ここからさらに、もう少しだけ深く考えを掘り下げて見たいと思います。
今のところの考えでは、これらの神社は神功皇后の時代より古い可能性があるんではないかと思っています。
廣田神社と長田神社は、街中と比べて緩やかに高い場所にあり、そこから徐々に標高が高くなって、六甲山系の山々へとつながっていました。
生田神社は都会の中にあって、勾配の少ない平坦な場所にありましたが、遷宮される以前に元々あった場所は布引山の山麓にあって、すぐそばが山であったことがわかっています。
各神社の名称には、それぞれ田の文字がついていて、古くからの地名にしろ神社名にしても、そこが稲作を行う適地だったのではと思います。
灌漑技術がある程度確立していた時代とはいえ、山水が自然と流れてくる地形ならば、他と比べても周りには水田がたくさんあったのではないでしょうか。
また、3社に共通することとして、境内の末社に稲荷社があり、特に生田神社と長田神社は本殿以外で最も大きな社殿を持つのが、稲荷社の社殿でした。
稲荷社は農業の神様ですから、この地が稲作信仰と関係があるのではと考えます。
また、廣田神社には水分(みくまり)神社までありました。水分神社は、その名の通り水を分ける神様を祀っていますので、雨乞いや田の神様として、稲荷神よりも古い形の稲作信仰の神様ではなかったかと考えます。
もっとも、境内摂社や末社は、もともと居た神様である場合と、あとから勧請された神様である場合がありますので、確固たる証拠とは言いがたいのですが。
それらのことと、昨日の記事で推測した結果から、これらの神社は神功皇后が創建する以前から信仰を集める神社があったのではと推測しました。
・それぞれの神社では、古くから稲作信仰を基本にした古い神社が存在した。
・神功皇后により、神戸港付近で神様からの神託を受けて、神戸にある神社に神託があった神様を祀るよう、伝達された。
・ところが、神託に関する情報がそれぞれ伝わる過程で、なんらかの情報の混乱があった。
・経年ののち、それまでの神様から、新しい神様に主祭神が移り変わっていった。
という推測をしてみました。
もしかしたらですが、もともとはひとつの神社にだけ、神託があった神様を祀る予定が、3つにわかれてしまった可能性もあると思います。
一つの故事で、3つの神様から別々の場所が指定されるというのが、非常に難解というか不自然な気がするのです。
今回はこのへんで終わりますが、これらの神社については引き続き僕なりに調べてみて、新しい発見を探し続けてみたいと思います。

