの時「取り繕った」からこそ、彼らにも責任が追及されるのを免れたのではなかったのか。藩内においてもこの空気を察知し、亡き直弼が両腕と頼んだ長野主膳と宇津木六之丞を斬首の刑に処した。長野については「直弼を操った奸臣」ように言われているが、実際には後述する彦根藩内の尊攘派「至誠組」メンバーですら「彼(主膳)は藩内において誹謗の声はなく、清廉潔白な人間であった」と好意的に語られるなどその罪状は「表向き」のことでしかない。彦根藩が彼らを世に迎合するために切り捨てたことは恥ずべきことである。故主直弼の正義を自ら否定してしまったものであるからだ。一方で、彼らを「やむなく生贄」にしたことで藩の抗争による犠牲を最小限に抑えたとみることもできる。それは仇敵の水戸藩の行状を見れば明らかであろう。彼らはこれ以後、そのエネルギーを自らの正義を実現するためには「暴力」以外の手段しか見いだせず、それは熾烈な内ゲバを生み出し、そして人材が悉く失われる事態を招いたのである。彼らはそれでも直弼と彦根藩を恨むべきなのだろうか。

 しかし、そんな結果では見過ごされる筈もなく、一橋派政権の幕府は彦根藩に対して京都守護の剥奪、十万石の減封という処分を下したのである。その罪状は「武道不覚悟」と「失政」であった。前者はもちろん桜田門外の変における対応のことであるが、「失政」とは何であろうか。違勅調印と安政の大獄、それらの問題は全て「井伊直弼が悪い」ということで全責任を背負わせたのである。だが、違勅調印の件は前章で述べた通り、むしろ彼の本意ではなかった。そして安政の大獄に関しては言わずもがなであろう。

幕府にとって都合の悪い事象は全て彦根藩と直弼の所為にされ、これこそが今に続く「井伊直弼」像の起点となる。

安政の大獄に対する報復の口実であることは見え見えである。井伊家が代々誇りにしてきた名誉職と領地の三分の一を奪い、故主の名誉を汚すこの理不尽な処分に納得した彦根藩士などいなかった。

そして幕府は攘夷志士たちのテロによって無政府状態に置かれた京の治安維持を常設職として徳川の藩屏に担わせることとして、井伊家の代替として選ばれたのが会津藩主・松平容保であった。これはもちろん藩祖以来の「士津公御家訓」以来の幕府に対する絶対的忠誠を見込まれ(それを盾にした脅迫をもって)押し付けたものである。それは勿論「表向き」の理由として間違っていないが、「裏の意図」も感じられるように見えてならない。元々会津藩は先の将軍継嗣問題では紀州派に属しており、井伊家と懇意の仲である。更に言うなら、「東北防衛を任された会津藩が遠く京の守護を行う」というのは地理的に見て無理があるのは素人でもわかることである。京都守護を任されるのは本来彦根が家格・地理的に当然であったのであるが、それがだめとなると本来は越前藩が背負うべきであったはずである。しかし、春嶽は政事総裁職との兼任を理由に拒否し、会津藩に押し付けた。これは井伊家を懲罰するとともにその憤懣の矛先を懇意の会津松平家に向けさせることで両家の仲を裂くことにあったように思えてならない。

 

まさに黒春嶽の面目躍如といったら、邪推になるであろうか。そう考えると彼らの後の酷薄な対応も説明がつくように思われる。

 

 

直弼亡き後の彦根藩に下された処分、その理不尽さを言及した作品は記憶する限り、大河では「八重の桜」が唯一である。京都守護職辞退を諫言する西田敏行演じる家老西郷頼母が叫んだ言葉がもう本当に心にしみた。

「掃部頭様は死に損でございます!」

報われぬ忠誠という意味で容保と会津藩を襲った悲劇の前章としてチャカポンさんと彦根藩の存在をキチンと明示させた同作の公平さは幕末大河の中でも比類ない作品として私は大いに激賞したい。

