D.GRAY-MANの趣味ブログ

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ココチよさって私らしく暮らすこと ~読書と音楽と映画と・・・Plain Living and High Thinking~

本日は、お越しくださり、ありがとうございます。

自分の得た知識・経験・体験・スキルなどを興味の趣くまま提供する趣味ブログです。

自分の好き嫌い・得手不得手・趣味に、少しでも共感頂けて、つながっていけることを楽しみに待っています、ね(^^)

【自己紹介】
https://profile.ameba.jp/me

【趣味ブログの標語】
「真剣にやれよ!仕事じゃねぇんだぞ!」by タモリ

【関連サイト】
<ノート>
固定観念や社会の物差しに捉われることなく、まずは自分(being)、それから自分のやるべきこと(doing)を考えて、発想の転換や内面的・本質的な成長を促していくテーマを決めて書いていこうかなって考えています。
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<インスタグラム>
「日日是好日-暮らしの歳時記フォトアルバム」
「写真と言葉はひとつ」と題して、お気に入りの写真に言葉を添えて、投稿しています(^^)
https://www.instagram.com/bax36410/

<ブクログ>
大人の本棚「こどもごころ」(只今、本&映画&音楽&ゲーム等セレクト中♪)
一冊の本からは、人生と同じように無数の道筋が次なる本に向かって伸びています。
その道のひとつ、または複数を選択して未知の本と巡り会える、そんな自分の好きな本(に音楽と映画をプラス)を、好きなだけ置いた、理想の本棚&“素の自分”に戻れる大人のための秘密基地♪
https://booklog.jp/users/trafalgar

何かあったとき、一番考えたいことは実は、「私がこれから本当にどうしたいか」ということなのではないかなと思います。

「すべての人は堅くガードされた「心の変化の扉」を持っており、その扉は自分で中からしか開けられない。説得や感情に訴えることによっても、その扉を他人が外から開くことはできない。」マリリン・ファーガソン(社会心理学者)

説得され義務的にすることと、自分から自発的にすることは、全く違う意味を持つため、人からどう言われたかではなく、自分がどうしたいかを考えてみることで、自発的にしたくなるような、きっかけになることを見つけてみることがポイントではないでしょうか?

人生という物語の「主人公」は自分であり、また、人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなないけど、自分がどうしたいかを考えなくては、人から見てどう思われるかの人生になってしまうので注意してくださいね。

人と比べてどうかではなく、自分がどうしたいかを考えていく。

自分と価値観の違う他人の目を気にせずに、自分の本心で動いていてみる。

たとえば、人に傷つけられた、裏切られた、なんていうとき。

そのとき、じゃあ、私はどうしたいの?と自分に聞いて自分で決めて実行しているのが大切。

また自分で決めていいのです。

裏切られたままでいいのか、傷つけられたままでいいのか。

それとも、これを機に何をするか。

ここでは、傷つけられたから、裏切られたから相手にも同じことを、というような復讐は避けたいものです。

ついそう思いたくなりますが。

それをやると自分が疲れちゃうでしょ。

復讐は抜きにして、つまり、裏切られた、傷つけられた、と感じ続けるのかどうか、です。

「人に裏切られたり、中傷されたりとかあるじゃないですか。でも同じ土俵に上がりたくないから、断固忘れてしまうんです。」宮本信子(女優)

相手と同じ目線になるかどうかは、状況によって変えなくてはいけないと思うから、自分は違うレベルにいると考えて、嫌なことは忘れるようにしてみませんか?

相手にされたことで、自分を見失わないように注意しないと、ね。

他のオプションとしては、意識的に、裏切られた・傷つけられたけれど、ここから何かを学んで次に生かそう、とか。

また、何が自分にとってプラスに動くか、ときにわからないことってないですか?

