米内山明宏氏の訃報、驚きました。

ご子息の米内山尚人さん、陽子さんのtweetによると、1月29日正午に亡くなられたそうです。

70歳とのこと。早すぎますね…。

 

2022年11月19日(土)、中野区コミュニケーション教室で講師をされていたときにお会いしたのが最後になりました。

思えばこのとき杖をついて、やや歩きにくそうなご様子でした。また、お帰りの際に杖をなくした?と、探していたのも妙だなと思いました。どこかお身体に病気があったにしても、まだ70歳とお若いので、すぐに回復するだろうと思っていましたが…。

【感想】米田陽一・米内山明宏 ふたりのトークショー(中野区コミュニケーション教室)

https://ameblo.jp/bcs33/entry-12775607284.html

 

オガワがはじめてお会いしたのは94年頃。栃木で活動を始めてまもない頃に、米内山さんが小山にソロ公演に来られたときです。

当時のオガワは日本手話の理解が不十分だったので、お話の内容が全てわかったわけではないのですが、写像的でイメージしやすかったです。舌をベロベロしていたのが印象に残っています。当時から、「手話は言語」だとはっきりおっしゃっていました。

公演の後にお話する機会があり、「わかりやすかったです!」「手話は言語、本当にそうだと思います」とお伝えしたら、「手話は身振りではないとどうしてわかる?言語だというのはなぜ?」と強い目で問い返され、オガワ正直言って当惑しました。今思えば、おそらく初心者の理解不足をたしなめられたのでしょう。手話の理解が不十分なこと、見抜かれていたでしょう。もっと勉強せよという気持ちもおありだったのでは。

 

その後1995年5月頃、吉村伸さんの紹介でWPの仕事に誘われ、採用面接でお会いしました。

米内山さんはいくおーる編集長の立場で同席。強い目をされたイメージがあったので、ちと緊張しましたが、とてもにこやかにお迎えいただき、安心しました。オガワは当時栃木県小山市に住んでいたので、中野まで通えるのか?と聴かれたような気がします。はっきり覚えていませんが、無事面接をパス。

WPでは当初、中野2丁目のサンハイツ204号室で仕事していました。採用当時から上司でしたが、週に1,2回編集テーマ相談などの打ち合わせにくるくらいで、ふだんは会社にいませんでした。当時編集部はろうの童謡詩人・内垣吉央くんの他、中等度難聴のYさん、中途失聴のTさんの4人でしたが、会議ではスタッフ全員にわかりやすい手話で話され、米内山さんのいるところ、いつも笑いの花が咲いている印象でした。

米内山さんの手話が読み取れる!と妙な自信を持ってしまいましたが、その後日本ろう劇団の取材でトット文化館に行き、米田陽一さんに取材したとき、話が通じないのに愕然としました。特に固有名詞が全く読み取れなかったです。米田さんの側でも、オガワの手話?(栃木の同時法的手話)がわからなかったと、今でも会うたびにいじられますw 本格的な日本手話との出会いでした。

そこではじめて、米内山さんはオガワの拙い手話を読み取り、オガワにもわかるレベルの表現にして話してくれていたのか!と気づきました。そんなことは何も言わずに、自然に合わせてくれていました。相手によってコミュニケーション方法を変えることのできる人、細やかな気遣いのできる方なのだと感心し、また尊敬の念が高まりました。そこからオガワも、いつかは米内山さんのように相手に合わせたコミができるようになりたい!と、日本手話を学び始めました。

米内山さんは1996年、いくおーるイベントの中心となってさまざまなアイデアや企画を実施。特に手話弁論大会を企画、全国のろう・難聴青年に呼びかけたことで、砂田アトムくんや佐沢静枝さんという原石を世に出しました。99年には大澤豊さんと共同で、映画「アイ・ラブ・ユー」を監督され、ろう者俳優の忍足亜希子さんや砂田アトムくんを起用。わが国の商業映画では、ろう者として初めての映画監督でもありました。ろう者の生き方、あり方を力強く社会に示され、仲間に大きな勇気を与えてくれたと思います。

1998年頃に手話寺子屋を創設され、砂田アトムくんや數見陽子さん、河合祐三子さんと共に手話企画室米内山を立ち上げ、那須英彰さんや緒方レンさん、モンキー高野さん等もお招きしてRグループでの公演活動を始めるなど、WPの手話部門の中心的な立場にいました。もちろん本格的、高度な手話が要求される仕事ですので、オガワなどお呼びではありません。イキイキと活動されるみなさんを横目に、オガワはずっと目の下にクマを作りながらいくおーるの編集に努めていました。