彦根が本来背負うべき筈であった「業」を会津の人々に身代わりの役割を背負わせてしまったことは慙愧に耐えない…

それでも彦根藩は何とか地位を回復させようと必死に働いた。京都守護職についても直憲が成人の暁には復帰させてもらうように陳情したのである。しかし、この後彦根藩は譜代筆頭に相応しい待遇を与えられることはなかった。そして第二次長州征伐で幕府に対する不信は決定的となる。この戦いは井伊家にとっては汚名返上のチャンスであり、戦意旺盛であった。藩祖直政以来の「赤備え」は戦国以来の威容を誇り、見るものを驚嘆させたのである。大坂において軍事行列演習を行った際には17歳の青年藩主・直憲は「まるで武者人形のようである」と民衆までが褒めたたえるほどであった。そして…

無残なる敗北を喫した(リンク先参照)

これに関しては直弼にも責任があった。本来なら先代の直亮の頃に進めた西洋化の改革を推し進めなければならなかったのであるが、民政を重視し、また国政に忙殺されて、軍事改革について怠ったツケでもあったのだ。敗北自体は釈明の余地は無いが、それと同時に幕府軍首脳部の拙劣な統帥も一因である。そもそも本来先鋒を務める筈であった広島藩が薩摩の工作で参戦拒否するという外交上の不手際からくるものであり、更に碌に装備や力量差を考慮せずに「しきたり通り」の先鋒で井伊家や榊原家のような旧式装備の藩を投入させてしまった拙劣な指揮、更には約束されていた艦砲射撃支援が無かった…この戦犯は竹中重固である。彼は2年後の鳥羽伏見の戦いでも同じような拙劣な指揮で敗北の元凶となり、精強な会津藩兵を無為に死なせる愚行を再現させた。

無能な味方は有能な敵よりも恐ろしいというナポレオンの格言通りである。

さらに一敗地塗れた彦根藩兵を襲ったのは友軍であるはずの幕府軍からの容赦ない嘲笑であった。最早、彼らにとって徳川幕府は忠誠の対象ではなかった。

 

 慶応三年(1867)最後の将軍となった徳川慶喜は大政奉還。この事態に諸藩は対応を迫られる。彦根藩においても藩論は分かれたが、下級藩士「至誠組」のリーダーである谷鉄臣が「勤王」をもって主導した。彼は元は町医者の息子であったが、長崎でオランダ人医師から学び、彦根初の西洋医師となった。更には応接掛に抜擢されて後には遂に彦根藩のトップとなる。彼ら主導の下で井伊家は王政復古のクーデター後の新政府に直憲が上京したのである。(まだ当時の諸大名の多くは情勢を傍観しており、少数であった)

あの井伊家が、徳川譜代筆頭にして、大老井伊直弼を輩出した彦根藩が徳川を離反した

それは多くの人に徳川の世の終焉を印象付けるのに充分であった。新政府でもその政治的価値を重視された。岩倉具視や大久保利通は非常に喜び「世の中は分からないもの」「彦根が京の東を守ってくれるから安心して、大坂城の旧幕府と対峙できるわー」とまで喜ばれたのである。かくして戊辰戦争において彦根藩は新政府軍として参戦。後世の徳川幕府贔屓(正確には慶喜主導)の人間はこの井伊家の「裏切り」を非難しているが、そもそもここまで述べた通り、直弼亡き後の幕府の対応は客観的に見てもヒドイものである。そういう方々にはこの言葉を送り付けてあげたいものである。

「忠誠心ですか・・。美しい響きの言葉です。 しかし、都合の良い時に乱用されているようです。ある種の人間は家臣に忠誠心を要求する資格がないのだという実例を何万人もの武士が目撃したわけですからね」

