【乱読NO.186】「ラッセルのパラドクス 世界を読み換える哲学」三浦俊彦(著)(岩波新書) | D.GRAY-MANの趣味ブログ

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[ 内容 ]
「この犬は、吠える」「犬は、吠える」、どちらかが間違っている?
簡単なパズルから、常識をつきくずす過激な論理の超絶技巧へ。
「世界で最も難解な数学書を書いた哲学者」ラッセルは、パンドラの箱ともいうべきこのパラドクスから、異形の思弁の群れを現代に解き放った。
新たな世界への扉を開く、論理学ファン必読の1冊!

[ 目次 ]
はじめに
I 〈反-常識〉の形而上学
第1章 ラッセル哲学の輪郭
第2章 「世界は一つ」ではない?
II 世界を解き放つ
第3章 数学を矛盾から救うには?
第4章 多重世界こそ現実だった?
第5章 階層の中にまた別の階層が?
III 世界を読み換える
第6章 日常言語は信頼できるのか?
第7章 知が世界につながるためには?
IV 世界を組み直す
第8章 分析には終わりがある?
第9章 心と脳は同じものなのか?

[ 発見(気づき) ]
哲学者バートランド・ラッセルの入門書。

ラッセルは「プリンキア・マテマティカ」の中で、次の条件を満たす「理想言語」の必要性を述べている。

・名前としては、世界に確実に実在するとわかっているものの名前だけを含む

・個々の名前はただひとつのものだけを指す

・実在するものの間に成り立つ関係を表わす語が、名と名を結びつける。つまり、世界の 論理構造をそのまま反映する

私たちが日常使う言葉には「世界に確実に実在するもの」以外の虚構の対象が入り混じっている。

そのようなニセの指示句をラッセルは「不完全記号」と呼んだ。

不完全記号は言葉の多義性を含んでいるが、それゆえに、話がわかりやすくなったり、簡潔に言うことができる長所がある。

ラッセルは不完全記号の使用も認めつつ、いざというとき、不完全記号を解体し、真の名前、つまり実在する対象を一義的に指す名だけからなる表現に変換できることを担保するために、日常言語に換わる人工的な理想言語を構想した。

「世界に確実に実在するもの」とは、より小さな構成要素を持たない単純者のことである。自らの存在を他の構成要素に依存していないため、実在する確かさが最大である単純者の名だけを使うことで、厳密に意味を確定できる言語を模索したことになる。

[ 教訓 ]
この本では「犬」が例でよくでてくる。

個々の犬はもちろん実在する。

個々の犬(タイプ0)の集合を一つ上の階層(タイプ1)まとめる名前に「セントバーナード」、「柴犬」、「ドーベルマン」などの犬の集合がある。

さらに上の階層(タイプ2)には「犬種」という集合の集合がある。

ラッセルのタイプ理論は、実在するものをすべてこうして階層化する。

この階層は、個々の犬の持つ属性(吠える、四本足、しっぽがある、など)が、個々の犬という構成要素よりも、上位に位置する集合になる。理想言語的には、階層(タイプ)の位置関係は厳密に区別されねばならない。

だから、

1 犬は、吠える

2 この犬は、吠える

という2つの文章があったとき、厳密な理想言語的解釈では、2は下位のタイプ(この犬)の述語として「吠える」という上位のタイプが使われているから、意味が特定できる。

しかし、1は、一般名詞としての「犬」と「吠える」は共に集合であり、タイプ1であるため、意味を成さなくなる。

タイプ理論では、主語より述語は高階になければならない。

これでは述語が不完全記号になっている。

しかし、誰が読んでも1は日常言語としては意味が通る。

そこでラッセルは記述理論によって、本来あるべき隠れた文章を補い、不完全記号を解体して意味を確定する方法を編み出した。

1は「いかなるXについても、もしXが犬であるナラバ、Xは吠えるものである」が本来の意味であり、日常言語では省略して「犬は吠える」と言っている、とフレーズを足すことで論理的にも意味が一つに確定できるようにした。

[ 一言 ]
こうしてみると、1は主語述語ではなく述語述語であったことになる。

タイプとは別にオーダーという系列もある。

「ナポレオンは、偉大な将軍に必要な属性をすべて持っていた」という例が挙げられている。

その属性とは勇敢であり好色であり、頑健であり慎重であったりする。

無数に属性を列挙できるがその中には「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」という属性も仮定できる。

自己言及が含まれると状況は複雑になる。

タイプ1 勇敢、好色、頑健、慎重

タイプ2 偉大な将軍に必要な属性

という階層があることになる。

タイプ1の述語としてタイプ2がある。

しかし「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」は「偉大な将軍に必要な属性」に含められない非述語的な属性である。

そこで、これをオーダーという別次元の系列とし、述語同士のもうひとつの階層関係と定義した(分岐タイプ理論)要素の集合と階層を扱うタイプ理論だが、集合のややこしい問題に「自分自身の要素でない集合の、集合」がある。

「あなたが今日考えたものの集合」という場合、無数の考えたものに加えて「あなたが今日考えたものの集合」自体が含まれる。

これは自分自身を要素とする集合である。

逆には自分自身を要素としない集合がある。

「自分自身を要素とする」「自分自身を要素としない」は曖昧ではないので、「自分自身の要素でない集合である」ものは必然的に決まる。

そうなれば「自分自身の要素でない集合、の集合」が考えられることになる。

だが、「自分自身の要素でない集合の、集合」とはなんだろうか。

定義自体が矛盾しているようにも読めるが、これを考えた時期のラッセルは言語的に意味をなす表現は必ず指示対象を持つと考えていた。

実在するにも関わらず、意味が特定できないものが、厳密な論理の果てにうまれてしまう。

これがラッセルのパラドクスである。

自己言及を禁止することで、一応はこのパラドクスを回避できることはわかっている。

だが、自己言及の禁止によって、扱えなくなる問題が数多くある短所があることなどがこの本に詳細に説明されていた。

私の理解はまだまだ怪しいが、ラッセルは論理的に非常識を扱う風で興味深い。

もっともっと知りたくなる好奇心を書き立てられた入門書であった。

[ 読了した日 ]
2007年5月17日