もしかしたらこの裏切られたこと、傷ついたことで何かが変わるのかも、とか。

もうそのことではなく、他のことに気を回そう、エネルギーを向けよう、とか。

ときに、済んでしまっていてどうにもならないから考えるのをやめる、考えないようにするしかない、見方を変えるしかない、というようなときもあるのです。

でないと、裏切られた、と打ちのめされたままの状態を続けていくことになってしまいますよね。

裏切られると、なぜ裏切られたのか、私の何が悪かったのか、何をしたらよかったのか、と考えて落ち込みます。

これがまた、答えが出てこないことのほうが多いし、とくに気分が良くならないのです。

自分の精神によくないことなら、やめたらいいのです。

「人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。」ショーペンハウアー(哲学者)

困難に直面することは、どんな人でも避けられないことだし、必ずいつか起きることだから、上手くいかないことや挫折はいつか起きるという前提で、前に進んでいきたいものです。

そこをどう乗り越えていけるのかが、その人の成長の証にもなるのだから、この際考えないほうがいい。

でも、考えないようにすると余計に考えてしまうのであえて「考えない」とするのではなくて別なフォーカスを作る、他の何かに打ち込む。

このサイクルが一番良いのかもしれません。

となると、傷つけられた、裏切られた、どうしてなんで?と過去のことではなく、これから私はどうしていきたいか?どうしたいか?と、今と未来のことにエネルギーを向けるのがベスト。

今現在のパワー、とは、このあたりにも出てくるのですね。

いつでも、自分の感情を選ぶのも自分、傷つけられた、裏切られた、と感じるかどうかも選択するのは自分、と思ってみてください。

人間は案外強い生き物で、傷ついたと思っても案外傷ついていないときもけっこうあります。

逆もあるかもしれませんが、逆なら被害は意外に少なくてすみます。

でも、傷ついた、裏切られた、と受身で思っているとなんとなくそんな気分に余計になってきてしまいます。

ここは、受身にならずにいくこと。

誰も私を傷つけないし、裏切らない、そんなことはさせない、そんなことが起きても、あえてそう思わない選択をしよう、と心に決めておくと、そうなります。

それに、傷つく、裏切られるかもという不安も減る。

自分以外、自分をより深く傷つけることはできない、という言葉を聞いたことがありますが、こちらが真実かも。

「社会が自分を裏切ったから自分はだめになった、などと言うのは口実に過ぎない。自分の教育に責任があるのは、まず自分であり、最終的に自分である。」曽野綾子(作家)

そう、例え理由がどうであれ、最終的に影響を受けるのは自分自身で、他人ではないし、自分のことだと認識しなければ、責任転嫁するだけで、根本的解決にはならないから、どんなことでも、他人のせいではなく、自分自身の問題だと自覚するようにしていきたいものですね。

私って、どういうところが良いんだろう?と考えたことはありますか?

どんな人にも個性はあり、その人の良さがあり、能力はあるものです。

着目する点が的外れだと、その才能に気が付かないままで終わってしまうから、良いか悪いかではなく、他の人とは違う何かがあるかに着目しみることをおすすめします。

私のいいところ、私の魅力とは?と自分で考えてスラスラとリストのようになって出てくる人はとくに日本人では少ないように感じます。

もちろん、すらすら出てくる人もいますし、海外でも、全然出てこない人たちもいっぱいいますから、個人差ではありますが。

自分で良いところ、魅力のあるところが何か、それがあまり出てこないなら、身近な人に聞いてみてください。

自分でわかっているとしても、聞いてみましょう。

そうですねぇ、少なくとも、30人くらいに聞いてみるといいですよ。

できるなら、50人に聞いてみると、必ず発見があります。

どの人も必ずひとつ以上は「ここがいいと思う」と答えてくれますから、臆することなく聞いてみてくだい。

ホント!だから、確かめてみて!

