「幕末で一番好きな人物は誰か?」と聞かれて、こう返答する人物に対して貴方はどう思うだろうか?

装鉄城「私がもっとも好きな人物は井伊直弼です!!」キリッ!

一同「(気まずい静寂)・・・へ、へえそれは珍しいですね(ああ、コイツはめんどくさい彦根人だ)」

およそ日本史上の中で「井伊直弼」ほど地元人と全国の歴史ファンで両極端に分かれる人物もそうはいないだろう。大抵の人間からすれば、直弼などは「滅びゆく旧体制(徳川幕府)を守らんとする頑迷固陋とする保守派」「憂国の志士を弾圧した独裁者」のイメージで語られがちである。

明治維新サイドから見れば「吉田松陰ら『日本を憂うる志士』を粛清した恐怖の独裁者」佐幕派サイドから見れば「安政の大獄によって徳川幕府の寿命を縮めた男」というのが専らの評価である。大抵の創作作品では主人公陣営に立ちはだかる「幕末史劇最大のヒール役」なのが定番である。ところがその一方で地元彦根では今でも熱心に「直弼公は開国の偉人」として厚く慕われている。

 

 私はNARA生まれの育ちであるが、父方の祖父母の代までは彦根に住んでいた関係もあり、彦根こそ自らの精神的郷土という自負がある。そんな私が井伊直弼を知ったのは小学生の頃の「マンガ日本の歴史」である。この漫画は当然のことながら創作のような一方的なヒールなどではない、今から思い返してみると意外なほど中立的な作品であった。少なくとも一般的創作物に比べれば(当たり前だが)遥かに公正な扱いであったといえよう。彦根城を訪問するたびに「直弼公」が「如何に立派な御方」であったかを色々な所で述べていたこともあって、その落差はどこからくるものであろうかと悩んでいたものである。そんな私もチャカポンさんこと井伊直弼をブログ開設時から記事にしたいと思っていたのであるが、ある理由から断念していた。

如何に私といえども地元人としての意識が強すぎて公平で客観的な内容にすることができない

いや、お前の今までの歴史記事のどこが公平で客観的だったんだとのお叱りを受けそうであるが、さすがの私も今回ばかりは一切の私情を挟まない内容になるかというと無理である。そんな訳で断念していた経緯がるのだが、そうはいっていられない事情が発生した。近年の創作作品の直弼描写はおよそ視聴に耐えうるものではない。そこにあるのは「ヒール役ならいくらでも貶めても構わんやろ」という安直かつ一方的な内容に私の忍耐も限界の域に達した。そこで今回は敢えて客観性を捨て去って、

彦根視点から見た幕末維新史

という形で直弼の一生及び彦根藩の歴史を述べてみようと思う。これを見れば、如何に今までによくある直弼の人物像や扱いが一方的なものであったかを皆様に知っていただきたい。それと同時に等身大のチャカポンさんの実像…それまでの「幕末史最大のヒール」という人物像が歪んで伝えられたかがわかるというものである。

 井伊直弼の一生は非常に劇的な出世物語である。大名家の14男として生を享け、不遇の身から幕末史の重大局面での実質的政権首班として歴史に名を遺すまでに至った人生を送った人物もそうはいない。彼が歴史上の表舞台に至ったのはその人生46歳の中で生涯最後の2年足らずに過ぎない。そのわずか2年で「日米修好通商条約」「安政の大獄」「桜田門外の変」という日本史の教科書に載る有名事件の「主役」として一躍有名にして、そのイメージが固定化されてしまっている。良くも悪くもこの時期をさして、直弼のイメージが定着してしまっているのである。近年では、直弼の政治的業績について逆に殊更小さく見せようとする動きがあるがある。果たしてそのどれが正しいのかはここからおいおい述べていきたいと述べる。

※なお、時に文章だけでは息苦しくなるので、各ドラマにおける(もちろん論評に値する作品限定)直弼について軽くコラム的内容を述べていこうと思います。ここはちょっと軽い内容でお届けします。

 

第1部・井伊直弼の実像

第1章・埋もれ木が花咲くまで

 井伊直弼は彦根藩30万石(35万石と表記されることが多いがこれは厳密には誤り、この5万石は幕府からの預かり)井伊家第11代当主・井伊直中の14男として生まれた。この時、直中は既に正室の子である三男・直亮に当主の座を譲り、国元の彦根城に造営された槻御殿において隠居生活を送っていた。母親は江戸の商人の娘であるお富の方であり、国元で暮らすために連れてきた女性である。当時の大名というのは参勤交代で国元と江戸を行き来する生活を送っているので、父と子が共に生まれてこのかた共に生活するのは非常に珍しく、この意味で直弼は両親との家庭的な生活に恵まれていたといえよう。

 

 父親の直中は15男5女という子供に恵まれ、当時は既に隠居の身として芸道を非常に愛しており、直弼にも大きな影響を与えた。特に能については十歳の直弼が父親と一緒に鼓の稽古をしていたことが記録されている。仏教信仰の厚さ、芸道への熱狂etc、後の直弼の人生にこの父親が大きな存在であったのは間違いない。

 母親が5歳のころ、そして父親が17歳のころに亡くなると直弼の境遇は一変する。井伊家では跡継ぎ以外の男子は城下のお屋敷に居住する決まりになっており、直弼もまた末弟の直恭とともに、彦根城内の槻御殿より彦根城を出た目と鼻の先にある尾末町御屋敷へと移転する。この屋敷こそが、後に直弼の人生で大きな役割を果たすことになる「埋木舎」である。

 

 二十歳のころに、親戚の日向延岡藩内藤家において養子縁組の話が持ち上がり、弟の直恭と共に江戸へと上京する。しかし、ここで選ばれたのは弟であり、直弼は一人取り残される結果となって、失意のうちに彦根へと帰国した。自らを世の中で活躍もせず埋もれている木のごとく存在として有名な「うもれぎのやの言葉」はと共にこの屋敷を「埋木舎」と命名する。その決意には自らの境遇に腐ることなく、世の中の雑事から解放された自分自身の道を究めよう、と決意していくのであった。睡眠は一日4時間ほどであり、生活を文武諸芸の道への習得に費やした。そのエネルギーたるや凄まじい。いずれもまずは幅広い流派の書籍を読破し、その根源に迫り、そこから自らの思考と精神を見出す。特に茶道においては最早それは単なる大名としての教養の域を超え、元々習っていた石州流だけでなく、、千家や遠州流などの他流派、更には古の大茶人・千利休にまで遡って貪欲に学んでいった。

