【乱読NO.149】「ゲーム理論を読みとく 戦略的理性の批判」竹田茂夫(著)(ちくま新書) | D.GRAY-MANの趣味ブログ

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[ 内容 ]
数学と物理学の天才フォン・ノイマンや映画「ビューティフル・マインド」で話題を呼んだジョン・ナッシュが創始したゲーム理論は、社会のどの分野でも見られる協調と対立の現象を数学的モデルで厳密に分析することを目指し、ビジネスの現場から国家戦略まで多くの分野で影響力を発揮してきた。
しかしそうした考え方は大きな壁にぶつかっている。
いまや現代社会科学の支配的パラダイムにまでなりつつある「戦略的思考」のエッセンスと広がりを描くと同時に、そこから脱出する道をさぐる。

[ 目次 ]
第1章 囚人の罠、ゲーム理論の罠
第2章 計算する独房の理性
第3章 冷戦とゲーム理論
第4章 心の均衡
第5章 交渉と対話
第6章 進化ゲームと制度
第7章 遊びの破壊力
第8章 暴力の連続体

[ 発見(気づき) ]
最近の経済学、とくにミクロの分野ではゲーム理論の手法がさかんに利用され、これを学ばずして論文は書けないくらいである。
このような環境にあって、本書が出版された。
副題にあるとおり、ゲーム理論への批判の書である。
その内容は、たしかに的を射た部分もあった。
かつてのゲーム理論はこの本にあるように、狂信的あるいは理想的な環境を考えて理論を発展させてきたのかもしれない。
少なくとも90年代前半までのゲーム理論はこの批判を受け容れざるをえないであろう。
しかし、最近の理論的発展には目をみはるものがある。
それは、ゲーム理論が新たな発展段階を迎えたといってもいい現象である。
残念ながら、この批判本には、そのことに触れていない。

[ 教訓 ]
著者によれば、本書の目的はゲーム理論の解説、解剖、批判にあるという。
しか
し、副題からも分かるように本書の眼目はゲーム理論批判にあると言ってよいであろ
う。
著者は《人間の行動や社会制度を解明する道具としてみると、ゲーム理論は核心部分に重大な問題を抱えており、社会現象の分析や政策への性急な応用は重大な失敗を招く危険性がある》という。
なぜならゲーム理論は、(1)主体が疑いを残さず明確に定義でき、(2)外界の観察や相互観察以外の本当のコミュニケーションが不可能で、(3)行為が意思決定(計算)に還元可能で、(4)行為とその結果の連関が明確につかめるような場合のみ、有意味となるからだ。逆に言えば、(1)主体の形成・分裂、(2)コミュニケーション(相互行為の網の目)、(3)創発的行為(ことば、暴力、遊びなど、それ自体で意味を持つような種類の行為)、(4)意図せざる結果や見えざる関連などを取り込もうとするとゲーム理論の枠組みはもろくも崩れてしまう。
本書は上記のことを、囚人のジレンマ、ゲーム理論の国際関係論への応用、進化ゲームなどを例に論証する。
私も巷に溢れるゲーム理論の応用例には首を傾げることが多い。
例えば、数理社会学を専門とする数土直紀『自由という服従』(光文社新書、2005年)を見ると、サッカー日本代表におけるトルシエと中田英寿・中村俊輔との関係や、自由恋愛がゲーム理論で説明されている。
しかしこの説明は現実離れしていてまったく説得力がない。
根底には「人間は意識していくなくても利害計算を行なっているはずだ」という意識が数土直紀にはあるのだが、本当に人間はそんなに合理的なのか疑問であるし、条件が余りにも限定され過ぎていて現実を恣意的に切り取っている感は否めない。
こういう例を見ると、ゲーム理論を何にでも適用するのは不適切だということが分かる。そういう意味では本書のように、ゲーム理論の限界を示してくれる本は歓迎できる。
ただし、本書のスタンスがゲーム理論否定にあるのか、ゲーム理論批判にあるのかはっきりせず、それによって本書の評価も変わりそうだ。
もし前者であれば、それは強すぎるであろう。
すべての理論は単純さを求める。
すべての理論は何某かを切り捨てているのであり、その「単純さ」が批判対象となりうる。
しかしだからといって、その「単純さ」をもって理論を否定していたら理論などというものは成り立たなくなってしまう。
問題は、「単純」な理論がどのような場合に現実をよりよく説明し、どのような場合にそうでないかをどれだけ明確に示せるかである。
つまり、「之れを知るを之れを知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知る也」。
このように、ゲーム理論で説明できることとできないことの線引きを試みるのは後者である。
もし著者が後者を意図しているのだとすれば是としたい。
しかしどうも前者の意図も少し入っているかなという懸念もなくはない。
私自身は、ゲーム理論は状況によっては現実を説明する道具として有用だと考えている。ただ、だからといって何でもゲーム理論で説明できると考えるのは行き過ぎだ。
本書の内容は簡易だとは言い難いし、章によってはゲーム理論との関連が分かりにくいところもあるが、ゲーム理論信仰に待ったをかけるという意味では有用な一冊だと思う。

