さて、神功皇后にまつわる神戸と西宮にある3つの神社について、創建にかかる由緒がほぼ同じであることについて、3つを比較しながら考えてみました。
現在の各神社の位置関係。河川によって運ばれた土砂の堆積や埋め立て事業などにより、当時と比べて海岸線が南に広がっていることが予想されるので、創建時はもっと海に近い場所であったと思います。
各神社にある創建の由緒は、日本書紀の記述とも関連しているようなので、それぞれの由緒と日本書紀に書かれていることを簡単にまとめてみます。
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三韓征伐からの帰途についた神功皇后一行は、忍熊王(仲哀天皇の皇子)が生まれたばかりの誉田別尊(応神天皇)を狙って、明石付近で待ち構えているとの情報を得た。
そこで、明石を回避すべく、淡路島と紀伊半島の間にある海峡(紀淡海峡)側を迂回して、難波を進むことになった。(その間忍熊王側は、トラブルにより明石を離れていました)
海峡にある紀伊水門(現:紀の川)に停泊した後、難波へと近づいた時に、船はぐるぐると回って前に進むことができなくなった。(日本書紀・廣田神社)※生田神社由緒では、神戸港付近で船が進まなくなったとあり、長田神社由緒では長田町の沖付近とさらに細かく場所が指定されているようです。
そこで兵庫の港へ向かい、ご神託を行った所、
・天照大御神からは、我が荒魂を皇居から離れた広田国に坐せよと言われた。
・稚日女尊からは、私は活田長峡国に坐したいと言われた。
・事代主尊からは、私を長田国に祀れと言われた。
・さらに住吉三神からは、我が和魂を大津の渟中倉の長峡(住吉大社もしくは神戸の本住吉神社の両説あるようです)へと座しめれば、往来する船を監視しようと言われた。
それぞれの神の教えのまま鎮座したところ、平穏に海をわたることができた。
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ということになります。
日本書紀などの記述を参考に、さきほどよりも大きめの地図で航海のルートをさぐってみます。
おそらくこのようなルートであったと思います。明石で海上を抑えられてしまった神功皇后一行は、それを避けて紀淡海峡(淡路島の東側、紀伊半島よりの海峡)を通ったと記述されていますので、おそらく淡路島の南側を通るルートだったと思います。ルートの前半には、鳴門海峡を通っていることにご注目ください。
大阪の住吉大社。こちらの神社も、兵庫の3社と同じ時のご神託により創建されたと、日本書紀に記述されています。
争いを避けるためとはいえ、淡路島の南側を通るルートというのは、非常に大回りで無駄が大きいルートのようにも見えます。
さて、ここで少し気がついたことがありました。生田神社や長田神社では、船が進まなくなったのが神戸港付近とされていて、日本書紀や廣田神社では、紀淡海峡から難波港へ向かう途中で船が進まなくなったとあります。
紀淡海峡から難波へ向かう途中、わざわざ神戸へ行くというのはよほど理由がないとならないのですが、前者ではその理由が見当たらず、後者ではその理由が明白です。
もし、生田神社や長田神社が言うように、神戸港付近で船が進まなくなったのが事実なら、明石海峡を通るルートではないと説明がつかないのです。
当時難波から瀬戸内海を通って、北部九州や中国大陸へ向かう場合は、神戸に立ち寄っていたことは無理なく予想できます。
ということは、生田神社や長田神社の由緒では、忍熊王が明石で待ち構えていなかった(もしくはそのことを神功皇后一行には伝わらなかったor忍熊王が明石からいなくなっていたことを知っていた)ので、そのまま明石海峡を通ってきたということになり、日本書紀や廣田神社の由緒では、明石を避けて淡路島の南側を通ってきたということになります。
なんと、同じような由緒を持つ神社でしたが、それぞれに伝わる話によって、神功皇后が三韓征伐からの帰途ルートが違うことになってしまいました。まさかこんなことになるとは、調べ始めるまでは予想していませんでした。
神功皇后のことについて調べるうち、残念ながら事前に調べた歴史解説書などで引っかかるものがなく、基本的には直接その神社に出向いて感じたことや、神社で紹介されている由緒、日本書紀の現代語訳などを参考にさせてもらいました。なので、本当に詳しい方からすれば、トンチンカンなことを書いてしまっているかもしれません。
実際に、歴史家の方の見解はどうなんでしょう。だんだん気になってきました。
あと、もうひとつ気になるのが、港付近で船がグルグルと回ってしまったという部分です。
船がグルグル、まるで渦潮のようですね。
淡路島の南側を通った場合、鳴門海峡を通っていることになると思いますが、鳴門海峡というとうずしおですね。
鳴門海峡を通ったという記述はないのですが、海峡や○○水道というような場所は海の構造が複雑である場合が多く、潮流が早く変化に富んでいて、船の難所と言われる場所が多いと聞いたことがあります。
難波の港付近は、古代から多くの船が利用していたと言われていて、よほど気象条件などが悪くなければ、船の航行にはそれほど支障があるとは思われず、船人も航海しなれた航路だったと思います。
一概には言い切れませんが、記述内容に情報の混乱が見られるということは無いでしょうか。
これという結論が見えているわけではないのですが、やはり元々はひとつのエピソードが、それぞれの地区などに伝説として伝わるときに、少しずつ話しが変わってしまったために、このような情報の混乱があったのではと思ってしまいました。
もう一回だけ続きます。