 

 

 

有名な「一期一会」の言葉、この言葉自体は彼の独創ではないが、それを「一回限りの貴重な邂逅」に究極の価値を置く精神にまで昇華させたのは間違いなく彼の功績である。彼は当代随一の幕末茶人であった。

井伊直弼「自分はなにぶん朴訥者で、弓場ともに不鍛錬で第一臆病者なんだよね」

と信頼する老臣に語る謙虚さとは裏腹の凄まじい「何もやらせても一流のスペシャリスト」というのが直弼の凄まじさであった。国学、和歌、座禅などの文の道においても、居合術や兵学といった武芸においても一流の道であったのだ。そんな彼の数少ない欠点は「漢詩」である。彼は様々な方面で色々自らの作品が残っているが漢詩だけは実は残っていない。また自らの肖像画にも遺した賛文にも当時の習慣では漢詩で記されるものであるが、和歌を認めている。この辺も徹頭徹尾「和風」の人であったといえよう。

そしていつしか、その凄まじい傾倒ぶりから「茶、歌、ポン」という綽名が奉られるようになった。もちろんこの名称にはどちらかというと蔑称的意味合いが強いが、現代ではむしろ誇るべき名称であるといえよう。

 転機は天保十三年(1842)11月、国学者である長野義言(以降「主膳」と表記)との出会いであった。彼は前半生が不明であり、国学を講じつつ、全国を遊歴していたが、この時彦根藩領内に私塾を開いていた。その令名を聞いた直弼は同い年のこの国学者に出会って、一目でほれ込んでしまった。三夜にわたり、和歌や古語を語り合い、明け方にはすっかり「自分は今日から主膳の弟子になる」とまで言い、彼への思慕を口にするほどであった。最初は和歌について教えを乞うことであったが、国学における君臣論、尊王論にまでその精神において視野を広げることになったのである。後に直弼第一の側近として、その実態は単なる君臣関係にとどまらない、精神的指導者として直弼の政治思想のバックボーンとして支えることになるのである。なおこのころに、直弼は一人の年上の美女にもまた心奪われることになる。その女性は村山たかといい、元は兄である直亮の側女として仕えたが、遊女となり、この頃には直弼の愛人となっていた。後に藩主の座に就いた時にはスキャンダルとなり、主膳とは師弟の関係となると同時に恋敵ともなる何とも実に複雑でそれでいて濃密な三角関係であった。

 

いずれにせよ埋木舎での生活は直弼に自ら動き、思考し、判断するその力を養わせ、後に天敵となる水戸の親子や福井藩主・松平慶永(これ以降は春嶽と表記)らとも互角以上に渡り合う老獪な政治力を培わせたのは間違いない。

 

直弼に対する誤解その①

よくある彼のこの頃の境遇をさして夢も希望もない生活で、芸事にうつつを抜かしていたと極めてネガティブな評価がなされていることがある。これは彼が「本来なら大名になるはずではなかったから、そのまま芸事に傾倒していたら文化人として名声をほしいままにできたのに運命のいたずらで大名になったために破滅した」という評価である。だが、これは厳密には正確ではない。

 そもそも当時の医療技術では大名家の子弟といえども非常に死亡率が高く、井伊家においては二度にわたり、継承において危機が到来していた。そのため、庶子といえども帝王教育を受けさせ、万が一の時のスペアとして残しておく方針であったのである。これが一般大名家であれば、他家から養子縁組をすれば済む話であるが、譜代筆頭の井伊家の場合、徳川幕府は藩祖である直政以来の血統を断絶することを許さない。当時、当主の兄直亮にも同じく世子となっている兄直元にも子供はおらず、もしかしたら…という場合の予備として残されていた一面が強いのである(実はこの後、領内の寺院住職継承の話が持ち上がっていたが、井伊家では拒絶している)。この時の直弼の立場は可能性としては僅少であるが、万が一には彦根藩井伊家当主の立場を継承できる予備メンバーなのであり、決して「運命のいたずら」ではないのである。

 

第2章 兄との確執

そして人生において激変の時がきた。弘化三年(1846)、世子直元が急死したのに伴い、直弼が32歳にして遂に世子の立場へとなったのである。ここに晴れて、彼は遅咲きの大名社会へのデビューを果たした。この時の彼の心境はまさに「天にも昇る思い」であったに違いない。将軍家慶へのお目見え、世子としての江戸屋敷移転etc…井伊家は初代である井伊直政が徳川家康の重臣として活躍し、譜代大名筆頭の立場である。武田家旧臣を附属され、「井伊の赤備え」と称される精鋭部隊を率いた武人として、また豊臣や外様大名とも外交を担当した重臣として、徳川家内でも重きをなし、以降幕政を総覧する立場に置かれた。江戸時代の大名家は江戸城内でその家格は「席次」で厳密にランク付けされている。御三家の「大廊下席」、外様の大大名が集う「大広間席」…井伊家は「溜詰」である。ここは譜代大名や松平姓の親藩にとっては最高ランクの家であり、その中でも「常溜」と呼ばれる常に固定された席をキープされることを許されていたのは井伊家と会津松平家、高松松平家(水戸徳川家分家)である。この溜詰はいわば徳川幕府の政治顧問ともいうべきものであり、政治の実権を握る老中も「これこれこういう政策をとろうと思うのですが、どうでしょうか」と溜詰にお伺いを立てるのが習わしであった。またそれ以外にも溜詰大名家は将軍の参加する儀礼においては先導役を務めであり、まさに井伊家はその将軍権力の武威を世に象徴する武門の習わしであった。そして井伊家にはもう一つ誇りとしている立場がある。「京都守護」、彦根は京都に近い軍事要地であり、危急の際には天皇のおわします御所を守護する立場である。これは二代目直孝が家康から言伝で託されたという逸話からきているが、元より当時の史料にはなく、史実的には疑わしい。しかし大事なのは井伊家ではそれが真実として伝えられ、誇りにしていたことである。殊に国学を習得していた直弼にとってもそれは人一倍強い思いであった。

 

だがここで、直弼を待っていたのは養父となる兄直亮との確執、そして『忠臣蔵』の吉良上野介も裸足で逃げ出すレベルの筆舌尽くしがたいイジメ生活であった。元より21歳と親子ほど年の離れ、江戸でずっと暮らしてきた異母兄の直亮と彦根でずっと暮らしてきた直弼には肉親の情に厚かったとはお世辞にも言えない。が、やはりこの2人には何か「合わない」ものがあった。更に直亮という人は性格的に難のある人物であり、様々な人から不評を買っていたことが世子となった直弼を苦しめる要因であった。