この後、彦根藩は新政府軍の一員として、桑名城開城、小山の戦い、会津出兵に参戦。特に大きな功績とされたのが新選組局長近藤勇の逮捕であった。流山で投降した幕府軍の一員で「大久保大和」と名乗った近藤であったが、彼を知る彦根藩士渡辺九郎左衛門が正体を見破り、連行したのであった。かくして彦根藩は2万石の加増と新政府の形式的トップである総裁の有栖川宮熾仁親王の妹と直憲との結婚されるなど徳川譜代の藩においてはトップクラスの評価を受けたのであった。

だが彼らの最も欲したもの「旧主・直弼の名誉回復」だけは手に入らなかった。

 

第2章 明治政府との死闘・直弼公の銅像建立

明治期の会津藩士たちと彦根藩士たちの活動にはよく似ている。無論、彦根藩の立場は「賊軍」とされた会津藩とは異なる。しかし、明治政府相手に「旧主の名誉回復」という苦しくも熱い信念が根底にあったのは確かだ。

 

 

きみ(会津)の姿はぼく(彦根)に似ている

何も(実像を)知らないほうが幸せというけど

ぼくはきっと(フィクションの虚像に)満足しないはずだから

明治政府があっさり開国へと舵を切ったのを納得できない思いで見つめていたのは彦根の人々も同様である。何しろ、散々ばら直弼の「開国」を非難していた連中があっさり直弼の路線を追認にすぎなかったからだ(大事なことなので二回言いました)。更に彼らの怒髪天を衝くまでに至らせたのが明治政府の官製歴史とその評価である。それはまさしく一橋派政権の徳川幕府と同質、いやもっと悪質であったのだ。彼らは桜田門外の変に加わった水戸の脱藩浪士たちを「義挙」とし、靖国神社合祀、官位の追贈を行った。もちろん、直弼については一切贈位も行われることはなかった。彦根藩士たちは何としてでも直弼の名誉回復のために奔走することになる。

 その先陣を切ったのが遠城謙道である。彼は明治11年、紀尾井坂の変で暗殺された明治政府の元勲・大久保利通暗殺後にある建言を出す。明治政府は大久保が暗殺された翌日に官位追贈を行った。同じ「国のために」働いた大久保と直弼が同じように扱われないのはおかしい、という論理的には至極真っ当であったが、握りつぶされた。遠城は幕末の文久年間に一橋派が彦根藩に理不尽な処分を下したときにも直訴した硬骨の藩士であった。一時は抗議の自害まで考えたが、「殉死は直弼公のためにはならない」と考え、剃髪して直弼の眠る豪徳寺で直弼の墓守を行っていたほどである。現在でも彼の石碑は直弼の側に寄り添いたいという彼の願いにかなえるように豪徳寺、そして彦根の直弼の銅像の側に建てられている。

 

これ以後、井伊家の旧臣たちは何としてでも故主・直弼の名誉を回復せんとした。その象徴であったのが

直弼の銅像建立

であった。旧主を顕彰したいという彼らは別に殊更明治政府を否定していたわけではない。ただ素朴な願いであったが、それは多大なる労苦を強いられる戦いであったのだ。明治政府の熾烈な攻撃が始まったのである。

 

第1回戦 1883年

井伊家旧臣たちは首都圏に直弼の銅像を建立するために奔走するが、その動きにストップをかけたのが、時の内務大臣である品川弥次郎(長州)である。もちろんその根底には長州にとってのカリスマである吉田松陰を刑死に追い込んだ直弼に対する怨恨であったのは疑いない。長州閥からすれば吉田松陰の仇、そして薩摩閥からしても直弼は仇敵であった。それは彼らのカリスマである西郷隆盛が一時入水し、死線を彷徨ったことからである。彼らのそれは実に執拗であった。実をいうと明治政府の全員が反対していたわけではない。特に直弼と敵対していたわけではない立場の高官は概して好意的であったのだ。

