西郷隆盛は橋本左内に案内されて、松平春嶽(松平慶永)の前に来て、島津斉彬から預かってきた手紙を渡し、その手紙を読んでいる松平春嶽の前に、西郷隆盛と橋本左内は座っている、
やがて、手紙を読み終わると、
松平春嶽は西郷隆盛に、「西郷とやら」と呼び、
西郷隆盛が、「はっ」と、返事をすると、
松平春嶽は、「西郷はよほど、島津どのに信頼されているようだの、必要がある時は存分に西郷を使ってくれても構わんと、書いてあったぞ」と、西郷隆盛に言った。
この頃、島津斉彬は、西郷隆盛の名前を世間に知ってもらうために、あちらこちらに紹介状を書いては、西郷隆盛に持たせて使いに出していた。
島津斉彬から松平春嶽に書いた手紙の内容は、やはり将軍継嗣問題で、
【京で運動をするのは必要だと思うが、それと並行して江戸でも、皆んなの同意を得るように努力することが必要ではないだろうか、
また、新しく老中首座になった堀田正睦は、口説き方によっては、一橋慶喜(徳川慶喜)卿の将軍継嗣に反対はしないだろうと思う、それで堀田正睦の説得と並行して、大奥の内側からも運動していく、大奥が反対するのには、それほどの理由も無いので、一橋慶喜卿だけでは無く、紀州家から推されている慶福様も、とりあえず認め、候補者2人で進めていくほうが、かえって得策ではないか?、
選考の条件を、今の非常時な時に適応できる、賢くて、年長なる人物に、しぼってゆけば当然、一橋慶喜卿に決まってゆくのではないか?,
それで、堀田正睦と蘭学の交わりのある幕医の戸塚清海(橋本左内が江戸へ出て来た時の蘭方医学の師の1人)を通して、堀田正睦を説得しては、どうだろうか?】と、いうような内容だった。

【橋本左内は、父が病気になった時、帰国して、その年の冬に父が死にます、それで家督を継いで藩医になり、
その1年後の安政元年(1854年)に藩の許可を得て江戸に出ます、
その時に江戸で、橋本左内が入門したのが戸塚清海で、他にも、坪井芳州、杉田成卿、
この3人から蘭方医学を学び、塩谷宕陰からは漢学を学びます、
そして、今年、安政2年(1855年)6月に帰国して、士分に取り立てられて医籍を離れ、書院番になって、11月にまた、学校制度を調べるために江戸へ出て来ているところへ西郷隆盛が訪ねて来ました」】、

手紙を読んで、松平春嶽は、戸塚清海に島津斉彬の考えを伝えるのを、西郷隆盛に行かせることにします、
松平春嶽は西郷隆盛に「では、西郷、頼んだぞ、戸塚どのに島津どのの思いを、しっかりと伝えてくれ」、
西郷隆盛は、平伏して「はい、わかりました」と、
返事をして部屋を出ようとすると、橋本左内も同じく平伏して、共に部屋を出た。
橋本左内は歩きながら、西郷隆盛に、「西郷さん、戸塚どのは、私が江戸へ初めて出て来た時に蘭学を教えてもらった師の1人です、私の事も、よろしくお伝えください」、
「そうでごわしたか、わかりもした、では行ってきもす」、
西郷隆盛は、そう言って屋敷を出て行き、橋本左内は見送っていた。

つづく。