[ 一言 ]
ここで、答えのない「問い」のようなものを書いてみたい。
経営書なるものを読むと「戦略」という言葉がいたるところに現れ、合理性や論理性が、戦略の適応、そこから生まれた課題、対応などに対する導きの糸として重要視されている。
しかしながら、これらの経営書を読みながら一抹の不安、割り切れなさを覚えるのは私だけであろうか。
書かれていること、説明されていることは頭では理解できるが、「世の中この通りにはならないよ」と何処かに引っかかりがある、モヤモヤとしたものがどこかに残っている、という読後感を持たれないであろうか。
最近、「ゲーム理論を読みとく」という本を読み、この「モヤモヤ感」の一因がゲーム理論で用いられる「戦略」という言葉の含意にあるように思えてきた。
「戦略」とは「競争において優位性を持続させるための方策」であるが、ここで競争する「他者」と「私」の関係はどのようなものと想定されているのだろうか?
ゲーム理論では、そこに登場するプレイヤーは合理的(=論理的)でありながら対話(=協力)をしない「計算する独房の理性」(前掲書)であり、そのプレイヤーが自らの利得を最大限にする方策が「戦略」となっている。
そう、ここでは、論理になじまない不純物、例えば偶然、思い込みなどというようなものは入る隙間がないのである。
流行の言葉を使えば、お互いが想定内の競争を持続させているのである。
しかしながら、我々はこのようなゲームに現実の中で遭遇することは殆どない。
競争する相手が自分と同程度に論理的であるという保証はどこにもない。
そもそも相手が同じ論理体系を持っているかどうかすら保証の限りではない(論理も言語を統制するルールの一つでしかないから)。
しかも、そこでは、プレイヤー同士が直接対話することがなくても、様々な情報が交差することによって解釈や理解が発生している。
現実には孤独な意思決定者などはいないのである。
前掲書では、ゲーム理論が現実の意思決定の一つの背景となった事例としてベトナム戦争を挙げている。
当時、国防長官であったロバート・マクナマラの回想録を読んでみると、当時の米政府はハノイ政権を、そしてその後にいる中国・ソ連を自らの鏡像のように扱っていることが良くわかる。
「自分が相手であったらどう反応するか」という考え方が常に根底にある。
そして、冷戦の真っ只中、相手のことがよくわからないままに、ずるずると作戦をエスカレーションさせてゆくのである。
しかも、驚くべきことには、戦争の当初から「この戦争には勝てないだろう」という漠然とした雰囲気が政府内にあってである。
結果はどうか。
55万もの兵力を投入し、6万もの米軍戦死者(ベトナム側の死者は300万とも言われている)を出して、最悪と考えられていた「撤退」を余儀なくさせられるのである。
ゲーム理論は、数学的に見ても、ORの観点から見ても興味深い学問分野である。
そして、そこでの「戦略」は多くの示唆を我々に与えてくれるであろうと思われる。
しかしながら、その「戦略」がもつ意味づけを十分に考えながら現実に適用していかなければ、先の例のようになってしまう。
現実に起こることは、あいまいな表現ではあるが、ゲーム理論で言う「非協力」ゲームと、「協力」ゲームの中間にあるものであろう。
我々は「計算する独房の理性」でもなければ「完全な対話が行える理性」でもない。
それを踏まえて理論の使い方を考えなければならないのであろう。
最近、ゲーム理論は流行っているという。
現実も理論も踏まえた「戦略」を得る努力が続いて欲しいと思う。
そうすれば、「モヤモヤ感」も緩和されるのではないかと思う。

[ 読了した日 ]
2007年4月20日