 何しろ2人の父親である直中にしてからが、「直亮は何かあった場合には押し込めにしろ」とまで遺言を残すほどであり、なおかつ同じ溜詰の大名からも不評を買うほどであった。無論、決して一概に暗愚というわけではない。特に洋学関係の積極的導入など開明的部分もあった。だが、家臣からも領民からも不徳を陰で言われるほどの狷介な人物であったのは間違いない。その直亮からのイジメは凄まじい。代表的なのを紹介しよう

①官服事件

弘化4年(1847)上野寛永寺において先代将軍家斉の法要が執り行われた。先述の通り、この時将軍を先導役を務めるのが井伊家世子である直弼の役割であり、重要な儀礼であるから衣装から立ち振る舞いまで厳粛に定められている。ところが直弼は世子としての交際費をすべて「倹約で節約しろ」と言われて、手元不如意であった。流石に官服が無いとやっていられないので、要求すると故・直元の所持していた官服が送り付けられた。それで儀式に臨もうとしてた直前になって、国元の直亮から「見栄えが良くないからあれは着るな」という命令が届く。着る服が無ければ、行事にも参加できず、結局直弼は「病気」を理由に欠席せざるを得なかった。この時、色々溜詰大名の会津藩主松平容敬らからアドバイスを受けていたのに…である。

 

②正室縁組

井伊家には老中阿部正弘から将軍家慶養女と直弼の縁談話が持ち掛けられていた。これは直弼にとっても悪くない話であったが、直亮は「だが断る」とあっさり拒絶してしまった。もちろん、直亮にも言い分があった。将軍の息女を迎えるのは様々な出費が嵩む。当時の彦根藩も財政をひっ迫しており、その意味では決して悪いというわけではない。結局、最終的に直弼の縁談は丹波亀山藩の先代藩主松平信豪の娘・昌子と決まる。家格自体は決して遜色ないのであるが、やはりどうにも「格落ち」なのは否めない。しかも、この時昌子はまだ12歳と直弼と20歳年下の子供であり、年齢的にも不釣り合いであった。なお、そういう事情のため、縁組が正式に成立したのは直亮が死去して、直弼が藩主となってからのことであった。

※ちなみにチャカポンさんのご家族というのは主役のファースト大河『花の生涯』でしか登場せず、ほかの大河ではもちろん登場していない。が、実は昌子夫人についてはある作品で登場している。その作品こそ、『花燃ゆ』であり、例の「桜田門外スルー」のシーンで登場した奥方である。喜ぶべきか嘆くべきなのか判断つきかねる。

 

③相州警備

幕末間近、異国船の出没で沿岸防備の必要性が叫ばれ、特に江戸周囲の相模・房総半島一帯については徳川親藩・譜代大名の彦根・会津・忍・川越に沿岸防備の軍役が命じられる。これはもちろん近々来航されるという情報が流れた黒船来航に備えた海防策であったのであるが、京都守護を誇りとする直弼にとっては恥辱以外にはなかった。更にまずいのは実際に担当してみると、幕府側からは彦根の相州警備に対する評価が恐ろしいほど低かったことである。琵琶湖という太湖があるとはいえ、内陸であるがゆえに初めての海岸防備では砲術や船の取り扱いに難があった・直亮と家臣との関係が上手くいっていないから士気が高まらずグダグダであった…一身に幕府側から不手際を責められるのは世子の直弼であったのだ。なお、この問題が解決したのは直弼自身が藩主となってから積極的に改善策を行ってからである。

この働きが評価されたのか、その後、無事念願の「京都守護」の拝命を受けることができたのである。

 

この世子時代というのは直弼にとっては人生で最も暗黒の時代と呼ぶにふさわしい苦渋の時代であったことは想像に難くない。

 

第3章 彦根の名君生誕

そんな生活に終わりを告げたのは嘉永三年(1850)のことであった。これまで散々に彼を苦してめてきた直亮が遂に亡くなり、ようやく「解放」の時を迎えたのである。直弼は既に世子時代から将来の藩主襲名に備えて、「あるべき主君の姿」を追い求めて、家臣やブレーンの長野主膳に主君の在り方を説いた文書の提出を求めていた。

藩主の座に就いた彼が早速行ったのは藩政改革である。それは徹頭徹尾、藩士や領民と向き合う姿勢を示すのが大名のあるべき姿であるということである。

藩主就任後に行ったのは先代の遺命という形で家臣領民に遺金分配を行った。規模については15万両といわれるが、当時の財政状況からするともっと少ないという指摘もある。この遺金下賜は実父である直中が先代(直弼祖父)の直幸死去の際に倣ったものとされ、直亮の時には行っていないのであるが、直弼は「直亮からのご意思」として表明したのは、内心では腸煮えくり返る思いを抱いた直亮に対するせめてもの「恩返し」であり、それと同時に直弼の新たな治世到来を人々に知らしめることにあった。更に直亮側近の重臣を罷免し、改めて改革の必要性を文書という形で交付する。その要旨は以下の通りである。

①改革に当たっては直弼と家中の「意思統一」を重視(『一和』『衆心合体』)し、上からの押し付けではなく、相互協力のもとで実現しようという意思表明

②決して主君に阿ることなく、積極的な諫言を遠慮なく行うこと

③人材育成の必要性

④藩校弘道館の改革と学問の奨励

 

これを見た幕末大河で直弼像を見てきた多くの方が「お前が言うな」と思われるであろうが、直弼自身は決して独裁的な人間でもなく、何よりも「家臣との評議」を重視し、それによって政策決定を行っていたのが事実である。この時、これまでは私的には深いつながりにありながら、どうしても公的には距離を置かざるを得なかった長野主膳を早速に登用し、遠慮なく公私ともに右腕にしている。またこの時に、密かにであるが、庶子時代の愛人・村山たかについて彼女の親類縁者から「ねだがまりしき事」(スキャンダルをネタにした脅迫)を言われるので、藩主の身としては差しさわりあるから主膳に問題の処理を願うというまあ実に形無しな依頼をも行っていた。

