久坂玄瑞は、肥後(熊本県)の宮部鼎蔵を尋ねて行き、2人は向かい合って、話をしていた。
「前にものう、そう、ペリーが来た頃たい、君と同じように長州から、吉田寅次郎(吉田松陰)君が尋ねて来た事があったばい、久坂君は吉田君の事を知っとるばいかのう?」、
「いえ、知りません」、
久坂玄瑞が知らないと答えると、宮部鼎蔵は、ため息をついて、
「世間とは、そういうものたいのう、藩外では高く評価されていても、同じ藩内では、知らない人間がいるばいのう」、
それから、宮部鼎蔵は久坂玄瑞に吉田松陰の事を話し出した。
その話が、吉田松陰が黒船に乗り込んで密航しようとしたことを話し始めた時に、
久坂玄瑞は、月性という周坊僧から、吉田松陰の事を聞いていたのを思い出した、
「思い出しました、前に同じ長州の僧から聞いた事があります」、
「そうか、そうだろう、吉田君の事を知っておる者は知っておるたい」、
宮部鼎蔵は、夜が明けるかと言うぐらいまで、吉田松陰の事を、久坂玄瑞に話し聞かせた。
次の日、久坂玄瑞は宮部鼎蔵の家を出て歩きながら、昨夜、宮部鼎蔵に怒鳴られてしまった事を思い出していた。
それは、吉田松陰が、いくつかの詩を書いて置いていった本を見せられ、その内容に感動して、感想を言ったが、
「もう少し、読み手に面白さを与えるのがあっても良いのではないでしょうか」と、いうようなことを言ったら、
宮部鼎蔵は「小僧、何か知る(何がわかるか)」、
宮部鼎蔵は、そう怒鳴ると、紙に志と書いて、
「志し(こころざし)、寅次郎の詩は、この志(し)たい、その志を変に技法で飾ろうとするのは、職業詩人の、することたい、寅次郎の詩は、心の震え、悶え、熱さ、が詩にこもっているたい、それに寅次郎は友人のためなら平気で死ねる男ばい、よく読んで考えて寅次郎という男を想像してみろ」、
久坂玄瑞は歩きながら考えた。
『他藩の、あのような豪傑な宮部先生に、あそこまで言わせて惚れさせる、吉田寅次郎という男は、どんな男なのだろう、今は野山獄に入っているらしいけど、いつか会いに尋ねて行ってみよう』と、
この先、久坂玄瑞は、吉田松陰の松下村塾に入ることになります、

では、これから、その吉田松陰の出獄から実家へ帰っている場面へと移りたいと思います。

吉田松陰1955年12月15日、藩名によって野山獄を出されて杉家に戻り、杉家で禁固という事になりました。
どうして藩名で出されたかというと、その時期、吉田松陰の山鹿流兵学の門下生達が藩庁へ何回も来て、
「自分達の兵学の受講は、途中で止まっている、だから、野山獄の吉田先生のところまで受けに行っても良いか」と、
言って来るので、藩庁内ではどうしようかという事になってきて、そして獄中での講義も、藩庁内では感心している者も多く、いっその事、出獄させて実家で講義をさせてはどうかという事になり、12月15日に出獄となります。

つづく。