ロシア:1941年6月22日はロシア史における悲嘆の日 | already read‐news。ο

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1941年6月22日は、ロシアそして他の旧ソ連邦構成共和国の歴史において、悲しみと嘆きに満ちた日だ。この日、ナチス・ドイツがソ連に侵攻したのだ。

ヒトラーは、ソ連との電撃戦を明らかに期待していた。
彼の全ての計画は、最初の数か月で実現すると思われた。
ソ連軍は頑強に抵抗したが、秋までにドイツ軍は、モスクワ近郊に迫った。
歴史家達は、ソ連は果たしてドイツとの戦争に向け準備ができていたのだろうかという問いを投げかけている。

ソ連が、対ドイツ戦に向け準備をしていた事、それも極めて真剣に準備していた事は言うまでもない。
しかし時の指導者スターリンは、もしソ連がより多くの軍隊を国境に集結させたならば、ドイツを挑発する事になるのではないかと危惧していた。
ロシア科学アカデミー西洋史研究所のナターリヤ・レベジェワ研究員は、そう考えている…
「そうした恐れは完全に間違ったものでした。スターリンは、ヒトラーの御機嫌を取ろうと試み、自分のそうした行動により、ドイツの攻撃を阻止できると考えていました。そのため、ナチス・ドイツの攻撃を受けた後、ソ連は自国の部隊を国境に集結させる暇がありませんでした。その結果、敵はモスクワ郊外まで侵攻してしまったのです。」

ソ連に対するドイツの攻撃は、ロシアでは「背信的なもの」と呼ばれているが、果たしてそれは「思いもかけない」ものだったのだろうか?
なぜなら当時ソ連の軍事諜報部員らは、ドイツがソ連侵攻の準備をしている証拠を送っていたからだ。
しかしソ連指導部は、そうした情報に注意を向けなかった。

ここで「歴史記念」基金調査プログラムの代表ウラジーミル・シミンデイ氏の見解を御紹介したい
「ドイツ軍が国境に集結しているとの情報があったにもかかわらず、クレムリンは、諜報部員らが伝えてきた日付、つまり6月22日には攻撃は行われないと考えていました。おそらく、ドイツ側が流した戦略的デマだと思ったのでしょう。」

現在欧米からは、第二次世界大戦を起こした主犯をスターリンにしたいとするような動きが伝わってくる。
スターリン自身、ドイツ攻撃を計画していたが、ヒトラーはそれに先んじたのだというものだ。
これについて、シミンデイ代表は、次のように述べている
「スターリンの責任は、ドイツの侵略をいち早く撃退する準備ができなかった点にあります。彼自身、それを自覚していたでしょう。 彼が戦争を挑発したなどというのは、全くもって明らかな嘘です。 逆にスターリンは、戦争挑発につながるようなあらゆる行動を どうにかして回避しようと努めていました。」

まさに戦争の当初、初めの数週間そして数カ月は、ソ連にとって最も困難で悲劇的なものとなった。
しかし秋にはすでに、 ドイツ軍司令部が自らのプランにおいて見込み違いをしでかした事が明らかとなった。
なぜなら、ベルリンで言われていたところでは、1941年の秋から、ヒトラーは「スターリンをウラルの向こうに追いやって」イランやイラク、エジプト、スエズ運河地帯を我が物する作戦に着手し、 その後インドにまで手を伸ばすつもりだったからだ。

しかし、そうしたプランは実現される運命にはなかった。

1941年から42年にかけての冬行われたモスクワ郊外の戦いは、これに続くスターリングラード攻防戦やクールスク戦車戦での勝利を用意するものとなり、第二次世界大戦の行方を急転回させた。
ソ連軍将兵のヒロイズム、そしてソ連軍指揮官らの的を得た行動の数々は、ついに1945年春、ソ連軍によるベルリン 陥落をもたらした。

多くの点で、まさにソ連軍のおかげで、この地球上から非人間的なファシズムという理論が払拭された、そう言ってよいのではないだろうか。


22.06.2013
[The Voice of Russia]