 裏面はともかく、直弼が積極的に善政を心掛けていたのは疑いようのない事実である。例えば、直亮側近であっても宇津木景福(以降、六之丞と表記)を一度は警戒しながらも、その得難き才幹を見込んで公用方(公設秘書)として登用したし、また直亮が登用した儒学者・中川禄郎も引き続き登用している。この中川は西洋文明受け入れにも積極的であり、その後の開国問題に大きな役割を果たす。

直弼が同時に重視したのが領内視察である。最初は藩主として初めて帰国を果たした嘉永四年(1851)9月で以降、国事に奔走される安政年間まで実に9度にわたり、領内巡検を果たしている。先代の藩主たちも領内巡検を行っているが、それらはどちらかというと国境の見分という儀礼的な面であり、直弼のそれは積極的な領民との交流の場としてであったのが異色であった。各地の様子を見廻ると主に道中で孝行者を褒賞し、生活困窮者には救米の支給、また村から直弼に土地の産物が献上された時には金銀を下賜するなどの対応をとっている。以降、彼は全領内を巡察し、様々な場で領民と交流する場を設けた。それは飛び地領であった関東の武蔵世田谷領や下野佐野領でも同様であり、日光参詣の帰路に立ち寄った際には悪弊であった諸株運上を廃止する一方で、娼婦全廃、増税を回避する善政を即刻実施している。

 

彼の治世は十年足らずに過ぎず、しかもその大半は後に述べる開国をめぐる国事の奔走に忙殺されており、彼が彦根で藩政を行った期間はずっと短い。それでも彼が後に彦根の人士から強く思慕されたのはこういう家臣にも領民にも慕われた名君としての顔があったればこそである。

 

第4章・攘夷か開国か

日本にとっての幕末の到来というべきペリー来航とのファーストコンタクトは意外なことに彦根藩である。嘉永六年(1853)6月4日、ペリー艦隊は浦賀沖に来航した時の当時彦根藩の相州警備で管理していた三崎町の漁民嘉平次が彦根藩士が詰める三崎陣屋に通報したのが最初であったのである。この時、直弼は国元彦根にいたのであるが、帰国わずか7日にして急報に接した。その後、本来なら江戸へ至急帰府すべきであったのであるが、来るべき対策のために家臣たちと評議の時間を設けるために病気を理由に延期を申し出ている。

 このころに一躍時の人となっていたのが、不倶戴天の敵となる水戸家前藩主・徳川斉昭である。水戸と彦根は元来、交際もあり、良好な関係であった。先代直亮の頃には、斉昭と近江牛の牛肉贈答や異国船警衛に関する意見の交換までしていたほどであった。直弼自身も嘉永三年(1850)頃には、海外諸国に通じた斉昭について畏敬の念すら抱いていたほどであった。

 だが、ペリー来航を機に絶望的なまでの断絶し、敵対関係へと転じる。ペリーからの国書返答をめぐり、幕府は対応措置を講じるために、急遽諸大名を招集させて、対応を協議したが、断固打ち払いを主張する斉昭と溜詰大名の一致した穏健論が衝突。周囲では直弼が斉昭と阿部正弘を排除して、自らが大老の座につく「密議」があるとの陰謀論が水戸の内部で噂されるようになった。徐々にきしみだす両者の関係はやがて徳川幕府の命運をも揺るがす大惨事への序曲となるのである。

 自分の意見を認められなかったことに立腹した斉昭はやがて尊王攘夷思想を京の朝廷へと工作に乗り出す。それはやがて凄まじい勢いで朝野を揺るがし、日本に暗い影を落とすことになる。そもそも水戸家内部ですら、ブレーンの藤田東湖自身が「攘夷なんて無理」とわかっているのに対面上、そして国難に危機を憂うる人士には斉昭が煽った尊王攘夷はやがて斉昭自身すらコントロールできない怪物へと成長させていく。なお、有名な巷説として、それまで井伊家が贈答品として将軍家や水戸家へ献上していた近江牛を献上しており、斉昭もこれを毎年楽しみにしていたほどであった。ところが、仏教の信仰厚い直弼が贈答を取りやめたのに怒ったという話がある。

 直弼自身も斉昭との衝突がもたらす「何か」を予感していたのかもしれない。安政2年8月1日、自ら「宗観院柳暁覚翁大居士」との戒名を選んで、菩提寺に奉納させている。

直弼に対する誤解その② 日本古来の「伝統」はどちらが正しいのか

ところで戦後になって「開国の偉人」として顕彰されるようになった直弼に対するアンチテーゼとして「直弼自身は元来は頑迷な攘夷論者にすぎない。開国に方向転換したのはその場の情勢に渋々従ったに過ぎない」という意見があるが、果たしてそれは正しいのだろうか。一つ参考になる史料を紹介しよう。嘉永六年(1853)のペリー来航時に、幕府はペリーが持参した国書の写しを溜詰大名に対して、意見の提出を求めている。これに対しての彦根藩は2通の意見書を提出している。これは直弼が家臣たちから藩内からの意見を踏まえた意見書を2通作成している。主に儒学者の中川らが中心となり、家老や直弼らが評議して出した井伊家の公式見解とみてよい。

最初に出した『初度存寄書』は交易拒否論である。ところが後から出した『別段存寄書』では一転して開国論を唱えている。そこの内容は概ね以下の通りである。

①三代将軍家光以来の海禁政策により、交易は「国禁」となっているが、時節柄もはやそのような状況を許さず、交易を肯定

②しばらく外国との戦争は行わず、時間をかけて外国との戦争でも勝てる態勢を整える

③その具体論として、日本人に砲術や航海術を学ばせ、軍艦を導入し、海軍を整備

④自ら外国を見聞し、武備厳重にして、有威を海外に振るうようにできれば、「皇国安泰」となる

態勢が整えば、いずれは「鎖国」に戻す

後の幕府が行った数々の政策はいずれもこの路線に従って動いている。まだこのころには諸大名が提出した意見書の中で開国を主張する意見は珍しいものである。もちろん、いずれは「鎖国を戻す」という形での「限界面」もあるが、当時の世相を考えれば、「開国論者」と見るのが自然である。野口武彦氏が『巨人伝説』で述べているが、国学は元来開国を否定していない。直弼の師匠というべき長野主膳自身も述べている通り、その「教典」たる『古事記』には諸外国との交易が描かれており、和魂洋才こそが古事記の伝承に近いと定義しているのである。攘夷論は「日本古来の『祖法』を守れ」と叫ぶが、そもそも攘夷という思想自体が中国由来なのであり、その意味でも「日本の在り方」として、古典的にも間違いなのである。

