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長野 久義 読売ジャイアンツ #7
Yomiuri Giants h-chono.jpg
2010年4月4日、マツダスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県三養基郡基山町
生年月日 1984年12月6日(28歳)
身長
体重 180 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 2009年 ドラフト1位
初出場 2010年3月26日
年俸 1億6,000万円(2013年)
経歴(括弧内は在籍年)
筑陽学園高等学校
日本大学
Honda
読売ジャイアンツ (2010 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
WBC 2013年
この表について[表示]
長野 久義(ちょうの ひさよし、1984年12月6日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(外野手)。
目次
1 経歴
1.1 小学校から高校時代まで
1.2 大学時代
1.3 Honda時代
1.4 巨人時代
2 選手としての特徴
2.1 打撃
2.2 守備・走塁
2.3 その他
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 年度別守備成績
3.3 タイトル
3.4 表彰
3.5 記録
3.6 背番号
3.7 登場曲
4 日本代表キャリア
5 著書
6 脚注
7 関連項目
経歴 [編集]
小学校から高校時代まで [編集]
佐賀県三養基郡基山町出身。佐賀県基山町立基山小学校1年生の時に地元の少年軟式野球チーム「基山バッファローズ」に入部。6年生時に主将を務める。基山中学校時代は九州硬式少年野球協会フレッシュリーグ所属の「筑紫野ドリームズ」に在籍。筑陽学園高校へ入学し、2002年の春季九州地区高校野球大会ベスト4進出。
大学時代 [編集]
プロの誘いはあったが、日本大学生産工学部マネジメント工学科へ進学、硬式野球部(東都大学野球連盟加盟)へ所属。2年次までは三塁手だったが、打撃力を生かすため、3年次となる2005年の東都大学野球春季1部リーグ戦から中堅手に転向。また、長野は外のスライダーを振る癖があったため、野球部の後輩にアドバイスを受けて、あえてホームベースから離れることになる。離れることにより、バットが届く球ならストライク、届かないならボールと見極めることで、弱点を克服した。
4年次となった2006年に急成長し、春季は12試合出場、打率.489(47打数23安打)、主将を務めた秋季は13試合出場、打率.404(52打数21安打)で1995年秋・1996年春の高須洋介(青学大)以来となる2季連続首位打者となり、ベストナインにも満票選出された。強肩・俊足を兼ね備え、プロの注目を浴びることとなった。同年秋の日米大学野球選手権、IBAFインターコンチネンタルカップ、2006年アジア競技大会に日本代表として出場。東都大学リーグ通算87試合出場、290打数85安打、打率.293、10本塁打、40打点。
同年秋のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受けたが、巨人への入団を熱望していたことから入団を拒否。
Honda時代 [編集]
2007年に本田技研工業へ入社。同社のノンプロチームHonda硬式野球部へ入部した。Hondaでは第62回JABA東京スポニチ大会で社会人デビュー。主に3番・右翼手としてチームのベスト4入りに貢献し、同大会で新人賞。また4月の第55回JABA静岡大会では準決勝で先制本塁打を放つ活躍が認められ、大会最優秀選手に選出された。
2008年、ドラフト会議で巨人以外に指名された場合はプロ入りせず会社に残留する意志を固めていた[1]が、巨人以外でも入団するとの情報を得ていた千葉ロッテマリーンズが2巡目で“強行”指名[2]。当日のボビー・バレンタインとの面会を拒否し[3][4]、11月25日の入団交渉後、12月3日に入団拒否を明らかにした。翌日にロッテ球団側に直接入団拒否を申し入れ、球団側も了承。Honda残留が決定し、2009年のドラフトで巨人の指名を待つこととなった。
2009年2月5日、巨人は長野にドラフト1位指名する方針を公表した。Hondaでは第80回都市対抗野球大会で打率.579(19打数11安打)の活躍で首位打者を獲得。チームを13年ぶりの優勝に導いた。10月29日のドラフト会議では巨人から確約通り単独1位で指名を受けた。ドラフト指名を2回拒否して3回目の指名を受けたのは、巨人の先輩に当たる岡本光(1982年に3回目の指名)以来となった。直後、原辰徳と対面し二岡智宏の移籍で空き番となっていた背番号「7」のユニフォームを手渡された。11月23日、契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1500万円(金額は推定)で契約合意[5]。同日、東京ドームで行われた「ジャイアンツファンフェスタ」で入団発表を行った。
