映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 | Zatolog

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つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。

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映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲@U-NEXT


映画クレヨンしんちゃんシリーズの中でも傑作と誉高い作品を再見。

とはいえ、ほぼ内容は記憶になくほとんど初見であった。


しんちゃんの住む春日部市では「20世紀博」というノスタルジックな博覧会が行われており、

しんちゃんの親世代は、子供をそっちのけで童心に返り遊ぶようになってしまう。

それは、21世紀の匂いをどうしても受け付けられない「イエスタデイ・ワンス・モア」と自称する、二人の男女の企みであった。

しんちゃんたちは、父ちゃんと母ちゃんを取り戻すことができるのだろうか。


おそらく『ALLWAYS 三丁目の夕日』に先んじること数年、まずこの時代に着眼したところは一等賞だったのではないだろうか。

『古き良き時代』という言葉には対義語がないような気がするが、思い出は思い出のままで記憶されずに美化されることが多いように思う。

それは人間は忘れる生き物であり、忘れることは希望だからであろう。


この作品でも、しんちゃんの両親は子どもの頃に楽しかった思い出に縋ることで、会社勤めや子育てから逃亡する。

しんちゃんの父・ヒロシも、かつての大阪万博で月の石を見たくてアメリカ館に並びたかったところを、両親から「3時間も並べない」と諌められて号泣したことを忘れていた。

子供のころが良かったというのは、辛かったことを今忘れているだけなのだ。

すべての大人が子供に戻ることで、時の歩みを止めるのが目的なのだが、未来を受け入れるのにそんなに抵抗があるのだろうか。

結局は、悪者たちもしんちゃんたちの行動に希望の光を見出し、自らの策を愚策と認めるのであった。


最大の欠点は、物語を進めるエンジンを「しんちゃんたち子供たちの友情」にするのか「しんちゃん家族の愛情」にするのかが曖昧なところである。

今回は家族愛を最後のキモに持ってきたために、友情が一種の踏み台になっている。

未来への希望を描きながら、子供の団結をロイター板的に使用するのに若干の疑問が残った。


目標まで、あと78本。