 なお、直弼は同時期にある「現状」を憂慮している書状を認めている。それは異国船の頻繁な来航による国内、なかんずく民政の疲弊であり、それは相州警衛を行っていた彦根藩を通して、幕府・諸藩も同様の現状を憂慮して、このような状況はいずれは「内乱之基」になると述べてある。幕末、多くの諸藩においては外国からの「国防」のために、諸改革が行われていたが、それらはどうしても軍事優先の『先軍政治』というべきものであり、それらがいずれ民衆の疲弊を招いている現状に危機感を抱いていたのである。直弼は至急それらを解決するために、徳政に力を注ぐべきこと、「人心一致」を重視すべきであると考えていた。この軍事偏重による民力疲弊がやがて明治~昭和にかけても踏襲され、その不満を「帝国」は外なる方向へと逸らすための「侵略」に向けさせてしまった挙句に崩壊した方向を考えれば、実に慧眼であったといえよう。

 

第5章 将軍継嗣問題における直弼の「正統性」

この頃、開国をめぐる是非と共にある問題が幕政を左右する重大な問題としてクローズアップされてくるようになる。それは時の13代将軍家定に子供がいない状況からきた将軍後継問題である。阿部正弘はこの国難にあたり、日本全体が一致団結してあたるべきであり、有力大名の取り込みを図った。彼らはそのためには「英明な将軍」を頭に戴いての幕政改革を叫ぶ勢力であり、松平慶永(以降『春嶽』という表記で統一)、島津斉彬といった有力親藩・外様の大大名らがそのメンバーであった。彼らはその旗頭として、斉昭の息子で一橋家へ養子入りしていた一橋慶喜を旗頭にした「一橋派」と総称される。彼らは日ごろから自分たちのような有力大名が国政において発言権がないことを不満としており、その意味では参政権運動としてみた場合、彼らの立場からすれば正当であるといえよう。

 これに対して、譜代大名や大奥などの保守派が出したのは血統の濃さであり、その意味で現将軍との従兄弟にあたる紀州藩主徳川慶福を擁立した「紀州派」であり、その旗頭となったのが井伊直弼である。よくこの時に「英明な一橋慶喜を将軍に据えていれば、徳川幕府は存続できていたのかもしれないのに…」と言われる。そしてそれらを阻害してきた直弼が幕府滅亡への「戦犯」扱いされるが、それらは妥当であるのだろうか。直弼が反対した論理は以下の通りである。

①将軍後継はまず何よりも現将軍家定が決定すべき事項であり、その意向を無視した形での継承者擁立は許されない

②血縁ではなく、「英明」が優先されれば、何よりも世襲の正統性そのものが崩壊する

③ここ数年、幕政を大混乱に陥れ、諸勢力からの敵視されている斉昭の息子を将軍にすると大混乱に陥る

というものである。現代の人間からすれば、これらは「時代錯誤」であるとみられがちであるが、当時の価値観としては全く間違っていない。仮に臣下の者が「〇〇は『英明』だからこの方を君主に擁立しよう」という論理が許されれば、そもそも世襲の安定性は実現しない。世襲とは何よりも「血縁」という明確な基準があるが、「英明」とはそもそも基準が明確ではないからである。無論、慶喜という人物が優秀な政治家であったのは疑いようのない事実である。だが、このような論理で継承者が決定されればやがてそれはいずれ「悪しき前例」となって、更に不満勢力が新たな「英明な」君主を擁立しようという動きを誘発しかねない。例えば、『三国志』でいえば、あの董卓が時の皇帝を廃立するために持ち出したのが「ここのところ『愚帝』ばかりが続くから世の中が乱れる。だからこそ『賢帝』を擁立して、安定を図ろう」という論理である。その結果として、黄巾の乱後も曲がりなりにも維持された後漢王朝の権威は失墜し、以降群雄割拠の乱世へとつながっていったのである。その意味では直弼の論理は当時としては間違っていない。仮に現君主が「いまの国難にあたっては血縁ではなく、見込みのある者を後継者にすべき」と考えて選択されるのであれば、問題ないが一橋派は自らの『理想』を実現しようとするあまりに現将軍家定の意向をガン無視してしまっていた。そして彼らが慶喜擁立のために利用しようとしていたのが、数百年政治から離されていた朝廷であり、天皇の権威を持ち出すことであったのである。

それはとりもなおさず、朝廷の影響力が増すことを意味していた…

 通商関係の樹立のための完全なる開国という外国からの圧力、そして将軍継嗣問題が絡み合って幕末の政治情勢は激しい権力闘争に見舞われていた。これらの問題を解決するために阿部正弘亡き後の政権首班についた堀田正睦は天皇からの勅許によって解決しようと図る。これは前任者の阿部が「朝廷の意向を重視する」「天皇からの意向を聞く」という方向性を示したのでその路線を踏襲したのであるが、これこそが間違いであったといえよう。斉昭の強硬な開国反対を封じ込めようと考えた彼は京へ上洛し、勅許をえようとするが、斉昭が吹き込んでいた攘夷論は朝廷を席巻し、何よりも時の帝である孝明帝自らが宗教的信念による攘夷論者であったことを失念していた。実は一橋派内部では越前の橋本佐内、薩摩の西郷吉之助らが朝廷工作を行っていると同時に、彦根からは直弼のブレーンの長野主膳もまた入京して工作を行っていたが、何とも奇妙な光景が現出していた。本来は相いれない政敵の一橋(開国)派と井伊家が同様の目的で堀田を援護しようとして開国への方向へと導こうとしている。一方、慶喜を将軍擁立しようと図る一橋(開国)派と水戸藩は肝心のマニフェストを統一できないでいた。俊英ももってなる橋本佐内ですら、公家のあまりにも現実離れした頑迷な攘夷論に固執する公家たちに呆れかえり、「あんなお粗末さだから武家政権にとってかわられるんだよ」と吐き捨てられるほどであった。実際、斉昭の余りにも無鉄砲すぎる攘夷論は同じ一橋派の島津斉彬でさえ「あの人との付き合いは考え直したほうがいい」と春嶽に書状を認めるほどであった。結局、孝明帝から下されたのははっきり示されたのは「もう一回諸大名と衆議しなおせ」という事実上の拒否回答であった。これによって幕府の政策決定に朝廷が拒否権があるという既成事実が出来上がってしまったのである。これとよく似た事例を挙げれば、英国のEU離脱国民投票がよく似ている。これもまた時の政権がEU離脱を唱える連中を黙らせるために住民投票で解決しようとしていた。「まさか反対論が勝利することはあるまい」とたかをくくっていたら、そのまさかが実現してしまい、しかもそれは直接民主主義の結果として軌道変更を許さない代物となって迷走していったのと被る。図らずも一橋派はパンドラの箱を開けてしまったのである。

