湯田温泉周辺には意外にも史跡が多い。
・中原中也記念館
・井上公園(井上馨銅像、種田山頭火詩碑)
・松田屋旅館(幕末志士ゆかりの宿)
などがありますが、今日は、2箇所をふらっと見て回りました。
⚫️湯田温泉駅
何故、駅に白キツネが居るかと言うと、この地区に語り継がれている伝説に由来します↓
昔々、湯田の権現山の麓の寺に小さな池があった。その池に毎晩、傷ついた白狐がやってきて、足をつけていた。
この様子を見ていた寺の和尚さんが、不思議に思って、その池の水をすくってみると、温かい。
そこで池を深く掘ってみると、
湯がこんこんと湧き、薬師如来の金像があらわれた。
この仏像は拝んで湯あみをすると難病も治る
「白狐の湯」として評判となり、温泉は栄えるようになったということです。
湯田温泉駅を出たら、程近い「周布」という地区
にある「周布公園」を目指します。
⚫️周布政之助の碑(周布公園)
この公園内には周布政之助碑が建てられており、のどかな民家が建ち並ぶ中に威厳を放っています。
周布政之助は、長州藩の財政再建を行った家老 村田清風の影響を受け、抜擢されて行く。その後、周布政之助は若くして長州藩政務役筆頭となり、財政再建や軍制改革、殖産興業など、藩政改革に尽力。また桂小五郎や高杉晋作や優秀な吉田松陰の門下生を中枢に登用した。
しかし、周布政之助は酒癖が悪く、1862年に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎処分となった。
この際、山内容堂は藩主・毛利広封に対して、周布政之助の死罪を迫った為、毛利家は「麻田公輔」と改名させて、江戸藩邸での勤務を続けさせた。
この際、山内容堂は藩主・毛利広封に対して、周布政之助の死罪を迫った為、毛利家は「麻田公輔」と改名させて、江戸藩邸での勤務を続けさせた。
1864年 「禁門の変」で敗退。更に幕府の征長軍を迎え、幕政は俗論派に握られるに至った。
こうした、時局の成り行きに責任を感じ、仮萬先の吉富邸裏庭で自害した。
公園の裏手に彼のお墓があるのだが、それらの事情から、「麻田公輔」として葬られている。
遺書に「屍を公道の傍らに南面して埋めよ。
敵来たらば叱咤して退けん」
と、あったと言う。
いやはや、剛毅な御仁であったことを想わせる。
この頃の方々から見たら、私はなんと貧弱な生き方をしているのだろうか。
などと、思いながら歴史の道を歩いて帰路に着いた・・・