その後いくおーる編集長は吉村伸氏、小川に代替わりし、米内山さんは編集部から離れられましたが、手話テーマのときは必ずといってよいほどご協力いただき、誌面記事内容に説得力を持たせてくれたので、大変ありがたい存在でした。

米内山さんなしでは、いくおーるのバランスは聞こえる人寄り、日本語寄りになっていたでしょう。

もちろんオガワも編集者として、ろう者の考え方を理解しバランスある記事を書くことに努めることができました。そうしたスタンスを教えてくれたのが、WPの手話部門であり、米内山さんなしには考えられませんでした。小山で強い目をされたことなど、すっかり忘れていました。

他にも1980年の日本ろう者劇団設立、2000年でしたか、明晴学園の立ち上げにも関わられるなど、多彩な活動をされていましたね!

ブラックなユーモアも大好きで、よくいじられましたw

当時メタボ気味だったオガワが、一緒の会社健診でダイエットの効果あって、初めて「普通」と診断され、飛び上がって喜んでいたら、「メタボ」の「ふつう」だな! とw

聴力測定室に入って自分で測定用ヘッドホンを付けて、「写真を撮ってくれ」とかw

おちゃめなおっさんでしたね!

2000年のオガワの結婚披露宴でも、すてきな(でも笑える)サインポエムを披露してくれました。

 

そのため2008年頃、経営不振のWPで、Rグループの解散とともに、米内山さんたちがWPから離れられたのは大変ショックでした。もちろん社長の中園夫妻の懸命の取り組みや仲間の理解があって、当事者の力を発揮する天国のような場を作れたのですが、経営はシビアです。オガワもいくおーるの売り上げ不振で2010年2月までで休刊、その後11月に解雇転職しています。

その後米内山さんご家族が杉並から中野に転居され、区内でまたご一緒に活動できたのは僥倖でした。昭枝さんともここからご一緒することが多くなりました。

2013年には中野区の聴覚障害者関係団体創立記念イベントをなかのゼロ大ホールで行い、黒柳徹子さんも来られる満員の盛況の中、「手話って何?」をテーマにシンポ。
聴覚障害者ソーシャルワーカー協会会長の矢野耕二さんを司会に、
中野区ゆかりの聴覚障害者、ろう協会長であり日本手話研究所委員でもある故・田中保明さん、
ろう協理事、日本ろう者劇団代表でもある米内山明宏さん、
当時筑波技術大学准教授、日本手話研究所委員の大杉豊さん、
難聴者の立場でオガワから、
それぞれ手話についての多様なあり方、考え方をお聞きできて
オガワ自身とても教えられるところの多いシンポジウムでした。

【行事】中野区聴覚障害者周年記念大会祝賀パーティー(2013/4/21)

https://ameblo.jp/bcs33/entry-11515663519.html

 

中野の聴覚障害関係団体の活動も、明宏さんご自身は次第に第一線から離れるようになり、お会いする機会が少なくなっていたのですが、冒頭の通り昨年11月、コミュニケーション教室でお会いして、お元気なご様子を見たばかりのように思っていたので、とても残念です。

 

ご自分の舞台活動を、よく「砂場遊び」だと言っていました。子どもと一緒だと。ご自身の力や好奇心を存分に発揮できる場面だったのでしょう。今頃は天上で寺山修司さんや過去の芸能人等を相手にコミの心配なく、存分に砂場遊びされているでしょうか。

オガワもRグループの皆さんが楽しんでいたご様子がずっと頭にあったのか、昨年秋からデフアクターズスクールに入り、演劇活動を見よう見まねで始めました。

 

 

11月にお会いしたときは、演劇の大先輩に対して恐れ多く、とてもスクールに通っているなどとはお話できずにいたのですが、いずれ見ていただくこともあるかな、と思っていた矢先に旅立たれました。オガワも砂場遊びをしていることをお話したら、また強い目で疑問をふっかけられたでしょうか。それともけちょんけちょんにいじってもらえたでしょうか。やっぱりお話しておけばよかったなあ、と残念です。

ご冥福をお祈りします。