西郷隆盛と橋本左内は、この日、初対面して、
西郷隆盛は、別れた後、自分より体の小さい橋本左内に言葉で主導権を握られたような気にもなっていたけど、
相手が橋本左内なら、何故か腹も立た無く尊敬のような気持ちがあって、
「我、同輩においては橋本左内に服す」と、呟いた。
西郷隆盛は、何年も後に、「自分の尊敬する人物が2人いる、1人は藤田東湖先生で、もう1人は橋本左内君、先輩としては藤田先生、同輩としては橋本君、啓豪されたことが多い」と、語っていたそうです、
そして、橋本左内は、初めて会った、西郷隆盛の事を、
燕趙悲歌(えんちょうひか)之士なりと、備忘録に書いたみたいです、
これは、唐の詩人銭起(せんき)の詩に、
燕趙悲歌の士
相違う劇孟の家
寸心言い尽さず
前路日将(ぜんろひまさ)に斜ならんとす
と言う、詩があるみたいです、
そして橋本左内は、15歳の時に、啓発録を書いています、その内容は、
一、稚気を去れ、子供じみた、あまったれた依頼心を去って、独立独歩の心をおこせ、
一、気を振え、何事にも、勇気を奮い起こしてあたれ、
一、志しを立てよ、
一、学に勉めよ、
一、交友を選べ、何かに、優れたところのある人物を友とし、意気地無しとは交わるな、の5項目を立てて、ひとつひとつに自戒の文章を書いた。
西郷隆盛と橋本左内が、一旦別れたところで、すみませんが、場面を変えたいと思います。

長州の久坂玄瑞は、吉田松陰が、野山獄に入っている頃に、九州旅行をします、
藩の医学校、好生館の寮に住んでいましたが、目の病気にかかり、でも自分で自分の目を治すということはできないので、藩から許可を得て筑前(福岡県)の名医の田原哲に診てもらいに行き治療を受けます、
そのついでに、せっかく九州へ来たのだからと九州旅行することに、
この頃の時代の学問とかしている人間の旅行は、人物とか歴史に関係あるところへ行くのが常でした、久坂玄瑞も、この先、自分の師となる吉田松陰のように、熊本へ行くと、宮部鼎蔵を訪ねます、
「お~、長州から、良く来てくれたばい」、
「いえ、筑前で田原先生に、目の治療をしてもらいまして、せっかく、ここまで来たのだから、良く名前の聞こえる、宮部先生に会いたいと思い来ました」、
「そうばいか、しかし、わしの名前なんか、そんなに聞くばいかのう」、
この後、久坂玄瑞は、宮部鼎蔵から、
この先、自分の師となる吉田松陰の名前を聞くことになります。

つづく。