 この動きに憤りを抱いたのが旧幕臣の島田三郎である。彼はジャーナリストにして衆議院議員であり、直弼の名誉回復のために言論界で活躍した。『開国始末』は初めて直弼再評価の嚆矢となった書籍であり、『花の生涯』の典拠史料となったほど重要である。その彼はこの行為が余りにも狭量であるとして訴えた。

「そもそも違勅調印の件は手続き上の不備をことさら責め立てるのはおかしい。だって今の明治政府だって直弼の路線追認にすぎないじゃん。大体、散々攘夷を叫んでいた奴らが今じゃ直弼と同じ立場になっているじゃねーか!」

と陸奥宗光(紀州)に訴え、陸奥も山県や品川に働きかけた。更に島田は「直弼の追贈」を議会に働きかけた。衆議院では島田自身が、貴族院においては谷干城(土佐)が発起人となった(会津の山川浩との盟友関係といい、本当に谷は志士たちの中でも公正さという点では比類ない)。彼らの論理は明快である。明治政府に対する反逆者となった西郷ですら、上野に銅像が建てられているのだから何の問題があろうかというものであった。が、その正論は通らなかった。

 

第2回戦 1889年

井伊家の旧臣たちは日比谷公園に300坪の土地を借用して、直弼の銅像建立を願い出る。日比谷公園はかつて桜田門外の変の時に水戸の浪士たちが直弼の首級を運んだ道すがらとなった道である。土地借用の件は許可が下りたが、肝心の銅像建立の許可はいつまでたっても行政当局の許可が下りずにいた。理由をつけては許可が下りず、ダラダラと待たされる日々が続く。そして翌年になり、内務省は突然法令発令を行う。

「形像取締規則」では官有地及び公共の往来場所では、永久保存の目的をもって人物その他形像をせんとする者は東京市、京都市、大阪市においては内務大臣の認可を必要とする」時の内閣総理大臣は山形有朋である。薩長の志士たちのなかで近代化政策のプランナーとして類まれな高い識見とそれと反比例するかのように卑小な人間の器しか持ちえなかったこの男の時代に許可が下りる確率はゼロである。

 

第3回戦 1909年

三度目の正直である。既に歳月が流れ、直弼を知る世代の人々が世を去っていく中で井伊家旧臣たちは今度こそ実現せんと今まで以上の情熱を燃やす。彼らは開港地として繁栄を謳歌し、今や一大商業都市となった横浜である。彼らは戸部山一帯4千坪を購入し、そこに直弼銅像を建立。私有地である土地に銅像建立を妨げる法的根拠はなかった。彼らは私財を投じてこの戸部山一帯4千坪を横浜市に寄贈して、公園として整備し、更に図書館建設費用も一部負担するなどしたのである。横浜市民にとっても直弼は恩人であり、これらの動きに歓迎した。かくして戸部山は「掃部山」と改名され、横浜開港50周年の7月1日に盛大な除幕式が開かれる予定であったのだ。ところが、明治政府はまたしても大人げない行為にである。特に伊藤博文、井上馨(長州)、松方正義(薩摩)らは吉田と西郷の名を持ち出して、除幕式中止の圧力を出す。時の神奈川県知事周布公平(長州)は苦しい立場に置かれた。長州人である彼であるが、さすがに県知事としての立場がある。結局、除幕式は開港50周年記念日から二週間後に行われ、参加した明治政府高官はいなかった…

唯一の例外は大隈重信(佐賀)である。薩長閥への反発からか、あるいは自らも外国との交渉で国粋主義者にテロの標的とされた立場を直弼を重ね合わせたのかもしれない。ここで彼の演説を紹介しよう

大隈重信「日本に来た米国の使節は文明の使節である。…それをも殺さなければならないとまで主張していたのが攘夷家である。攘夷を愚直に守らんと実行に移したのが長州人なんだけど、ちょっと馬鹿正直すぎると云ふことを免れぬ」

