発達障がいの元手相鑑定士BBAかおるちゃん。です。
今日のブログはちょっとおセンチです。
かつ、「死」というセンシティブな話題を取り扱っています。
読むかどうかの判断は、自己責任で、よろ~~~♡
昨日は朝から寺で、義父の新盆法要でした。
そのあとも、いろんな方が「お線香を…」とひっきりなしに来てくださった。
みなさん、義父のことを語って、笑って帰って行かれる。
こういうつながりも義父の残してくれた大きな財産だと思う。
義父はびっくりするくらい、周囲の人に愛されていた人だった。
亡くなったあとに、それがわかった。
突然亡くなったので、亡くなったときは誰に連絡していいかもわからない状態だったけど、葬儀にもたくさんの方が来てくれた。SNSなんか使わなくても、みなさん勝手に連絡をしてくださり、予想よりたくさんの方が貴重な時間を割いて、葬儀にきてくださった。
「頑張れよ」って肩をたたいてくださる方も居て、もうほんと、ありがたかった。
この家に嫁に来て、ほんとによかったなぁと思った。
ちなみに、私のお義父さんに対する最初の挨拶は「ふつつかすぎる嫁ですけど、よろしくお願いします」だった。それからも遊びに行くたびに、お小遣いをくれた。
私は、旦那の実家に居ても朝は普通に目が覚めるまで寝てるんだけど、こんなマジでふつつかすぎる嫁を、まるで孫のようにかわいがってくれた。
私は、お義父さんが大好きだった。
お義父さんはある晴れた冬の日に、突然逝った。
誰も予測してなかった。
多分、本人ですら。
しかし、完璧な死に際だった。
完全に完璧だった。
なぜか、その3か月前に、私は話の流れで銀行口座の暗証番号を聞いていたし、
1人暮らしの義父は「1人で死ぬのが嫌」って言ってたけど、仕事中に倒れたから、すぐ見つけてもらえたし、ビビりで痛いの嫌いだったから、痛みを感じる間もなく逝けたし、葬儀の日は寒かったけどすごい天気よかったし、遺産も見事に葬儀代ぴったり(笑)で、兄弟喧嘩もなかったし。
完全に完璧だった。
何回考えても、これ以上の死に際はないと思えるほど、完璧だった。
どうでもいいけど、その年の正月、私はなぜかエド・シーランの「SuperMarket Flowers」っていうおばあちゃんが亡くなる曲にハマっていた。
なぜかすげぇ悲しくなって、1人でその曲聴きながら散歩して、道端で泣いてたんだよねぇ。(怪しいw)
あのときは、お義父さんがこんなに早くいなくなるなんて思ってなかった。
思ってなかったけど、きっと私の中の魂的な何かは、知っていたんだと思う。
ってことで、人生は一度きりなんだ。
あなたがあなたで居られるのは、今だけ。
誰にでも平等に死は訪れる。
しかも、必ず。
そして、死は自分ではコントロールができない。
(死のうとしても死ねないんだ、死ぬタイミングじゃないときは、な)
誰にだって、今すぐ死ぬ可能性がある。
(死ぬ可能性ゼロとは言い切れないであろう?)
そう考えると、今生きていることも、明日生きられることも、奇跡なんじゃないかという気すらしてくる。
人生で起こることにいい悪いはない。
本当に、そんなもの、ないんだ。
人間が勝手な判断基準で「これはいいこと」「これは悪いこと」と規定しているに過ぎない。
(ぶっちゃけ、今日はいい日、とかあんまり好きじゃない。だって、いい日があるってことは相対的に悪い日ができちゃうから。誰が決めたんだよ、いいとか悪いとか、って思う。)
そんな、常識と呼ばれる、文化とか時代とかによって変わるあいまいな基準に振り回されて、自分の人生を生きられてないんだとしたら。
だとしても、人生にいい悪いはないから、問題はない。
ただ、自分はそれで満足なのかっていう話なだけ。
ただ、誰でもない、あなたの人生は、それで満足なのか?っていう話だ。
よろしいのか?それで。
私は、よろしくないw
だから、常識なんかに振り回されずに、自分を生ききろうと思う。
ただ、それだけでしあわせな気がする。
ただ、自分で居るだけで、私はしあわせなんだ。
お盆ぽい話題でした♡ポエムーーーw
聞いてくれてありがとね。
おわり。
