密なる華に生きる空海 その8
「五大皆有響 十界具言語
六塵悉文字 法身是実相」
『声字義』
「五大に皆響き有り
十界に言語を具す
六塵に悉く文字あり
法身は是れ実相なり」
その言葉は、単なるコミュニケーション・
ツールとしての言葉でたはなく、言葉の
発露をもたらす根源的な根拠、言葉が
誕生する未発の瞬間。
そして言葉を放つときの声、その声は言葉
の意味を剥離すれば、音声すなわち響となる。
空海は、その未発の言葉とその響の中
に分け入って、世界認識の核心を突いた。
それが真言である。
我ら一般人は、言葉を得てから、言葉を
繋ぎ合わせて、物事を概念化する。
その概念を抽象化することによって、
宇宙を含めた世界認識に至る。
ということは、宇宙を含めた世界を、
言葉の枠に封じ込め、その概念の
他に世界は無いとする偏った世界
認識しか得ていないということだ。
我々が親しんでいる近代の科学的
合理的思考は、その最もたるものだが、
言葉による「世界」認識は、空海の時代
でも常識だった。
ただその「世界」の中身は、現代とは
相当な違いはあるが。
だから空海は、言葉そのものを問題視
したのだ。
言葉を超越した、宇宙を含む世界の真理と
本質を捉えようとしたのだ。
空海の時代に「宗教」という言葉は無い。
我々が考えている「宗教」は、明治になって
西洋のreligionを和製漢語化したものだ。
古来、日本では「道」とか「法」で宗教を表し
ていた。
当然、西洋の「宗教」とは意味合いが異なって
いただろう。
それは、「日本」とか「国」とかについても、
今とは全く異なった意味合いを持っていた
だろう。
本題に戻るが、仏教においては、
「因分可説、果分不可説」として、
原因(修行過程)は説明できるが、
結果(真理)は言葉では表現でき
ないという立場がある。
しかし、密教においては、逆の立場
に立つ。
空海は他宗派に対して「「果分可説」
(真理は言葉と文字で表せる)と断言
した。
その真意には、空海の声字(言葉と文字)に
対する独自の深遠なる見解があったのだ。
この続きは、充電が必要となりますので、
暫く休憩いたします(苦笑)。
後日につづく。
密なる華に生きる空海 その7
空海(774年〈宝亀5年〉- 835年〈承和2年))が
俗名である佐伯 眞魚(まお)として過ごした
少年・青年時代は、奈良時代から平安時代
への移行期。
仏教は、朝鮮半島や中国大陸から
空海が生まれる200年以上前に公式
伝来している。
公式伝来以前に、様々なルートで
日本に仏教は伝わっている。
仏教より早くに伝来した儒教や
道教も同じだろう。
そして、それらは全て漢文で
伝わっている。
当時の日本には公式な文字が
無かった時代だ。
漢字を借用した万葉仮名があったが、
和字としての平仮名・片仮名は無かっ
た時代。
仏教の読経時にボーカリゼーションを
漢音にするか呉音にするかもまだ定着
していなかったといわれる時代。
言葉(言霊)を専門とする佐伯一族に
生まれた空海が、母語である日本語
が揺動きわまりない状態にあったことに
敏感に反応したことは間違いない。
唐語(当時の漢字文)は完璧にマスターし、
梵字や梵語にまで食指を伸ばしていた
空海である。
ではあるが、言葉(言霊)を操る血筋は、
言葉(言霊)の発音の背後に存在する
空気や「場」にこそ関心を持ったのだろう。
今風に言えば、言語発生学。
空海は、全てにおいて物事の
本源に迫って、その本質から
物事の正体を突き詰める
思考に秀でていたと思われる。
だから、物事の本質を問わず、表面的な
仏典・論語・漢詩などの記憶やおざなりな
解釈を押し付ける大学の授業に嫌気が
さし、独自に真理探究の道を歩み始めた
のでしょう。
そして、大学では教えない仏典に
触れたり、山林修行での体験を
通じて、
24歳の時に儒教・道教・仏教の
比較思想論でもある『聾瞽指帰』
(『三教指帰』)を著している。
このレーゼ・ドラマである『聾瞽指帰』
(『三教指帰』)の中で、仏教の教えが
儒教・道教・仏教の三教の中で最善で
あることが示されていると同時に、仏僧
として生きる決意を宣言しているのである。
つづく。
密なる華に生きる空海 その6
佐伯 眞魚(さえき の まお)。
空海の俗名。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入る。
大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、
尚書などを学ぶ。
大学寮とは、律令制のもとで作られた式部省
(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育
成機関。
官僚の候補生である学生に対する教育と試験及
び儒教における重要儀式である釋奠(せきてん・
しゃくてん)を行った。