外見に始まり、心や精神的なこと、単純なこと、自分では気づいていないこと、思ってもいなかったこと、など、嬉しくなってくることがあるはずです。

わかっていることでも、周りから言ってもらえたら再確認もできます。

自分の魅力や良いところを自覚できたらそれをさらに伸ばして、上手に使えるようになりましょう。

人は、自分の欠点や悪いところ、またはないものを見て、それをなんとかしようと奮闘するもの。

もちろん、この精神も大事だし、必要なときもあります。

ないものだから欲しくなったりもしますし、欲しいからこそ努力できることもありますね。

が、いわゆる欠点、弱みにとらわれて、自分の良いところ、魅力に気づかないでいる、見ないでいるのは、もったいないと思いませんか?

私は弱みや欠点でさえ、見方や考え方をひっくり返せば強みになったり長所にも出来たりするので、弱み・欠点という表現はあまりしないようにしています。

自分にいいところがある、魅力がある、と自覚できることは嬉しいことだし、それだけで気分がよくなりますから。

「嬉しくなってくる」「気分がいい」ことが、私たちの精神にどれだけいいか、というと、計り知れないです。

その気持ちがあるだけで、世の中は明るいし、そうなってくると、何かに取り組むこともできるし努力も楽しくなってきたり。

逆に世の中はつらいもの、暗いものと見えたらどうせがんばったって・・・・・・と、落ち込んでやる気もでなくなってきます。

だから、ないものを求めての努力も素晴らしいけれどあるもの、すでにある魅力を磨けたら、もっと楽しいと考えるのです。

それに、良いところもそれほどそうでもないところも、すべてひっくるめて個性というか、人間というか。

だからこそ面白いし、楽しいし、お互いに学び合えて助け合えて、補い合えます。

いずれにしても人は一人じゃ生きていけないものですし。

それに、得手不得手があって当たり前です。

何でも得意、なんて人は本当にいません。

欠点を補って余りあるような魅力を育てたら、私にはコレがある、という軸のひとつ、また自信にもなってくれるでしょう。

人間的な魅力は、すぐに効率よく手にできるものではなく、時間と経験が必要になります。

年月をかけてしたことや、無駄と思えることにも、それなりの価値があるのだから、いろんなことを経験することで、考え方に深みが持てるようになってくると思います。

「望みどおりの幸福を得られなかった過去を否定して、自分のために、それを変えていこうという希望こそ、
蘇生した人間のもつ魅力なのである。」アンドレ・モーロア(作家)

自分の意志で変化することを意識しなければ、ずっと過去を引きずることになりますよね。

過去がどうであれ、これからどうするかを考えれば、どこからでも再出発できるにだから、過去がどうだったかにこだわらず、これからどうするかに目を向けていきませんか?

そう、明日には一つだけかけがえのない魅力があって、それは、まだ来ていないということ。

明日どうなるかという結果は、いま何をするかというきっかけづくりや予防など今の行いにかかっているから、明日が楽しみになるように、いま動いていかないと、ね。

まだ来ていない明日は、いまの行動次第で変えていくことができるので、ぜひ、自分の持っている魅力をもっともっと知って、さらに磨いてください。

ないものは磨けないけれど、あるものなら磨けます。

「勝利の要因に才能や素質は確かにあるけど、九十九パーセントは意志と努力だと思う。じゃないと、夢もへったくれもないじゃないですか。」片山右京(レーシングドライバー)

生まれ持ったものを人と比較しても、それ自体は変わるものではないから、何を絶対に達成したいのか、そのために全力で何をするのかを考えてみる。

人に比べて足りない、劣っているなら、その分いまから努力すればよいだけです。

確かに、努力するって、やっぱり大変と思うことも多いですが、同じ努力でも、ぜーんぜん苦じゃないことってありますよね。

あなたには、これやるのは苦じゃない、むしろこれならけっこう楽しみながらやれる、というものはありませんか?

それに意識を向けてみると、もしかして自分がやるべきことというか、そんなヒントがあるかもしれません。

やりたいことがわからない場合には、自分の好奇心や興味ももちろんのこと、こんな風に人から見ると大変でも、本人はなんとも思わない、というようなことにも、何かがあるように思いませんか?