会場内に笑い声が誘われ、要するに「文明」の使節とすることでその応対したのが直弼であり、暗に攘夷攘夷と叫んでいた長州人たちを皮肉ることを忘れない。

「その一端をもって感情的に評価するのはいけない。早暁冷静なる思想をもって自由の精神から研究されるようになれば、この銅像は千古の下に光り輝く日が来るであろう」

大隈重信は彦根にとっては忘れぬことのできぬ大恩人である。かつて廃藩後に彦根城の天守が廃城令で取り壊されんとしたとき、保存を願う彦根の人々の願いをくみ取って、明治帝に保存の働きかけを行った一人であるのである。おかげで、彦根にとっては最高の誇りともいうべき、その優美な彦根城天守は現代にも受け継がれている。まこと感謝の思いでいっぱいである。

 

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かくして桜田門外の変から実に半世紀、井伊家旧臣たちの願いが実現した瞬間であった。その翌年には地元彦根城の傍にも直弼の銅像が建立され、ようやく彼らの願いが実現したのであった。これらの銅像は今も横浜と彦根で静かに見守っている(なお、戦時中に金属供出されたので、現代のは二代目である)

この彦根の先人たちの熱い直弼に対する思いが現代にも受け継がれているのである。その絆の強さを再確認したのがこの銅像建立の物語であった。明治政府の高官におかれては放置しておけば「単なる地元偉人顕彰でしょ」で終わった話をわざわざ三流ドラマに出てくる悪役を演じてまで直弼と彦根人の絆を世に知らしめてくれたことは感謝の念に堪えない。特に俊輔、狂介の2人におかれては格別の「感謝」の意味を込めて、郷里の先輩との心温まるエピソードを紹介させていただいた。

 

終章:総括

ここまで直弼と彦根藩の幕末維新史を述べさせていただいたが、いかがであったろうか。よく言われている直弼像の多くが誇張もしくはその一端を拡大解釈させた虚像でしかなかったかをお伝えしたかった。もちろん、ここに述べた内容はあくまでも「彦根人」の視点であり、元よりこれが「絶対正しい」とか言うつもりはない。あくまでも一つの視点からであるが、それでもよく言われる幕末史とは全く違う姿が見えてくる。歴史とは本当に面白いものなのである。どうしようもない愚かしい話、悪意ある話からこうしていつの時代にも美を感じずにはいられない話まで…

井伊直弼という人の人生はさながら「ジェットコースターのようなアップダウンが激しい」

大名の庶子として生まれ、親との幸福な生活から父の死後の不遇な暮らし、更には天の配剤によって後継者へとなり、兄から筆舌尽くしがたいイジメの生活を送り、藩主として名君と慕われ、そして遂には実質的政権首班ともいうべき大老の地位にまで上り詰めた。その横死後は、政敵からのレッテルによって悪名をもって歴史に名を残し、一方で名誉回復せんとする有志たちの熱烈な運動が繰り広げられた。死後の評価までその時代時代によって、左右されたのである。

井伊直弼という人の評価は難しい。だが、どうにもその人物像は歪められて伝えられる傾向がある。今回の井伊家家臣たちが残した膨大な史料を基にした直弼の肉声や生の姿を通して直弼の実像を伝えていこうと思ったものである。

 明治維新についてはどうにも未だに「明治維新は日本の正しい道」という大前提で物事が語られることが多い。その中では直弼はどうしても「悪役」とならざるを得なかった。しかし、果たしてそれは本当に「唯一絶対の正しい道」であったのだろうか。断っておくが、私は明治維新による近代化の業績があったことを否定するものではない。だが、その志士たちが築き上げた国家像が果たして正しいものであったかどうかについて懐疑的である。だが、今でも政治家は「我こそは現代の坂本龍馬」「我こそは吉田松陰」と志士たちに自分を擬えて、「明治維新を見習おう」と唱えている。(つい最近も明治維新150周年の記念式典に与党はおろか主要野党政治家の殆どが参加した)だが、彼らが信じている「歴史」とは小説家が作り上げたフィクションの虚像にすぎない。それをもって政治を語るのは滑稽極まると同時に危険である。一市民がどのような歴史観を持とうとさしたる実害はないが、為政者が特定の歴史観(あるいは疑似歴史観)を信じるのは危険である。