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず
19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったと
されている。
つまりは、大学寮をドロップアウトしたのだ。
空海には二つの謎の知られざる
期間がある。
ひとつは眞魚(まお)から空海という
僧名に変わっていく期間で、大学寮
をドロップアウトしてから、29歳の時
に私度僧として遣唐使船に乗り込む
約10年間。
もうひとつは、国に定められた20年の
留学期間を僅か2年で帰国という
ルール違反を犯し、大同元年(806年)
10月、博多津に帰着。
それから、朝廷による入京の許可を
得るまでの約4年間。
この2つの期間が、謎の期間と
されているが、
入唐求法中の2年間の
空海の具体的な活動
も謎に包まれている部分
が多い。
青年空海が京で学んでいた時代は、
奈良時代から平安時代への移行期
にあたっている。
まだ関東以北は、先住民蝦夷の
反乱が多発し、京の政権による
日本統一は道半ばの時代。
仏教は、空海が生まれる200年も前には
日本に公式伝来している。
儒教は、その前から伝来している。
そして道教も。
それらは全て漢文として伝来して
いる。
つづく。
密なる華に生きる空海 その5
空海の父は、讃岐国多度郡(現在の香川県)
郡司・佐伯直田公善通、母は同じくこの地の
氏族阿刀家の出の安斗智徳の娘の玉依御前。
阿古屋御前という説もある。
父の一族である四国讃岐の佐伯氏は、
古代から言葉の力(言霊)を扱う信仰や
技術と深いつながりを持っていたとされ
る一族。
そう、空海はその生まれからして
言語に長けた一族の血を引いて
いたのです。
その血筋が「真言」にまで高められた
と言って良いかも知れません。
更に、もうひとつ、空海の生まれ持った
言語の才能を育て上げた人物がいます。
桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師で
あった母方の叔父である阿刀大足です。
不思議にも父善通の実弟であり
後に朝廷の官学者として空海の指南役
になる阿刀大足は阿古屋の妹と結婚し
て阿刀家を継ぎ、両家は兄弟姉妹が
重縁の関係にあったのです。
空海は、叔父の大足について文章と
詩を勉強したと述懐しています。
15才で奈良の都に上り大学寮に入学
するまでの3年間、真魚は大足の館や
中央佐伯氏の氏寺佐伯院などに止宿
しながら大足に漢籍・詩文を徹底して
仕込まれたといいます。
この辺りの事情に詳しい松岡正剛氏の
「千夜千冊」から長くなるが以下を引用
します。
「そのころの入学試験は旬試と歳試があって、
「読」と「講」に分かれていた。
「読」ではテキストの文字1000字ごとの
3字が隠されて出題され、それを回答し
なければならず、「講」では2000字ごと
に口頭試問にこたえなければならない。
明経科の博士筆頭(大学頭)は岡田牛養
だった。同じ讃岐寒川の出身だった牛養は
空海に目をかける。
直講の味酒浄成も五経の一部始終をたた
きこもうとした。
しかしこれらは、すでに叔父の阿刀大足
などから十分に教わっていたこと、空海は
これをなんなくこなし、論語・孝経・礼記・
春秋左氏伝そのほか9科目をマスターする。
あっというまのことだったろう。
ところが空海はそうしたテキストに正直
に感応したというよりも、実はそこに付与
されている「註」にこそ関心をもつ。
久木幸男の『大学寮と古代儒教』によると、
そのころの大学のテキストは『春秋左氏伝』
をのぞいて、すべて鄭玄(じょうげん)の註を
つかっていた。
鄭玄とは何者か。
空海は鄭玄の比較と折衷をめぐる
方法論に惹かれ、そのグラマトロジー
(文字の学)に没頭した。
ところで、明経科の授業につかわれた
テキストのようなものを儒教的な「経書」
というのだが、空海はそれ以外の道教的
な「緯書」をも読み尽くそうとしたふしがある。
正典とは認められていないテキストというこ
とで、神仙タオイズムや陰陽タオイズムに
関する雑多な漢籍が多かった。
すでに日本では吉備真備のような陰陽道
の研究者も出ていて、藤原仲麻呂は陰陽
寮を太史局と改称して、国家重大事を緯書
によって記録し判定するという視点を導入
していた。
空海はこのような流れも逃さなかったのだ。
この天才には最初から、インサイダーの思想
とアウトサイダーの思想の両方を必ず点検し
ていくというバランスが備わっていたというべ
きだろう。
緯書を読み、タオイズムに関心をもった
のはそのせいだ。
そして、そのようなバランス探求の姿勢
こそが早々の「密教発見」につながった
のである。」
つづく。









































