たとえば、走ること。

人によっては、走るの大好き、だから走るトレーニングは楽しんでできる、という人。

同じように身体を動かすことなんかもそうですね。

または、数字と向き合うことだったり、人と話すことだったり。

ものを書くことや、本を読むこと、細かい作業、などなど。

いろいろと、「私、こういうのやるの好き」なんてこと、突き詰めて考えれば、どの人にもひとつやふたつ、あるはずです。

同じことなら、こうした苦にならない、意志で持ってしっかり引き締めていかないとできないことよりも自然と自分が動けることのほうが、努力も苦労も明るいし、楽です。

結局は、自分が好きなことや、情熱が傾けられる、ということがひとつの要素になってきます。

そういえば、テノール歌手のパバロッティもこんなことを言っていたのをご存知ですか?

"People think I'm disciplined. It is not discipline. It is devotion. There is a great difference."

人は僕をよく 努力家というけれど、そうではない。

これは情熱。

大きな違いがある。

disciplined とは、努力家と一言で片付けるよりも、自分でコントロールして努力できる意志がある、とか、しつけられている、統制がとれている、などという意味です。

devotion とは、情熱や献身的愛情、何かに打ち込んでそれが自分の一部となるような傾け方、というとわかりやすいでしょうか。

意志の力で努力する、というよりも、彼にとっては歌が自分の一部、愛情の一部、情熱の一部で、やらねばならない努力という位置づけではない、ということですね。

同じ努力でも、やら「ねばならない」努力よりも、やりたい努力のほうが、楽しそうです。

だから努力が必要な場面なら、何をどう工夫したら自分で「これならやりたい」と思えるか、がポイントです。

工夫の対象は、考え方や見方かもしれないし、やり方そのものかもしれないし、結果に対する思い入れの確認だったり。

いずれにしても、自分がこれなら、と思う努力ができたら自然と結果もついてきそうです。

この情熱に関して、先人達も、こんなことを言っていましたね。

「歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。」サミュエル・ウルマン(詩人)

「人生は情熱によらなければ勝負できない事ばかりだ。」ハズリット(エッセイスト)

「四十や五十はもちろん、七十、八十になっても情熱を燃やさなきゃ。」中村天風(思想家)

「天才の秘密は子供の時の精神を大人になっても持ち続けられるということだ。つまり、それは自分の情熱を失わないということである。」オルダス・ハクスリー(作家)

「ほんとうの腹底から出たものでなければ、人を心から動かすことは断じてできない。」ゲーテ(詩人)

向上心がなくなってしまうと、そこから先は衰退していくしかありません。

本心から成し遂げたいと思うことでなければ、義務的なことではやる気は出ないはずです。

無意識のうちに、もう遅いとか、もう無理だと、自分であきらめていることも多いのではないでしょうか?

大人になりいろんな経験を重ねると、現実的に悲観的になりがちになってる時ってありますよね。

心底思っていることでなければ、他人に限らず自らも動かすことは難しいよね。

では、どうすればよいのか?

例えば、こんな質問を自分自身に向けて問うてみてどうでしょう。

これからどんなことをしていきたいですか?

どんなことをイメージしている時、ワクワクした気持ちになりますか?

どんなことを目指していますか?

子供の時にどんなことを考えていましたか?

どんなときに本気になり、パワー全開になりますか?

