ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 イザベル・ファウスト | ベイのコンサート日記

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音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

1015日、サントリーホール)

 先週の東京オペラシティに続き、10月の東響のヨーロッパツアー(10/22クロアチア・ザグレブ、10/24オーストリア・ウィーン、10/27ドイツ・ドルトムント)で演奏されるプログラム。

 

 前半はイザベル・ファウストを迎えて、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。コントラバスはウィーン・フィル風に舞台正面奥に5台並ぶ。トランペットはナチュラルトランペット、ティンパニはバロックティンパニ、ヴァイオリンは対向配置。

 

 ファウストが素晴らしかった。彼女の一人舞台と言ってもいいくらい、常に音楽の中心にいた。絹糸のように繊細で美しく磨き抜かれた音。高音の伸びが滑らか。また、スティールのように強靭な線が芯にある。ボウイングは滑らかで、どのフレーズも音楽的。
 第1楽章のカデンツァは、ベートーヴェンがこの曲をピアノ協奏曲に編曲したさいつけたものを使用、ティンパニとともに弾くのがユニークだ。ファウストの録音でよく聴く版でもある。

 演奏の頂点は、第2楽章ラルゲットの第3変奏が終わったあと、「独奏ヴァイオリンはG線とD線で演奏しなさい」とベートーヴェンが指示したカンタービレの旋律とその変奏だった。天国的に美しく、空から何かが舞い降りてくるのを感じた。

 

 東京交響楽団は、弦楽器セクションとファゴットが良かったが、それ以外の木管や金管、ティンパニはもっとファウストに合わせるような繊細さ、細やかなニュアンスと表情がほしい。せっかくの高貴なヴァイオリンが生かされない。

 ファウストのアンコールは、ベートーヴェンが生まれた年に亡くなったルイ=ガブリエル・ギユマンの「無伴奏ヴァイオリンのためのアミュズマン 作品18」。その第7曲「タンボリーノ」だと思う。なにせ30曲からなる作品なので、記憶があやふや。サントリーホールの告知にも第何曲かまでは書いてなかった。間違いであればご教示ください。

 

 後半のショスタコーヴィチの交響曲第10番は、完成途上という印象を持った。ノットなら、切れ味鋭く、現代風にスマートにまとめあげるのでは、と予想していたが、おおむねそのような演奏だったと思う。

 

 良かったところは、第1楽章結尾部の緊張を保った静謐さ。特に低弦と木管の演奏。続いて疾風怒濤の、第2楽章アレグロが集中力に富んでいた。

 

 一方、第1楽章展開部のクライマックス(練習番号40から)は、パワー不足を感じてしまう。厚み、奥行き、ボリューム感が少ない。同じことは、第3楽章の第3部、速度を速めていき、ショスタコーヴィチのイニシャルD-Es-C-Hの音が何度も激情的に繰り返される部分でも感じた。この楽章では幾度となく出るホルンのソロ、ショスタコーヴィチの教え子エリミーラ・ナジーロヴァのイニシャルE-A-E-D-Aは頭の音がつっかかってばかりで、不満を感じた。

ただ、 第4楽章のクライマックスの、再びD-Es-C-Hの音で断ち切られるところは、迫力をもっていた。

 

 東京交響楽団は、弦楽器群はチェロが良いが、ヴァイオリン、ヴィオラは強奏になると音が薄く感じる。木管もソロだと良いが、全体としてまとまってパワーを出そうとすると、平板になる。金管ももっと厚みが必要だと思われる。 武満、ドビュッシー、ブラームスまでならまだしも、ショスタコーヴィチとなるとやはり、重層的な音の厚みは必要だと思う。

欧米のオーケストラと対抗するために日本のオーケストラが必要とされる条件の壁は、まだ厚いことを感じたコンサートだった。