 ところで彼らの主張する「有力大名の合議による挙国一致体制」とは実現性のある物だったのだろうか。それは確かに「理想」として考えれば素晴らしいといえるが、地に足のつかない「理想」などは却って動乱をいざなうだけである。何よりもそう主張したはずの薩摩が中心となって築き上げた明治政府にしてからが藩閥政治といわれる専制政治を生み出した(これは当時の事情を考えればある程度はやむを得なかったとも言える)のを考えるとやはり現実的ではない。この後、幕末で彼らの構想が実現する機会が二度ほどあった。「参与会議」「四侯会議」と呼ばれるそれらは彼らの理想実現の絶好の機会であったのであるが、一人の人物によってご破算に追い込まれる。その人物こそ

彼らが旗頭にしていた一橋慶喜その人なのである

彼らは自分たちの理想を全否定した人物を旗頭にしていたのである。もちろんこれは「英明」を見込んだ彼らをもってしても完全に制御できるものでなかったということであり、その意味で最初から破綻は必然であったといえよう。そして将軍家定はある決断をする。それは、井伊直弼を大老の座に据えるというものである。遂に直弼が歴史の表舞台へと昇り詰める時がやってきたのである。

安政五年(1858)4月22日井伊直弼大老に就任

 

 

 

 

第6章 大老井伊直弼の本領

堀田正睦が事態を解決しようと越前藩主・松平春嶽を大老に据えるよう進言した時にそれまで暗愚な君主のように周囲から見られていた将軍家定は明確な意思をもって直弼を大老に据えるように厳命を下す。これは同じ紀州派に属する老中・松平忠固の工作もあった。彼は朝廷の意向ではなく、幕府自身が明確に開国すべきであると考え、何よりも斉昭と敵対関係にあった。

ただここで勘違いしてほしくないのは直弼自身は自らの大老就任を決して積極的に乗り出していたわけではないということである。無論、井伊家の家柄として直弼自身も大老就任を意識していた節があるが、それでも青天の霹靂であったのである。そして周囲は驚愕したのであるが、それは決して直弼の存在が軽視されていたからに他ならない。一橋派内では開国交渉の最前線に当たっていた幕府官僚の岩瀬忠震が

「あんな子供同然の男を大老に据えるなんて」と罵り、堀田自身は「いやあれはあくまでも飾りの存在だから」と取り繕った。

 実をいうと幕府においては将軍に次ぐ最高職とされる「大老」の職であるが、初期こそ「下馬将軍」とまで権勢を誇った酒井忠清のように最高権力者として君臨していたのであるが、中期以降は実質的にはお飾りの名誉職と化していた。井伊家自体も三人、あの先代直亮も大老職に就いていたのであるが、特に何ら実績を上げたわけではないのである。擁立しようとした忠固にしても「傀儡」として扱おうとしていた節があり、直弼の大老就任を心から祝福した者は井伊家家臣と友好的な大名だけであった。

 

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『篤姫』での一シーン。平岳大さん演じる慶喜と中村梅雀さん演じるチャカポンさんが江戸城内ですれ違い、挨拶を交わすシーン。表面的には静かな挨拶に終わるのであるが、両者のすれ違いざまの火花が衝突するシーンが溜まらないものであった(笑)スラリとした長身で眼光鋭い平さんと小柄でふっくらしたニコニコ笑顔の梅雀さんの対比は実に史実のチャカポンさんと二心殿のそれに近い。

 

 だが、彼らが見落としていたことが二つあった。それは「大老はただの名誉職」というのが単なる不文律にすぎないということ、そして何よりも直弼自身は傀儡で収まるような人物ではなかったことである。

彼はさっそく自らリーダーシップを発揮して彼を軽視していた者たちに衝撃を与えたのである

埋木舎の頃から彼は常日頃より自ら物事を考え動くという精神で動いていた。それを実践されたとき、大きな力を発揮したのである。大老就任当日、それまでの慣例であれば単なる就任に伴う儀式や挨拶で終わるのが常であったのが、早速その場で国政を議論する場とし、直弼自身はそれまで冷静な観察者である立場を生かして、既に幕政課題を認識し、それまで政治の実務に携わっていた老中たちですら舌を巻くほどであった。

 彼はまず片づけたのは将軍継嗣問題であり、先述の論理をもって一気に解決を図った。それが実現できたのは何よりも彼自身が将軍家定と十分合議していたからに他ならない。「トップの意向を重視し、そのうえで政策合意を図る」直弼の政治スタンスは一貫している。将軍家定については長らく一橋派ではその「暗愚」ぶりが喧伝されてきた。大老として初めて直弼が直に接してきた直弼の評価はそれとはまったく異なる。

井伊直弼「御賢明にいて御仁憐の御方」

というのが直弼の評価である。実はそれまで阿部正弘らは家定に正しい情報を伝えていなかったために家定は自身の意向を示すことができなかっただけであり、直弼は臣下として当たり前のことであるが、「お考えになったことは少しも遠慮なく話して下さい」と申し上げていたと伝えられる。これは直弼側近の宇津木が同じ直弼の側近である長野主膳に送った書状にあり、殊更嘘をつく必要性のない内容と考えるがいかがであろうか。元より実父から(度を越した)スパルタの英才教育を受けた一橋慶喜と大奥育ちの将軍である家定とでは条件が違いすぎるだけであり、強いリーダーシップは望めないにしても決して凡愚というわけはないのである。きちんと政治状況を理解し、家臣から伝えられた正しい情報をもってすれば政策の是非を判断する能力は持ち合わせていたと考えられる。

 当てが外れたのは一橋派と松平忠固である。彼らはやがて直弼を敵視することになり、そしてそれは必然的に彼を苦しい立場に置かせることになった。

そして懸案となったのは修好通商条約調印である。既に堀田の下、岩瀬らが米国領事ハリスと実務協議を行っており、既にほとんど出来上がっていた。後は調印するだけであるが、それが最大の問題なのである。直弼自身は大政委任論(幕府は朝廷より政策の一切を一任されている)という立場であるが、既に出来上がった流れとして朝廷からの勅許を得る他ないのが現状であるのは認めざるを得ない。そしてこの時、彼は長野主膳を九条関白との交渉させて、何とか条約勅許を引き出そうとしていた。先の回答は「諸大名ともう一度協議しなおせ」というものであるが、それは裏を返せば諸大名からの同意を取り付けられれば問題無い。決して孝明帝は暗愚な御方ではないから情理を尽くして説得すれば決して分からないわけではない…筈であった。