かつて幕末の時に徳川斉昭や孝明帝といった当時の教養において一級の人々が攘夷論を唱える根底にあったのが

「鎖国は日本古来の祖法!」

という現代なら子供でも分かる間違った歴史観を信じ込んでしまったことにあった。事実とは無関係の虚構を前提に立脚された考えが真っ当な結果を生み出せるわけがない。果たして我々は彼らを笑えるのであろうか。現在、疫病が流行し、従来の価値観が動揺しているときである。本来政治家が参考にすべきなのは当時の「徳川幕府はなぜ倒壊したのか」と考えることにあるのではないか。その意味でも井伊直弼について考えるべきであろう。

 

 ところがそうはなっていない。未だに井伊直弼については「単なる悪役」「主人公に対して遅れたヒール役」の役割しか与えられていない。その人物像について大きな「貢献」をしたのが、大河ドラマなどの創作である。創作が悪いのではない。問題は創作に携わる者から「良識」が失っていっているように思えてならない。つい最近も

「戊午の密勅」を無かったことにして、「安政の大獄」が井伊直弼が慶喜を個人的に恐れた故に引き起こした

という驚天動地の創作物があった。創作がどこまで史実に忠実にあるべきであるかは人それぞれ違うだろう。だが、実在の人物を題材にする以上は最低限の守らなければならない良識がある。何度も繰り返すが、「安政の大獄」~『桜田門外の変」に至る道筋の起点として「戊午の密勅」を外すなどはありえない。それは自分たちが題材にする歴史に対しても、そしてこれらの作品を通して知る人々に対しても控え目に言って不誠実極まりないからだ。その根底にあるのは「都合の悪いことは一切合切直弼に押し付けよう」という一橋派及び明治政府の意図と本質的に何も変わらない。

未だに現代は大隈重信の言う「自由に明治維新が語られ、客観的に直弼が評価される時」にはまだまだ遠いということであろう、

直弼の実像を言えば、「恐怖の独裁者」でなければ「開国の大偉人」でもない未曾有の国難において苦悩する等身大の為政者の姿が見えて来る。ただだからと言って決して「大した人物ではない」というわけではない。もちろん開国をめぐるゴタゴタな対応を見れば手放しで賞賛できる手際ではないが、誰もが「最初の決断」をすることを嫌がり、その責任を投げ合う「責任を取りたくない責任者たち」の中で(本人も望んだわけではないが)責任から逃げなかった点は強調しておきたい。

為政者が必要なのは「責任を取る」ということである。その当たり前が幕末の政治においてはできずにいたのである。

阿部は後世の評価は高いがその本質は極めて日本的な政治家そのものである。「問題の先送り」「責任の分散」「何もしない保守派」であり、政局を混迷に追い込むキッカケを作った

堀田は反対派を抑えるために安易に帝の権威を持ち出そうとして、逆に大混乱に陥れた

尊攘派の公家たちが動いていたのは自らの利権拡大のために過ぎない

そして孝明帝は頑強に攘夷を主張しながら、自らはその責任を負うことを拒否した

直弼や幕府を非難していた連中は自分たちが政権を取るやあっさり前言を翻して「開国和親」という直弼の路線を追認した

誰かがこの「責任のたらい回しリレー」の連鎖を断ち切る必要があったのである。直弼はその役割を果たし、一身に泥をかぶりながら全うした一人の「国を思う政治家」であったのだ。

