どうして、西郷隆盛は橋本左内に書いてもらった手紙を篤姫に渡さなかったのか、
篤姫に渡したけど、篤姫が受け取らなかったのか?、それとも篤姫は、一旦受け取って読んで西郷隆盛に返したのか?、
それとも、西郷隆盛は親友になった橋本左内の手紙を手放す気になれずに渡さず、ずっと持ち続けていたのか?、
今、橋本左内は、その手紙を書いているけど、その手紙は、篤姫に渡される事無く、これから先、約20年、西郷隆盛は西南戦争で死ぬまで持ち続ける事になります、
もちろん橋本左内には、篤姫に手紙を渡して無い事を告げません、
そして、橋本左内は、この手紙を西郷隆盛が、まだ持っている事を知らずに、安政の大獄で刑死する事になります。
西郷隆盛は橋本左内が、この手紙を書き終わるまで側に座り続けていて、
書き終わると手紙を預かり帰りにつきます、
帰り道、西郷隆盛は、『橋本左内くんと、一緒になら、おいどんの命、投げ出せるでごわす』と、思っていた。
場面を、長州萩に変えます、
お詫びですが、この先、場面を変える事が多くなっていくだろうと思いますが、ご了承下さい、すみません。
吉田松陰が出獄した日の夜、吉田松陰が、これから自分の居間になる八畳一間の離れへ引き上げて行くと、
家族は、ヒソヒソと何やら吉田松陰の、たぶんこれからの事について話し合い出した。
この八畳一間の離れは、この先、松下村塾になります。
次の日、出獄2日目の夜、炉端の前に、吉田松陰、父親の杉百合之助、兄の杉梅太郎、叔父の玉木文乃進、従弟の彦介(玉木文乃進の息子)、婿の児玉佑之、外叔父の久保五郎左衛門が集まっていた。
吉田松陰は野山獄に入っている時、玉木文乃進の嫡男の彦介が元服式を迎えるので、何か祝おうと思い、士規七則(しきしちそく)を書いて送っていて、その事について玉木文乃進が、
「寅次郎、あの士規七則は、実に良かったぞ、それに寅次郎が野山獄で囚人達に講義した孟子の草稿も見たが、実に良かった」、
すると、父の百合之助も、「わしも、見たが、あの孟子の草稿は、書物にして残せば立派な孟子の教本になると思うぞ」、
続いて、兄の梅太郎も、「そうじゃ寅次郎、わしも、この孟子の草稿を、このままにしておくのは、惜しいとおもうぞ」、
久保五郎左衛門も、「わしも読んだが、あれは実に良い、面白い、世に出さずに置いて置くのが勿体無いぐらいだ」、
この久保五郎左衛門は、玉木文之進が開いていた松下村塾の寺子屋を、
玉木文之進が閉じた後、しばらくの間、久保五郎左衛門が引き継いでいました。
そして、もう少し先のほうで、この久保五郎左衛門が閉じて、そのままだった、
松下村塾の名前を吉田松陰が継ぐことになります。
その松下村塾を開いた時に、この久保五郎左衛門の息子の清太郎が、経営の事など、
吉田松陰の手伝いをします。
つづく。
篤姫に渡したけど、篤姫が受け取らなかったのか?、それとも篤姫は、一旦受け取って読んで西郷隆盛に返したのか?、
それとも、西郷隆盛は親友になった橋本左内の手紙を手放す気になれずに渡さず、ずっと持ち続けていたのか?、
今、橋本左内は、その手紙を書いているけど、その手紙は、篤姫に渡される事無く、これから先、約20年、西郷隆盛は西南戦争で死ぬまで持ち続ける事になります、
もちろん橋本左内には、篤姫に手紙を渡して無い事を告げません、
そして、橋本左内は、この手紙を西郷隆盛が、まだ持っている事を知らずに、安政の大獄で刑死する事になります。
西郷隆盛は橋本左内が、この手紙を書き終わるまで側に座り続けていて、
書き終わると手紙を預かり帰りにつきます、
帰り道、西郷隆盛は、『橋本左内くんと、一緒になら、おいどんの命、投げ出せるでごわす』と、思っていた。
場面を、長州萩に変えます、
お詫びですが、この先、場面を変える事が多くなっていくだろうと思いますが、ご了承下さい、すみません。
吉田松陰が出獄した日の夜、吉田松陰が、これから自分の居間になる八畳一間の離れへ引き上げて行くと、
家族は、ヒソヒソと何やら吉田松陰の、たぶんこれからの事について話し合い出した。
この八畳一間の離れは、この先、松下村塾になります。
次の日、出獄2日目の夜、炉端の前に、吉田松陰、父親の杉百合之助、兄の杉梅太郎、叔父の玉木文乃進、従弟の彦介(玉木文乃進の息子)、婿の児玉佑之、外叔父の久保五郎左衛門が集まっていた。
吉田松陰は野山獄に入っている時、玉木文乃進の嫡男の彦介が元服式を迎えるので、何か祝おうと思い、士規七則(しきしちそく)を書いて送っていて、その事について玉木文乃進が、
「寅次郎、あの士規七則は、実に良かったぞ、それに寅次郎が野山獄で囚人達に講義した孟子の草稿も見たが、実に良かった」、
すると、父の百合之助も、「わしも、見たが、あの孟子の草稿は、書物にして残せば立派な孟子の教本になると思うぞ」、
続いて、兄の梅太郎も、「そうじゃ寅次郎、わしも、この孟子の草稿を、このままにしておくのは、惜しいとおもうぞ」、
久保五郎左衛門も、「わしも読んだが、あれは実に良い、面白い、世に出さずに置いて置くのが勿体無いぐらいだ」、
この久保五郎左衛門は、玉木文之進が開いていた松下村塾の寺子屋を、
玉木文之進が閉じた後、しばらくの間、久保五郎左衛門が引き継いでいました。
そして、もう少し先のほうで、この久保五郎左衛門が閉じて、そのままだった、
松下村塾の名前を吉田松陰が継ぐことになります。
その松下村塾を開いた時に、この久保五郎左衛門の息子の清太郎が、経営の事など、
吉田松陰の手伝いをします。
つづく。