 

第7章 直弼苦渋の一週間・その時歴史を動かした決断

事態が急展開を迎えたのは6月18日のことである。ハリスからの急報…というより圧力により、アロー戦争に勝利を収めた英仏大艦隊が到来するというものであり、急展開を迎えたのである。同日に江戸城で会議が開かれ、老中から官僚諸役人に至るまでが招集されて、緊急の案件に対する議論が行われた。堀田や松平忠固をはじめ、大勢は即時調印やむなしのものであり、明確に勅許を得るまでの猶予を得るべきと唱えたのは直弼と若年寄本多忠徳のみであった。周囲の圧力に最早現状やむなしと見た直弼は遂に苦渋の言葉を述べる。

井伊直弼「まずは何とか時間的猶予を得るように。ただどうしてもやむをえない場合には致し方ない」

という形である。岩瀬らはこれを「言質を得た」と見て、翌19日にあっさりと調印が行われた。それはとりもなおさず、直弼の責任ということになるのである。

※それにしても大河ドラマなどの創作でもそうであるが、歴史番組などを見てもこのあたりの直弼の苦悩は悉くスルーされる傾向にある。本当ならこういう局面こそ、きちんと現実の歴史と政治を考える上で重要なのに…である。

井伊家屋敷に帰邸した直弼は公用方の宇津木らと協議しだしたが、そこでの重要な場面がある。天皇の勅許を待たずに、日米修好通商条約の調印に踏み切った直弼に対して、側役の宇津木六之丞が身を挺して「調印差し止め」を諫言する。この時、直弼が言った言葉が

井伊直弼「そもそも政治は幕府が朝廷から委任されているものであり、一時的な権限ではない。とはいえ、違勅調印の責任は自分の身一つで取るから、いまさら何も言うな」(キリッ)

 

実はこの場面、宇津木が残した史料『公用方秘録』に基づくものであるのであるが、問題のシーンは明治政府に出された部分が改竄されたものであり、実際の場面はこうであった。

宇津木らから「それは仕方ないことでしたが、ところで事前に諸大名の存意伺いの上で決定されたのですか?」

実は井伊家内でも勅許なしのフライングは不可避と見られており、そのため勅書にあった通り、諸大名の同意だけでも取り付けておこうと周囲に協力要請を出していた。それは一橋派の宇和島藩主・伊達宗城や春嶽らにも同様であり、これはとりもなおさずこの問題に関しては一橋派も紀州派もないというのが直弼の認識であった。しかし、直弼はそのことを失念していたことに気づいて

井伊直弼「わ、ワシは何という失態を犯してしまったのだ(汗)大老職を辞職するほかない」(涙目)

とまで動転していたのである。しかし、宇津木らから諫言(そんなことをすれば将軍にも塁が及ぶ)を受けて改めて会議が開かれるが、家臣一同から至急調印差し止めを具申されるが

井伊直弼「最早衆議は決し、将軍にも伺い済みのことであるから、自分個人の判断で中止することはできない(溜息)

かくして日米修好通商条約は調印されたのであるが、それは一橋派からの怒涛の攻撃の始まりでもあった。彼らにはタイムリミットが迫った将軍継嗣発表が6月25日であることをつかんでおり、そのために政敵の「失策」を政治的に攻撃するチャンスとばかりに息巻いていた。

 

第1バトル 一橋慶喜の場合

6月23日まずは一橋慶喜本人が登城して、勅許を得ずに調印したこと、及びその朝廷への事後報告の「礼を失した対応」を咎めたてる。これに対して直弼はひたすら

「恐れ入ります」

の一言で全ての口撃を受け流した。なお、この時、慶喜は「実はこれは堀田らが勝手にやったことであり、本意ではないのだろう」という指摘に対しては

「最初はそうでしたが、最終的には自分も同意したことです」

と回答していることは特筆しておきたい。もしこの時、うっかり慶喜の口車に乗っていれば、その無責任さを攻撃されてしまっていたであろう。それと同時にたとえ反対の立場であろうときちんと衆議の結果には自ら責任を負うとした直弼のポリシーでもある。結局、この日の会見では慶喜は舌鋒鋭く追及するも結局追い込むことはできなかったということである。後に「賢侯」たちを鎧袖一触の手玉に取った慶喜でさえ、直弼を破ることはできなかったといえよう。それどころか「私は将軍になる気は元々なかった」という言質まで取られることになってしまったのである。明敏な彼としてはこの時点で一橋派の敗北を直感し、幕引きを図ったのかもしれない。

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私的に大河ドラマで究極の「恐れ入ります」はやはり『篤姫』ひたすら壊れたディスクのように慶喜の責めを回避するさまはネタ的な意味と受け流すチャカポンさんの強靭な精神力を示す二重の意味で美味しいシーンであった(笑)

 

第2バトル 松平春嶽の場合

6月24日早朝春嶽は井伊家屋敷を訪問し、将軍後継を慶喜にするべきと直弼に訴えた。しかし、直弼は既に将軍継嗣問題については朝廷から幕府に一任されていること(正確には長野主膳らの工作でそう仕向けていた)を理由に断固拒否。白熱する両者の議論はだんだんと強硬になっていき、遂に登城刻限となったので退席しようとすると袴のすそをつかんで離さない。遂に「勝手にしろ!」付きまとう春嶽を追い払って登城したのである。

 

第3バトル 烈公の場合

そして江戸城に登城していた直弼を待っていたのは押しかけ登城した斉昭と息子の現水戸藩主・慶篤、そして尾張藩主・慶恕(慶勝)の有名な押しかけ登城であった。直弼や老中らはわざと対面を遅らせて、弁当も出さずに待ちぼうけを食らわした。そしていざ対面したとなると彼らのお粗末さが露呈する。