その質問のひとつの解として、以下の様な考え方に辿り着くこともあるかもしれません。

①何かを目標として、そこに到達したいという気持ちを持ち続けてみる。

②年齢に応じた向上心を持ち続けることで、心を健康な状態に維持していく。

③情熱的になれることが見つかれば、知識や技術は、後からでも自然とついてくるはず。

④イメージしてるだけで、楽しくなり期待できることに、焦点を当てよる。

⑤何かを期待して、そうなりたいと思えることを、常に持ち続けみる。

⑥できるできないに関わらず、何か目指すことを持ち、そこに意識を注いでみる。

⑦いま自分が話し、行動していることは、どれだけ本気なのかを考えてみる。

どれだけ熱中できて、情熱的になれるのかがパワーの源になってくるから、自分の可能性を狭めることで、見えるものも見えなくなってしまう前に、以上の様に、自分の気持ちに正直に、何をしたいか、目指したいかを、もう一度考えてみてはいかがでしょうか?

ところで、人によって器用さが裏目に出たりすることもあるかもしれません。

たとえば、やれと言われることはきちんとこなせるし、人より上手にもできるけれど、これが私のやりたい努力じゃない、という場合もあります。

器用な方に多いのがこれ。

オールラウンドで大体のことはできちゃうために、自分のできることが広がって、自分の情熱をどこに傾けるのか、見えにくくなってしまうことも。

その場合は、できることに目を向けるよりもできるできないは別にして、これなら楽しい、これが興味がある、というところから始めてみるのがいいでしょう。

いずれにしても、同じ努力なら、やらなければいけない努力よりも自分がやりたい努力を目指したいですね。

「もし十分な時間をかけ、努力を怠らなければ、望んでいることはすべて実現できる。」ヘレン・ケラー(教育家)

基本的なことが確実にできていなければ、何事も達成することはできません。

上手くいかないと悩む前に、やるべきことを実行しているかチェックしてみてください。

自分がやりたい努力に、時間をかけてやるべきことをする、ということを確実に実行していきたいですね。

今の自分には無理でも、いつかは、と思っていることは何ですか?

今は無理、と言われていることでも、将来は可能かも、と思うことっていっぱいあります。

病気の治療法や科学の進歩など、そうですよね。

これは、今無理だから将来も無理、と言う方程式が成り立たないことともいえます。

今ハッピーじゃないから、将来もハッピーじゃないとは限らない。

今ネガティブだからといって、未来も同じとは限りません。

今は振り向いてももらえないことももしかしたら時代が変われば、ブームになっているかも。

今、何か思うようにいかないことがあっても、いつまでもそうとは限らないのです。

時代は変わり、時間が経てば、物事はひっくり返っていることがあるかもしれません。

周りもそうだし、自分自身も同じです。

今までを振り返っても、明白のはず。

だから、もし、自分が変われない、やっぱり思う通りにはいかない、などと思うのなら、そんなことはないはず、と思ってみることから始めてみてはどうでしょう。

変化には抵抗もあるし、ときに時間がかかることもありますが、大きな流れで見れば、変化のないものはほとんどないのです。

今の不可能はいつか可能になる可能性があります。

「人生が可能性に満ちているのは、常に耐えがたいほど不確定のため、つまり次に何が起こるかわからないからである。」アーシュラ・K・ル・グウィン(作家)

今までとは変わらない視野と思考では、そこから変化は起きにくいですよね。

ピンチだと思えることも、そこから視点を変えれば、新たな可能性が見えてくるはずだから、不安定で不確かな時こそ、新たな可能性が生まれると考えてみてください、ね。

そういえば、美の基準も変われば、道徳観や倫理観でさえ、時代とともに変わります。

食べ物の嗜好や、何が身体にいいかも変わります。

もちろん、善はよい、真実には力がある、愛など変わらないものもあるけれど、時代や場所が変われば、物事は変わります。

私たちも同じ。

変わらない部分は確かにあるし、同じでありたい部分もあります。

そうした軸の部分はキープして、周りの変化には流されず飲み込まれず、柔軟に対応して、自分の思う方向へマイペースを持って進みたいもの。

過去・現在イコール未来ではなく、今私たちが考えることややることの積み重ねが確実に未来を作ります。

「「不可能」の反対語は「可能」ではない。「挑戦」だ。」ジャッキー・ロビンソン(黒人初のメジャーリーガー)

思い切ってチャレンジしなければ、可能性は広がっていかないから、リスクとプレッシャはあるかもしれないが、チャレンジすることで自ら未来を切り開いていけるって、そう考えてみる。

そう思うと、今この時間もおろそかにできなくなってきそうです。

チャレンジ精神は、成長と充実感の源になります。

いつか可能にしたいと思うことについて、少しずつでも何かアクションを起こしたいですね。

生きることの愉しさとは、どこにあるのでしょうか?

