関ヶ原古戦場を歩く① | 馬超の気ままウォーキング・趣味の記録

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歩いて歴史上の史跡や雰囲気の良い風情を楽しみながら歩くのが好きです。その土地の小さな史跡も大切で、ゆっくり時間が流れる場所が大好きです。日記のつもりで記録していますので文字が多くて読み辛いと思いますが、興味のある方は観て頂けたら幸いです。

大阪出張を利用して、前から一度行って見たかった『関ヶ原古戦場跡』に行く事にしました。

新大阪から新幹線で米原に移動。その後、在来線にて関ヶ原駅に着いた時には1230分になっていました。

関ヶ原駅前観光交流館にて地図をゲットし、ガイドの方に回り方のアドバイスを貰うと、なんと『関ヶ原合戦まつり』なるお祭りの最中でした。

その影響で、関ヶ原駅の周りにはかなりの人出になっており、ゆったりと回るイメージをしていたのですが、いきなり面食らってしまいました。

また、荷物を入れたコインロッカーは交流館の中にあるので、閉館時間の17時までのウォーキングとなります。

さあ、お尻が決まってしまった今回の

『関ヶ原古戦場ウォーキング』、関ヶ原駅からスタートを切ります。 

史跡に振ってあるアルファベットは、

 E=西軍、W=東軍の史跡を意味します

 また、番号は歩いた順番です。

E-11松平忠吉・井伊直政陣跡 

徳川家康の四男の忠吉とその後見役である直政が構えていた陣。

先陣は豊臣恩願の福島政則に決まっていたが、徳川家が先陣を切る事を重要と考えていた直政は忠吉に初陣を見せると言う張り、福島隊の側を抜け、宇喜多隊に発砲。続いて福島隊も発砲したことにより戦いの火蓋が切って落とされた。


E-12東首塚(首級墳碑)

家康は東西2箇所に首塚を作り、関ヶ原の戦いの戦死者の首と遺骸を葬らせた。

将来、この首塚が谷や山になり変わる事のないように願いながら、祈りを込めて建てられたらしいです。

手を合わさせて頂き、次に進みます。


E-4岡山烽火場/黒田長政・竹中重門陣跡

ここ関ヶ原古戦場跡では、岡山烽火跡に向かう際のみ、コンビニ(ローソン)があるので、そこでおにぎりを購入して先に進みます。

重門は関ヶ原一帯を領していたので、関ヶ原一帯を見渡せるこの場所に陣を構えたとされるが、井伊直政の仲介により東軍に転じていたのだった。


E-4決戦地 

天下分け目と言われた大決戦はこの地で行われました。

兵総数で勝っていた西軍だが、開戦から積極的に戦っていたのは、石田軍・大谷軍・宇喜多軍・小西軍だけだった。

西軍に与しながら事前に東軍に寝返っていた小早川隊を始め、諸隊は西東入り混じった喧騒の中にいた。

そんな中、去就を決めかねていた松尾山に陣取っている小早川秀忠に対して、桃配山から兵を進めた家康は苛立ちを覚えて秀忠に向かって鉄砲を撃つ。

そして、いよいよ寝返りの決断を決めた秀忠やそれに呼応した諸隊が大谷吉継軍の横腹に突き刺さり、吉継の奮戦虚しく西軍は総崩れとなる。

この決戦地は最後に残った石田隊や島津隊に押し迫る東軍とで埋め尽くされたと云います。

東軍の最後の一押しに石田隊も壊滅。島津家も戦線離脱して終わりを迎える事となります。

天下分け目の大戦も、僅か半日程度で終わりを告げたのでした。

今はただの野っ原ですが、この地に両軍の兵隊が犇いていたかと思うと感慨深いものがありました。


W-1石田三成陣跡(笹尾山)

笹尾山は北国街道を抑える場所にあり、盆地を一望出来、防御に適しています。

開戦から黒田長政や細川忠興らが猛攻を仕掛けるが、島左近を中心に石田隊は獅子奮迅の戦いで何度も押し返す。

しかし、左近が黒田隊の銃弾で負傷して戦線を離脱すると石田隊も徐々に押し戻され、午後2時頃にはついに壊滅。

三成は再起を期して、背後の伊吹山方面へ逃れて行ったのでした。

ここでひとつ失敗。

なんと、島左近陣跡を見逃してしまいました。

ちょうど、島左近陣跡辺りが祭りの中心地になっていたので、敬遠したら見事に見過ごしてしまいました。また次回は必ず訪れたいと思います。



↓お祭りの出店で購入した『合戦ちらし』とお握りで暫し休憩タイム
↓あいにくの雨で良く見えませんが、笹尾山からは関ヶ原の大部分が良く見渡せます。
このように有利な陣形を敷いていた西軍が何故負ける事になるのか・・・

W-2島津義弘陣跡 

島津義弘隊、15百余は二番構えとして石田三成隊の側面の守りと北国街道の抑えを任される。

重要な役目を負う島津隊であったが、独断の動きを見せる。自軍に近づく者は東西両軍を問わず、討ち払う姿勢を取った。

たまらず、三成自らが説得にあたっても動かない。そうこうしている内に小早川隊の裏切りで戦場が混乱する中、孤立した島津隊に東西諸軍が迫る中、義弘も討ち死を覚悟するも甥の島津豊久に説得されて撤退を決める。

しかし、ここでも大胆な行動を取る。

義弘は大胆にも東西諸軍が群がる正面を突破して伊勢街道を南方に抜ける進路を取るのであった。

最後の撤退にも、「西軍に薩摩あり」を家康に見せつける為に背進を武器に変え、苛烈な突進で敵中突破を行い、強い印象を残す事に成功したのでした。

幕末維新でも独特な立ち位置であった薩摩だが、この決断が維新の雄を末代までも語り継がせた事は大変興味深かった。 


W-3北天満山小西行長陣跡

肥後半国を両軍していた行長だが、同じく肥後半国を領する加藤清正とは政治的対立を深めていた。

これが文治派と武闘派分裂の原因であると言われている。

同じく文治派であった三成が挙兵すると西軍に与した。

天満山に布陣し、午前8時頃に開戦の烽火を上げると、寺沢広高や戸川みち安らと戦ったが、攻め込まれ切り崩されてしまうのだった。

キリシタンであった行長は自害せずに最後は三成と共に処刑された。

②へ続く