フランツ・ウェルザー=メスト ウィーン・フィル ブルックナー「交響曲第5番」  | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

1123日、サントリーホール)

 ワーグナー「ワルキューレの騎行」を思わせるメスト&ウィーン・フィルの壮大な金管の祭典に埋め尽くされたブルックナー「交響曲第5番」。ステージ最後列に一列に並んだ金管群がこれでもか、とばかりに鳴らしまくる。そのブラスの咆哮は第4楽章終結部で頂点を迎えた。

 

 今年3月に聴いたヤープ・ヴァン・ズヴェーデン&ニューヨーク・フィルのマーラーの感想を引用すれば、『ブルックナーはどこにいたのだろう?』

 

 これほど感動の少ないブルックナーも珍しい。特に第2楽章アダージョには失望した。第2主題があまりにも軽く底が浅い。なぜこの深々とした旋律をもっと幅広く深く歌わせないのか?休止の後の同じ主題の再現も表情が少ない。この交響曲の中で最も美しい部分、星空の彼方に神の存在を信じても良いと思わせる感動的な旋律なのだが、単なる音響に終わっていた。

 

 この時点で、メスト&ウィーン・フィルに深いものを求めるのはあきらめた。ウィーン・フィルの素晴らしい金管、木管、弦の響きだけに集中しよう、と第3楽章スケルツォから聴き方を変えた。

 エンタテインメントとしてとらえれば、なかなか楽しいものがあった。スケルツォ主部の中間部とトリオでウィーン郊外の田舎を想像し、第4楽章は「金管交響曲」と思って、ウィーン・フィルの輝かしい金管群を堪能した。

 

 ブルックナーに求めるものは人によって異なる。事実メスト&ウィーン・フィルへのブラヴォは怒涛のように盛大だった。

 

メストがタクトを下すまで静寂が保たれたのはとてもよかった。最近読んだ「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」(ユリヤ・スピノーラ(聞き手)/力武京子訳、樋口隆一監修。アルテスパブリッシング刊)にあるブロムシュテットが演奏後の静寂について述べた言葉を思い出した。


『それは祈りの雰囲気に似たものがあります。いまブラームスが語った。ひょっとすると神様が何かを語られたのかもしれない。よく聴かないといけない。』

 

メストはウィーン・フィルとの演奏を通して、ブルックナーの何を語ろうとしたのだろうか?