一同「違勅調印の件は大老か老中が上京するべきではないのか」

直弼「私たちもそう考えています。で、今それを協議している最中ですが、それが何か…」

一同「…」

それで終わりであった。続いて将軍継嗣問題では流石に父親の斉昭自身が主張できない立場であることから尾張慶恕が「慶喜を後継候補にすれば、朝廷からの怒りも解けるのではないか」と政治的取引をにおわせた。しかし直弼らは頑として「将軍の伺い済」であることを主張して終わり。更に斉昭はいきなり「越前(春嶽)を大老に据えるべき」と老中の間部詮勝に「二人大老ってものもどうですかね~」と軽く流されて終わりであった。結局、斉昭らはスゴスゴと引き上げて退出する羽目になったのである。

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この時、春嶽も一緒に登城していたのだが、巧みに分断されてしまっていた。彼は何とか粘っていたのだが、

老中・久世広周「そんなこと言われましても御三家の方々はもうお帰りですよ?残念ですが、異議を唱えられる権限をお持ちの御三家の方々は特に何も異を唱えることなくお帰りになられた以上はこの件はこれにて終了です。はい、残念!」
で結局のところ無駄骨に終わった春嶽はがっくり来てしまった。後年になって春嶽は斉昭のことをこう回想している。

春嶽「そういやあの時の烈公の態度はおかしかったな…違勅調印の件を責めようと協議していてもまるで反応なかったし…」

憂国の政治家と思われていた徳川斉昭という人物が実際には「息子を将軍にしたい」という我欲が行動原理で動いていたダメな野党的政治家に過ぎなかったことが露呈した瞬間であった。

それまでのブレーンの藤田東湖という補佐があればこそ「それらしく」見えていたものの彼を失ったことで、その本性を露呈してしまったのである。

松平春嶽「我々は烈公の親バカに騙されていた」

徳川慶喜「烈公がそもそも攘夷を唱えていたのは、改革をしたいために反対派を黙らせるための方便に過ぎなかったのさ。それが周りから絶賛されて、人気を得てしまったために本人も天狗になってその気になっていただけなのさ」

これらの評が事実かどうかはさておき、政敵の井伊家からならまだしも同盟相手や実の息子からすら冷たく切って捨てられる時点で斉昭という人物の政治家としての「人徳」を示すものである。結局、このような人物が盟主に据えてしまった時点で

一橋派は敗れるべくして敗れたのである。

 

直弼に対する誤解その③ 直弼の人間関係

井伊直弼というと「開明的」な賢侯たちと敵対関係にあったために頑迷固陋な保守派のように描かれがちである。しかし、これははっきり言うと誤解である。これから述べる以下の大名たちとの交流はそれを示すものである。

 

①会津藩主・松平容保の場合

井伊家と会津松平家の関係は深い。元々両家はかつて二代目井伊直孝が家光の補佐役として重きをなし、その後任が会津藩祖・保科正之であることから両者はいわば徳川幕府を守護する藩屏の兄弟分であったといえる。それは直弼の代にも変わらず、縁戚関係でもあり、同じ常溜という立場で常に共同歩調をとっていた。

 先代の容敬はかつて世子時代の直弼を親身になってサポートしてくれており、直弼自身も容敬を絶賛して畏敬の念を抱いていた。

井伊直弼「当今英雄の大将、実に感服しています!」

容敬が亡くなり、甥であり養子となった容保の代になってもそれは変わらない。十一歳になった容保が会津藩世子となったとき、それを祝う宴会に招待された時には

井伊直弼「何か自分も子持ちになった気分だ」(ジーン( ;∀;))

とまで述べている。実際両者は開国問題でも常に一緒に歩調を合わせ、将軍継嗣問題でも容保も紀州派に属していた。実は条約調印後の朝廷への派遣される幕府代表に一時、直弼が考えていたのは容保であったのである。この時、容保が上京していれば…それはまたどうなっていたかわからない。あるいは容保自身のその後の運命も変わっていたかもしれない。結局、若すぎるということで間部詮勝へと変更されるのであるが、いずれにせよ両家は親密さを示すものであった。

…直弼も容保も数年後の未来をまったく想像すらしていなかっただろう。徳川幕府を守護せんと誓った両家であるが、一方はその後、仕える徳川幕府に徹底的に冷遇され続け、ついには離反に追い込まれることになる。そして一方は「忠誠」を盾にされて過剰な負担を押し付けられ、やがて切り捨てられることになる…そして引き裂かれた両家はこの後二度と交わることなく、戊辰戦争では敵対関係となってしまうのである。

 

 

(彦根と会津は)あんなに一緒だったのに

維新にはもう違う色~

 

 

 

 

※『八重の桜』第4話より、茶会の場に招かれる容保のシーンは史実の両家の関係を踏まえた実に素晴らしい良質フィクションというべき場面である。ここで直弼から容保に教え諭された内容がやがて容保自身を動かす契機となったこと、。そしてそれはいずれ直弼を襲った理不尽な運命をも上回る悲劇が容保と会津藩に襲い掛かるフラグとなっていたこと。ストーリーとしても深みを増していた。

 

 

そしてなおかつこの時、榎木チャカポンさんのまるで慈父のような優しい笑顔はまさに史実を踏まえた素晴らしい井伊直弼描写であった。山本むつみ先生にはまこと感謝の言葉しか出てこない。ありがとなし!ありがとなし!

 

②佐賀藩主・鍋島直正の場合

また直弼は決して外様大名すべてを敵視していたわけではない。殊に雄藩の一つ、佐賀藩の鍋島直正とはことのほか親密であった。直弼自身も自らの心情を理解してくれるのは先の容保と直正、この二人をおいてほかない」というほどであった。先にある通り、海軍整備のために直弼も理解しており、直正が海軍基地整備のために当時幕府領であった天草諸島を佐賀藩に預けてほしいと直弼に訴えている。直弼自身もこれに前向きな回答をしており、両者は共同歩調をとっていた。ある時、直正の屋敷を訪問して非常に話で盛り上がり

井伊直弼「いや~あなたといる時間が本当に嬉しいっすわ。え、もう佐賀に帰るの?また早く江戸に来てね!何なら次に江戸に来るときは軍艦で来てもいいから!」

というほどであった。直弼の治世がもう少し長命であれば、こういうフレキシブルな面ももっと知られるはずなのに…と残念でならない。直弼が非命に斃れると直正は警戒して、以降慶喜からも政治参加のオファーの誘いをも拒絶して、以降の幕末日本政局には一歩引いた立場で傍観し、軍備充実に努める。そしてやがてその軍備が戊辰戦争で大きな役割を果たし、明治維新で重きをなすことになるのである。

またこの佐賀との関係は明治の世になってから重要な意味を持つことになる。

 

(後半へと続く…)