ニーチェはかつて、「人間は重要なことについては、つねに原因と結果を取り違える」と道破しました。

ご賢察の通り、ある種の問いに答えが出ないのは、しばしば、私たちが原因と結果を取り違えているせいです。

だから、天才は解答不能な難問に立ち向かうときに、とりあえず話を逆にしてみるという技術を駆使しました。

大切なのは「結果」じゃなくて、その「道のり」をどんなふうに歩いているか、ということ。

例えば、歩くことを楽しんでいればどんな結果でも、「結果オーライ」になる。

笑顔で歩いている人はどこに辿りついても、結果笑顔になる。

だから、近道をさがすよりも、早く歩くことばかりを考えるよりも、歩いている今、ここを楽しめる人であることが重要です。

結果は一つの点にすぎないけれど、そこに至る日々は、ながいながい一本の線であり、無数の分岐点が存在しています。

人生のほとんどの時間は、道のりなんですよね。

では、生きることの意味は何か?という問いに答えるのが難しいのは、答えが無数にあって収拾がつかないからです。

このことについて内田樹は、以下のように述べていました。

人間は限られた時間、限られた空間のうちに封じ込められ、一度壊れたら二度と旧に復することがなく、一度失ったら二度と出会えないものに囲まれています。

人間をめぐる事象のすべては不可逆的に失われていきます。

しかし、すべては消滅し、私たちは必ず死ぬという事実そのものが実は人間の幸福を基礎づけているのです。

人間は死ねるから幸福なんですね。

それを、ちゃんと認識しておく必要があると思います。

私たちが愛するすべてのものは、壊れ、失われ、消え去ることを宿命づけられています。

私たちがなめらから肌や緑の黒髪や明眸皓歯を愛でるのは、それが加齢とともに確実に失われていくからです。

私たちが貨幣を集めたがるのは、できるだけ劇的な仕方でそれを蕩尽するためです。

私たちが情報を求めるのは、それを効果的に手放すためです。

およそ私たちが価値ありとするすべてのものは、それを失いつつあるときに、まさにそれが、失われつつあるがゆえに無上の愉悦をもたらすように構造化されているのです。

だから、私たちが欲望するものは、それを安定的持続的に確保することが不可能なものに限られます。

例えば、私たちは、永遠じゃないことを知るたびに、もっと、優しくなりたいと思うし、なろうと思うことがあったと思います。

どんなに、大好きな人でも、どんなに、大切な人でも、いつか必ず、別れはおとずれるものです。

さよならまでの時間は、永遠じゃない。

それは、あたりまえすぎて、ふだんは、あまり深く考えないことだったりします。

だけど、だからこそ、今日という日は大事。

今という時間は大事。

一緒に積み重ねてゆく明日も大事。

私たちは、いくつものさよならを繰り返しながら、永遠じゃないことを、確かめながら、もっと、ずっと、さらに、やさしい人になりたい、と願い、やさしい人になろう、と心に約束をしています。

いつかの、やさしいさよならのために。

だから、生きることの意味についても同じことが言えるかもしれない。

私たちが美貌や健康を重んじるのは、それがいずれ失われることが確実だからです。

私たちが己の生命をいとおしむのは、それがこの瞬間も一秒一秒失われていることを私たちが熟知しているからです。

私たちの人生はある意味で一種の物語として展開しています。

私はいわば私という物語の読者でもあります。

読者が本を読むように、私は私という物語を読んでいます。

すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片がほんとうい意味していることは読者には分らないんですよね。