巨人時代 [編集]
2010年
新人合同自主トレでは、柔軟性・持久力には課題を残す[6]ものの、マシン打撃で鋭い打球、外野守備練習で快足を披露し首脳陣から信頼を得る。オープン戦でも結果を残し、同期新人の土本恭平、市川友也と共に開幕一軍の切符を手にした。9月17日、不振からプロ入り初の二軍降格を経験するも、シーズン終盤には坂本勇人の不振で1番での先発出場を経験するなど、4番・5番を除く全打順での先発出場を経験し、最終的に1年目にして規定打席に到達、打率.288、19本塁打をマークした。19本塁打は高橋由伸と並び、巨人の新人では3位の記録。これにより2010年の新人王を獲得。巨人からは前々年の山口鉄也、前年の松本哲也に続き、3年連続の新人王誕生となった。
2011年
4月12日のヤクルト戦(宇部市野球場)で「6番・中堅手」として自身初の開幕スタメンに名を連ね、押本健彦から3点本塁打を含む5打数3安打5打点の活躍を見せる。その後も安定した成績を残し、7月14日の阪神戦では、前日の死球の影響でスタメンを外れたラミレスに代わり、巨人の第75代4番打者として先発出場を果たす。その試合でタイムリーを打つなど4番に入ってからも好調をキープし続け、ラミレスの復帰後も4番に入る試合もあった。そして、シーズン終盤にかけては、阪神のマートンと熾烈な首位打者争いを展開。最終戦である10月22日の横浜戦では、1点ビハインドの9回裏無死満塁の場面で山口俊からプロ野球史上8人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を記録し、首位打者を確定させた(巨人の入団2年目での首位打者獲得は、1959年の長嶋茂雄以来、52年ぶり3人目)。このサヨナラホームランでサヨナラ賞を受賞、またセ・リーグ通算1000本目の満塁本塁打となった。この年は統一球導入の影響により多くの選手が打率低下に苦しんだが、打率.316、17本塁打、OPS.847と好成績を収めた。また、自身初となるベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。
2012年
開幕戦は3番でスタートしたが、シーズン序盤に坂本と打順を交代し1番に抜擢された。春先から安定した活躍を見せ、7月にやや調子を落とすものの8月には復調し、最終的に2年連続となる打率3割を記録。また、20盗塁(リーグ2位)・出塁率.382(リーグ2位)、そして同僚の坂本勇人と並びセ・リーグ最多安打となる173安打を放ち、1番打者としての役割を存分に果たす活躍を見せた。この最多安打により、入団以来3年連続でタイトルを獲得。また、2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。ポストシーズンも絶好調で、クライマックスシリーズ初戦から、日本ハムとの日本シリーズで巨人が日本一を決めるまで全試合安打を記録。特に日本シリーズでは初回先頭打者本塁打[7]を含む2本塁打を放つなど攻守[8]にわたって活躍し、日本シリーズ優秀選手に選出された。
2013年
2月20日、WBC日本代表に正式に選ばれたことが発表された。
選手としての特徴 [編集]
打撃 [編集]
打席ではホームベースから離れて構える。これは外角のスライダーの見極めに難があったためで、Honda時代にコーチの助言で離れて立つようになった[9]。内角のボールは鋭く踏み込んで左方向に、外角は右方向にさばく広角打法を持ち味とする[10]。2011年までの通算の対左打率.275に対し対右打率.317と右打者ながら右投手に強く、特別苦手とする球種もない[11]。 稲葉篤紀は長野の右方向への流し打ちを絶賛している[要出典]。
守備・走塁 [編集]
50メートル5.8秒、一塁到達3.97秒の俊足を誇る[12]。守備では遠投120メートルの強肩を誇り[13]、2010年には右翼手と中堅手として起用されたが、右翼手ではUZR-4.9を喫し[14]、リーグの外野手中最多失策も記録するなど不安定な面も見られた。本人も1年目のシーズン後に「プロに入る前は守備と走塁はできるかなと思ってたけど、ダメでした。来シーズンはがんばります」と語っている[15]。翌2011年は主に中堅手として起用され、外野守備コーチの大西崇之と捕球・送球動作について毎試合前に確認を行い[16]、その甲斐もあってかゴールデングラブ賞を受賞。2012年は前半戦は中堅手、後半戦は右翼手としての出場が主となり、2年連続でゴールデングラブ賞に輝いた。
その他 [編集]
動体視力が良く、ルーキー時代の身体能力測定の「深視力」測定では「一流アスリートが100人やっても1回出るか出ないか」と言われている「誤差ゼロ」を2回計測した[17]
※ウィキペディアより抜粋
2013WBC Tシャツ発売予約開始
http://p.tl/U-vG