この点に関しては何人たりとも彼を非難させない

あるいは既に「古い」幕府を護らんとしたことが罪とされる場合があるのかもしれない。しかし、当時「徳川幕府が倒れる」などと未来予想をした者がどれだけいたであろうか。倒幕を志した志士たちでさえ、当時誰もこれほどあっさり幕府が倒壊するとは「想定外」であったのだ。

田中光顕は慶応年間の頃を回想して「あの天下そのものだった幕府が本当に倒れるなど、最後の最後まで信じられなかった」

倒幕派の主要な面々は慶喜が将軍位についた時に「これで御一新は十年は遠のいてしまった」

鳥羽伏見の戦い直前に大村益次郎は「今の軍備状況で幕府と戦って勝てるわけがない。あと3,4年は準備が必要だ」

誰もが「未来を正しく」予知していたわけではないのである。

秩序・価値観というのは人は時として「当たり前」のように感じるものであり、それを根本から否定するなど容易なことではない。現代の民主政治体制だってあるいは倒壊する時くるかもしれないが、だからと言って「もう古いからやめよう」などという人間がいたら、皆様はどう思われるであろうか。井伊直弼を語る時には実際の彼がどういう立場でどういう価値観・視点で動いていたかを考えてほしい。

もう一つ、幕末の政治家や志士たちは今日過大に評価される傾向があるが、一橋派の政争や安政の大獄の経緯、その後の志士たちの活動や直弼顕彰に対する実に大人げない対応まで見てもわかる通り

日本の政治家は今も昔も本質的にはたいして変わらないのである。

 

井伊直弼については良いところも悪いところも見据えてどうか客観的に見てほしい。それが彦根の人たちのたった一つの願いである。

 

※最後に大河ドラマ像におけるチャカポンさんについての総括をしておきたい。残念ながら私にはファースト大河『花の生涯』を見る手段が今や無いので遺憾ながら評価対象にできなかったが、決して「ヒールとして描く」ことが悪いと言っているわけではない。『翔ぶが如く』などは私も「悔しい!悔しいが政治的なチャカポンさんの思想や動きが一番しっかり描かれている!」などと屈折した賞賛を送ったものである。そこでは彼の政治背景(京都守護の家柄まで)をきちんと立脚し、更に安政の大獄に至る道筋が極めて明確であったからだ。(もちろん薩摩視点、あるいはドラマ制作時の歴史状況を加味した上である)こういうきちんと情報を包み隠さず、視聴者に「どちらに理があるのか」を考えさせる作品こそ大事であろう。

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私的に「究極にして至高」のチャカポンさんは『篤姫』の中村梅雀さん演じるチャカポンさんである。一見して従来の強面なキャラと一線を画する温和な梅雀さんの風貌とそれとは裏腹の強硬な態度がなかなか史実のチャカポンさんと非常に雰囲気・容姿に最も近い。最初は主人公に立ちふさがる「いかにもな悪役」だったチャカポンさん…しかし最後の茶室シーンでの主人公の対面シーンは圧巻である。

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「帝からの密勅をもって某を除こうとした者の合言葉が『攘夷』です。帝に近づくために『攘夷攘夷』と口にして条約締結を責め立てた。さまで卑怯な者たちにこの国を行く末を任せられましょうや。この直弼を動かしたのはこの国を守りたいという一心にございます」

「私は己の役割を果たしたまで」

これぞ史実のチャカポンさんが言いたかったことだ!
 

『篤姫』自体は手放しで評価できる作品ではないが、チャカポンさんに関しては恐ろしいほど情報や魅力が余すことなく充実しており、このセリフとかあのスイーツ脚本家のものかと信じられない思いであった。

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大河における桜田門外の変についても実は一番「オーソドックス」なのが本作である。古い大河だとどうしても「セット撮影」感が抜けきれなかったり、史実的な正確さが欠けていたり、ネタ的な描写が目立つが本作の演出や音楽は非常に情緒たっぷりで涙を誘うものがあった。

私としてはやはり大河史上最高のチャカポンさんと評価するゆえんである。