というのは、どんな出来事であれ、それがどんな出来事であるかを言うためには、その出来事が終わった時点にまで想像上の針を進めなければならないからです。

私たちは今起きつつある私の人生という物語を、すでに読み終えた私、つまり、ナレーションの語り手としての私を想定し、その私の物語を読み終えた私が今起きつつある出来事にリアリティとしての厚みや深みをそのつど賦与するという、時間の順逆が狂ったかたちで生きています。

私の物語を読み終えた私というのは、言い換えれば、死んだ後の私ということです。

私の今ここにおけるリアリティの厚さと深さと熱を担保しているのは、死んだ後の私という視座なんですよね。

今生きつつある人間関係がどれほど複雑で、どれほどものごとの現れが錯綜していても、起きつつある事件がどれほど不可解でも、死んだ後の私を想定しうる私にとって、それは生きる経験の愉悦を増しこそすれ、それを滅殺するものではありません。

むしろ話が複雑になり、混乱が深まるほどに、私という物語を読み終えたときに立っている視座から一望俯瞰される風景の宏大さに対する期待が私たちの中で高まるのです。

仕事も恋愛も結婚も遊びも・・・・・・前を向いて、快活に、いろいろあるけど、バリバリとやっていこうじゃないかと思えないところに、この時代のしんどさがあります。

では、どうしてそこがしんどいのはそもそもなぜなのか?

それは、簡潔に言えば、未来がないから。

言い換えるならば、死んだ後の自分というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからです。

今の私たちに足りないものがあるとすれば、生きる意欲ではなく、実は死への覚悟なのだと思います。

生きることの意味が身に沁みてこないのは、死ぬことの意味について考える習慣を失ってしまったからなんですよね。

自分の命を粗末にする人、ほとんど死んだような無気力な生活をしている人、何事にも無関心を装う人などなど・・・・・・

けれども、それは、死んでいるのではなく、自分を殺しているだけ。

自分を殺すのと死ぬこととは、天と地との差があるのだと思います。

自分を殺す人間は、殺した後も無傷で生き延びるつもりでいるのでしょう。

自分の身体が消えたあとまで、自分の運命の支配者にとどまるつもりでいます。

死ぬというのは、そんな人間の全性能が終わった、さらに先の話しなんですよね。

今一度、私たちが、自分の人生に対して、生きることの愉しさを感じるためにも、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことができるのかを、繰り返し、繰り返し、想像することであり、困難な想像ではあるけれど、今、この場での自分の「今」人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力で得られた現実なのだと思います。

であれば、人生の愉しみとは、可能な限り深く味わうことに帰着してきます。

なるようになるし、ならないようにはならないんですね。

さあ、この先どうなるか。

基本的には、各自が自分に善いことだけをする、自分さえ善ければいいという構えを崩さなければ、何があっても大丈夫だと、池田晶子は言っています。

他人や社会を気にしない、惑わされないということです。

おそらく、多くの人々は、人生の価値を生活の安定に求めているのかもしれません。

「先が見えない不安」とは、人々の口癖でもあります。

そんなのは今に始まったことではないんですよね。

人は、生まれた限り、死ぬものであり、その間にいろんな目に遭う。

それが人生というものです。

そうでしょう?

であれば、なんで在るんだかわからないこの奇跡的な存在、つまり人生を可能な限り深く味わってみたいという気持ちを持ってればいいと思いませんか?

これをまた裏返すと、そんなに気張らなくてもいいのかなとも言えるわけですが、べつにいいんでしょうねぇ、なんでも。

そう、なんでも同じじゃないか・・・・・・まあ、面白いですね、人生があるということは。

命=時間!

時間を使うことは命を使うこと。

大切な時間を、自分のためだけでなく人のために使えれば、もっと潤いのある人生に変わっていくかもしれませんよ。